誰にだって悩みはあるし俺にだってあるし。だけどそれは今までとても小さな明日になれば解消されたり、忘れてしまえるほどの悩みだった。だから俺はあれこれと考えずに直感のまま生きてきた。あの出来事以外は、
俺の中にはいつだって古いロックが流れていたし、俺の中にはいつだってそれを心の中で口ずさんでいたし。それで忘れてしまえるほどとてもちっぽけな悩みだったんだ。
だから俺は夢を見たと思う。その夢はごくごふありふれた、俺みたいな年のやつがみる平凡な夢だ。自分の住んでいる田舎に超有名人が帰ってきて、そいつと仲良くなり、同棲し……恋人関係に……なる夢だった。
だから俺はそんなことアリエネェから何度思い出そうと、どんなに苦しくなろうともあれは夢だと思うことにした。
それでいいんじゃねぇか、所詮あいつは俺との仲を得意な逃げで決めてしまったんだからな――。
山中椿が唇を震わせている。少しだけ視線を下げてアスファルトを見つめている。
「隆言わなくてもいいよね、あなたならわかるわよね?」
俺は笑った。公民館の駐車場に響き渡るほど。
椿は目と口と眉を広げた。まるで貝が開くように。
「所詮あいつはそんなものだったんだろ、俺はあいつの逃避先で逃げ道だっただけだろ、だから、あいつが男になって変わった今は不要なんだろ? アリエネェよなアリエネェ」 椿はどっと身体の力を抜いたように項垂れると、すたすたと俺の近くまで来た。
パンっと高い音がし、少しして俺の頬は熱くなった。目尻からは涙が零れる。
「何よ、何よ何よ何よ、あたしの気持ちも考えてよ、辛いのはあなただけじゃない! それなのに隆は……もうやだ……」
山中椿は唇を更に震わせた。
俺はかなり前だがこれと同じ光景を見た。椿は人前では決して泣こうとはしない、それは人一倍深い内面的な部分さらけ出さないからだろうが、ともかく山中椿の涙だけは見たくなかった。だから俺は言った。
「泣き虫椿、泣き虫……」
胸に重心がかかり、花の香りが漂った。それは椿が俺を抱きしめ俺の顔に椿の髪がかかったからだった。
「ごめん、どうすることもできなくって、ごめんあたし、全て知ってた」
「おまえが俺たちを守ろうとしてたのは何となくだが伝わってた、いつかは俺……あいつと離れるんじゃねぇかって――でも、あいつの一言がなかったから、言葉と行動は証拠だから」
椿はゆっくりと身体を離した。涙が伝うそこを何度も拭って、
「真紀はあなたが謹慎の指導を受けないで済むように、取材陣が押しかけないようにしたのよ、だから自分が男装化してテレビにでれば、話題は逸れるって」
俺は椿の頭を撫でた。椿は上目使いで俺を見た。
「だから何? やり方はあったはずだ、あいつは俺との仲を放棄した。おまえの言うことはわかる、でもな……逃げだろそれが全くないとは言わせん、俺との仲も怖くなったんじゃね? だから最期まであいつは俺に告白させなかった」
椿は下を向いたまま黙っている。俺が言っていることも一理あると思っているのだろう。「でも――」
「でもはいらね。この話題はもうなしな相棒」
俺はそう言って締めくくった。ヘルメットを椿に渡した。椿はギンガムチェックのヘルメットを被ると、何だか身長が低いので歪な感じがする。俺が少し笑うと、椿はキッと目に力を入れた。
「つかさ、朝飯作ってくれよ」
そう言って俺はバイクのエンジンをかけた。椿のヘルメットが背中に当たった。わかったということだろう。
真紀と初めて出会ったこの場所、結局俺達三人は初めから一緒だったんだな、妙な感慨が沸いてきた。そしてぽっかりと空いた俺の胸に風が吹き抜けていった。