昨今、日本語方言の面白さや暖かさを再発見しようというムードが広がっ
ているように思う。
会社や学校で、専ら標準語を使っていると、たまに聞く、日本語であるこ
とはわかるのだが、不思議なアクセントだったり、咄嗟には理解できない
耳慣れない単語は、確かに新鮮である。さらにその言葉に、標準語では
表現が難しい微妙なニュアンスが秘められる事などを知ると、その方言
により興味が湧くものだ。また、自分の出身地の方言を、思ってもいない
場所で聞くと、懐かしい気分になる、そんな経験が地方出身者にはある
に違いない。
方言は、知れば知るほど面白い。捨て去るものではない。
しかしながら、私はある強い疑念を持っている。
次に述べることは、おそらく誰も口にしないだろうし、誤解を生む可能性も
ある。また、この方言ブームらしき雰囲気に水を注すことになるかも知れ
ない。が、敢えて記させてもらう。
それは、方言の中には、表現豊かなコミュニーケーションへと順調に進
化していないものもあるのかもしれない…という疑いだ。それは、いわば、
方言のガラパゴス化と言えばよいのだろうか?
勇気をもってそれを例示させてもらうならば、例えば広島弁だ。
広島弁は、音声学的に言うと、他の方言に比べてピッチの差が大きく他人
に対しより威圧感を与えることがわかっている。そして、男女の言葉にさ
ほど差が無いので、語る人の真意に反してぶっきら棒に聞こえるきらいが
ある。また、謙譲表現に乏しいので、話者の態度が横柄に感じられること
がある。(方言は県民性とも関連があるとも考えられるが、今はその問題
には触れないでおこう。)
広島弁は怖いという巷でのイメージは、おそらく仁侠映画のせいばかりで
はないように思う。
広島のローカル情報番組で、定番の街角インタビューが放送される。
標準語を使い慣れている若い人たちからは感じられないけれど、地元の
お年寄りの話を聞くと、時々聞き手が怒られているのかと思ってしまうこと
がよくあるのだ。よその土地からの来訪者は、きっとそう感じるはずだ。
最近、いずれの地方自治体でも、地方分権の流れに適応するために、財
政基盤を確固たるモノにしたいと考えている。多くの県では、産業と観光
客の誘致に躍起だ。
しかし、観光資源を開発・発見する前に、各地方自治体にとって必要な事
がある。それは、住民のコミュニケーション能力向上を図る事だ。なぜな
ら、観光客を誘致する際、いくら地元民が暖かいハートを持っていても、
肝心のコミュニケーション能力が低くては、折角「おもてなしの心」を表現
しようにもできないではないか?それは企業誘致でも同様だ。
ここで残酷な話をしたい。
先日、広島県江田島で中国人技能実習生が、自身が勤める水産会社の
社長・社員を死傷させるという凄惨な事件が発生した。
部外者の私が、あれこれ推測するのは、不謹慎極まりないが、当事件に
は、多少なりとも、上に述べた要因が関係しているのではないだろうか。
事件後、地元TV局の通訳無しの取材に、不自由そうに答える、被疑者の
知り合いだという中国人を見ていて、なおのことその思いが強くなった。
コミュニケーション能力は、最早身に着けた方がいいという時代ではない
のだ。今後も増えるであろう外国人労働者・観光客。そして海外の人々と
の関係だけではなく、震災の被災者の移住等で、己とは異なる価値観を
持つ人たちと否応無く関わらなければならなくなった各地の現在の状況を
看るに、コミュニケーション能力の向上は、一層強く求められるものになっ
たと言えるだろう。
(中には「郷に入れば、郷に従え」ということわざを盾に、全ての責任を来
訪者に負わせる、論点を履き違えたとんでもないバカがいるのだが…。)
それでは、如何にしてかかる課題を克服するか?
一朝一夕に解決するものではない。
この点において、現在最も建設的な施策は、猪瀬直樹東京都知事が推
進しておられる「言葉の力」再生プロジェクトだと思う。
以上述べたコミュニケーション能力向上の観点からしても、当プロジェクト
が単なる思い付きの発想ではなく、実は極めて重要かつ緊急性の高い施
策だということがわかるのである。
地方においても、もちろん事情は変わらない。
県民のコミュニケーション能力向上─「言葉の力」再生への取り組みは、
東京都と同様、まずは行政サービスから推進していくべきだ。
広島県の湯崎知事には、同様なプロジェクト立ち上げをお願いしたい。