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日本史の参考書をアタマから読んでみる。当然の事ながら、日本人のルーツ、旧

石器時代あたりの記述はさすがに薄い。
学説を裏付ける証拠となるべき史料が、容易には発掘されるわけがないのだか

ら、それはやむをえない。しかし、ひと昔前の歴史教科書の記述と比べれば、はる

かに充実してきているように思う。日々研究は続けられているのだ。
特に近年、分子生物学の長足の進歩によって、発掘された人骨から抽出された

DNAを解析することが可能になり、古代人の身体的特徴さらには生活習慣までも

が推定できるようになった。現時点において未だその精度は全幅の信頼が置ける

までには至っていないものの、未知の分野に手掛かりを提供できる新たな手段・

技法として、DNA解析は手詰まり感のあった考古学に光明をもたらすことになった

のである。
ただ、このような道具を新たに手に入れたとしても、旧来の偏った国家感や特定の

イデオロギーに影響を受けていては、歴史を探求する学問の将来には多くを期待

できないであろう。したがって、今後は、考古学・歴史学・人類学等においても、よ

り客観的かつボーダーレスな研究を目指して、さらなる規制緩和・官僚主義からの

脱却が求められているように思う。
その意味で、今回の箸墓の学術調査は、わずかな前進ではあるが歴史探求の重

要な一歩として評価すべきではないだろうか。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130221/k10015669321000.html


ともあれ、日本の古代史には、未だ多くの未知の事柄が横たわっている。しかし、

一方で参考書が改訂されるほどに解ってきたこともまた少なからずある。そこで

私は、現在解っていることを繋ぎ合わせるとどんなストーリーができあがるのか、

組み立ててみた。もちろん、これは学術論文ではないのだから、大いに想像力を

働かせて欠落部分を補うことも許されるはずだ。素人の私だからこそ、以下の無

責任な放言が許されると思う(笑)。表現の自由は、当然保障されるべきなのだ。


人類の共通の祖先は、アフリカ・現在のエチオピア辺りに生きた便宜上『ミトコンド

リア・イブ』と呼ばれている一人の女性であることがDNA解析によりわかっている。

そして、彼女から生まれた我々の先祖は、メソポタミア→コーカサス地方→南シベ

リアに集団で移動したと考えられる。一旦南シベリアに落ち着いた人類は、突然変

異により、皮膚の色・身体的特徴を枝分かれさせつつ、そこから東西南北に散って

行ったらしい。そして、人類の広がりは1波で終わったわけではなく、2波3波と波

紋のように拡散していったと思われる。だから、例えばゲルマン民族といっても、何

波にも分かれて欧州に移動していったのである。
また、古代人は我々が想像するほどに海洋を恐れてはいなかったように思える。

なぜなら、海を隔てた島嶼にも古代人の遺跡は発見されており(八丈島には縄文

遺跡がある。)、ピラミッドの基底部からも今から4500年前の船(通称太陽の船)が

発掘されているのだから。人類ははるか昔から航海手段を持っていたことは間違

いなく、むしろ積極的に海を渡っていったとも考えられるのだ。


さて、以上の事柄を踏まえて、極東アジアに焦点を合わせてみよう。

上記の人類の移動過程を考慮すれば、日本列島にやってくる人類は必ず西方か

ら登場してくることになる。しかも高度な航海技術をすでに古代人が持っていたと

すれば、必ずしも、移住ルートは朝鮮半島経由とも限らないことになる。ここが重

要な点だ!(日本列島の古代人は南方人的特徴を持つとも言われていたが、DNA

の分析から推察するに、どうやら、北方からの移入してきた人種の可能性が強い

との結果が出ているらしい。)
そして、発掘された人骨を人骨骨格及びDNA解析により分析すると、縄文時代に

は、朝鮮半島南部から北九州にかけて、ほぼ同一のタイプの人類の集団が生活し

ていたことがわかった。この縄文時代は、なんと1万年も続く。地球環境の変化も

あったはずだが、この時期、人間社会は極めて安定的であったと言えよう。時代を

下って、弥生時代になると、比較的平穏だった社会に戦乱が起こるようになる。弥

生時代といえば、農耕文化すなわち稲作が各地で開始される。農耕文化というと、

平和で安定的な生活がイメージされるが、実態はそれに反して、余剰財物を一挙

に蕩尽してしまうことが社会システムに組み込まれた実は血腥い時代といってもよ

いのだ。このように農耕文化が日本全国に伝播するのに合わせて、共同作業を可

能とする部族社会(あるいはクニと言ってもいいかもしれない)が形成されることに

なる。より大きな統一体が形成されるまでは、断続的にこうした不安定な戦乱状態

が続いたと考えられる。激しい淘汰の末、最終的に、一応の統一政権として各クニ

を束ねえたのがヤマト政権だという理解でよいのではないか。
ただ、ここで厄介なのは、おなじみの耶馬台国をどう位置づけるかである。
しかし、これは現時点では結論は出ない。史料があまりに乏しすぎるからだ。また

そもそも、中国の歴代王朝が編纂した史書をアジア史のベースに敷く従来の歴史

研究が本当に正しいのか、耶馬台国論争が真に日本史にとって重要要素なのか

改めて問わなければならないのではないか、と私は思う。
だから、今回は少し別の視点から、ヤマト王権成立を考えてみたい。


実験的な切り口として、私は『ノルマン・コンクエスト』というユーラシア大陸の地理

的東西対称にあたるグレート・ブリテン島で生起した歴史的事件を、そのまま日本

の弥生時代後期に当てはめてみれば、謎の多い2世紀から3世紀までの期間に

起こったことが推測できるのではないか、と思うのである。
つまり、こういうことだ。先述したように日本列島には、朝鮮半島以外からも例え

ば、朝鮮半島北部、沿海州やあるいは樺太経由など複数のルートを辿って南シベ

リア方面から、波状的に人類が移動してきた。また、稲作を日本にもたらしたの

は、山東半島あたりからやってきた人たちなのかもしれない。
その中に、たまたま攻撃的な膨張主義的な部族がいた。その部族は朝鮮半島南

部に本来の根拠地があったのだろう。すなわち、アングロ・サクソン族が支配する

グレート・ブリテン島を後に征服することになるノルマン王朝のように…。彼らは、

北九州あるいは宮崎のあたりにまず定着し、そこで、社会的な余剰を蓄積していっ

た。そして、機が熟すと、東への移動を開始する。九州北部、今の山口県から瀬戸

内海沿岸の部族集団を支配下におきつつ、彼らは巨大な部族集団へと成長して

いった。結果的に大和盆地に落ち着きはしたものの、東征行動は関東地方にも及

んだと考えてもいいかもしれない。

世界中の多くの神話に登場する神の使者としてのカラスが、紀伊の国から大和に

侵入する際に案内役を務める『八咫烏』として登場するのも、人類の祖先が共通で

あれば、さして不思議ではあるまい。人類の種としての記憶が呼び覚まされること

もあるのだろう。


以上のように、『ノルマン・コンクエスト』を日本史に組み込めんでみると、動的な歴

史像が浮かび上がってくるような気がする。
現時点では、かなり強引ではあるが、『神武東征は、日本史におけるノルマン・コン

クエストである。』という命題も、想像の冒険としては面白いのではないだろうか?
この流れで、さらに想像力を飛躍させると、以降の歴史も興味深い展開になりそう

だが、それはまた次の機会に。 So long!