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Flying Dutchmanのブログ

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学生諸君は、すでに期末試験も終わり、

春休みに突入しているのではないだろうか?
試験の結果がどうであれ(大きなお世話?)、持てる時間を自分の為だけに費やせ

るのは学生の時だけ。後悔の無いよう青春を思いっきりエンジョイしてほしい。

かく言う私も、学生時代に戻って勉強をやり直したいと思う事が、時々ある。
おそらくこんな思いを抱くのは、私だけではないのだろう。
というのは、書店には、大人になって学ぶ高校教科書等、それに類するタイトルの

書籍がズラリと並んでいて、それなりに売れているようだから。
聞くところによると、今の教科書は、新しく発見・確認された事実が反映され大幅な

改訂が加わっていて、昔の記述とは随分変わっているらしい。

特に歴史においては、それが顕著であるようだ。
そこで、私は、現役の学生たちに、見くびられないように、最新の(?)歴史参考書

を読んでみようと思った。
もっとも新参考書で改訂された記述と、はるか昔の自分の記憶を比べることなど、

土台無理な話であって、新たに一から読む気持ちで臨んだのである。
久しぶりに読む歴史参考書は新鮮で、いろいろ気付かされることがあった。
そこで、以下、歴史参考書を読んでの雑感を述べることにしたい。ただし、年表に

沿って述べるわけではなく、飽くまでその場の思いつきを書き留めたに過ぎない。


最近のTVのクイズ番組でも頻繁に出題され、昔の歴史記述と現在とではっきりと

違っていると指摘されるのは、なんと言っても鎌倉幕府が成立した年であろう。
私が学生時代の記憶によると、それは『1192年(いいくに つくろう 鎌倉幕府)』だ

ったはずだ。
ところが、最近の有力説だと、『1185年』なのだそうだ。
しかも、この成立年については、もっとたくさんの説が唱えられているらしい。

私は、学生の頃、そんなに深くは考えもしなかったけれども、従来の定説であった

1192年に源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命された年を以って、幕府成立の年

とする(仮に形式説と名づける)のは、今にして思えば確かに無理がある。

なぜなら、鎌倉幕府は今更述べるまでもなく、史上初の幕府政権なのだから、何

を持って政権樹立というかが定義されていない以上、ただ役職に就くこと自体には

なんの歴史的意味も無いからだ。そもそも形式説というものは、既存の規範が定

められている場合に限り有効な説明であって(例えばローマ法王を選出するコンク

ラーベ)、かかる前例の無い事柄には適用すべきではない論理なのだ。


この形式説に対抗して、時の統治者は誰なのかという事を実質的に捉えた場合、

鎌倉幕府の成立年は一体いつになるのだろうか?
ここで、登場してきたのが、源頼朝が国家権力を徐々に掌握していくその過程で、

どの時点でもって日本の最高統治者と認めるのかという視点で捉えた、各説なの

である。


それでは、これら各説のうち最近の有力説と言われる『1185年』説にはどんな意義

があるのか?
1185年という年は、3月に壇ノ浦の戦いが起こって、平氏が実質上滅び、11月に朝

廷から源頼朝に対し、守護・地頭の任命権を与えられたその年にあたる。
この11月をもって、鎌倉幕府成立と主張するのがこの説だ。
頼朝の守護・地頭の任命権掌握は、中央政界に焦点を合わせた場合、さほど重

要な歴史的事項ではないように思われる。しかし、地方に視線を移した場合、事情

は異なる。地方民にとって、守護・地頭が新たな支配層として赴任してくるというこ

とは、統治機構に大きな変動が起こったことを明確に認識する契機となる事件だっ

たはずだ。
実際に、日本全土に幕府方の武士が赴任してきて居館を築き、警察権を行使し、

税を徴収するわけだから、その後、程なくこの統治機構に綻びが見えたとはいえ、

この変革は、当時の地方民にとって強烈なインパクトを与えたに違いない。

要するに、『1185年』説とは、日本を治める支配者が代わったことを全国に認識せ

しめる手段を得た、そのことこそが幕府成立の本質であると唱える、どうやらそん

な説らしい。


さて、ここからは私の妄想により、『1185年』説の意義をさらに膨らませていくことに

する。この守護・地頭の赴任という事件のインパクトの大きさは、全国に残る『平家

落人伝説』からも知ることができる。上に述べた警察権を司る守護は、赴任直後か

ら、逃亡した平氏一門を追討することを最重要任務としていたようだ。
ところが、一般民衆は、平氏に対して、恨み辛みはない。というよりもそのような支

配階層の争いに正直興味は無かったはずだ。
そんな状況の中で、今まで価値観・風習が異なる未知なる集団に対し、『鬼』とか

『穢れた者ども』あるいは逆に『貴人』とレッテルを貼ることで精神的安定を求めて

いた村人たちは、その集団(全てにではないだろうが)に対し今度は『平家の落人』

とレッテルを貼り直したのではないだろうか。因みに、当たり前の話だが、それら

の伝説は、平家滅亡の1185年以降に成立したはずだ。
そして『平家落人伝説』が歴史的に平氏と縁もゆかりも無いはずの地域を含めて

日本全国に分布していることから考えて、源頼朝が地方支配を確実にした守護・

地頭の全国派遣が予想以上に大きな事件だったに違いないと私は思うのだ。


余談だが、一昨年、長い歴史にピリオドを打ったドラマ『水戸黄門』のシナリオの中

にも『平家落人伝説』は登場する。現在においても『平家伝説』が伝わる実在の村

(現在の行政区画では、村ではないが)に黄門様一行が訪れる。その村の伝説を

小耳に挟んだうっかり八兵衛が例によって、悪者が仕組んだ平家の落武者の亡

霊に慌てふためくことが事件の発端になるというものだ。私は、『水戸黄門』という

ドラマは、エピソードの殆どがフィクションだと思っていたので、現在にも伝わる各

地の伝説に題材をとっているシナリオもあることに驚いたものである。


以上、歴史参考書を読むことで思った雑感を、鎌倉幕府成立年に話題を絞り第一

弾として、論旨は支離滅裂ながらも書き留めました。