学校からほど近いサイクリングショップの隣は空き地になって、隣のビルに挟まれて往来の多い通学路から一歩足を踏み入れるだけでその空き地は死角になった。
松尾純一は顎に手の甲を当て鋭い目つきで言った。
「先輩、気が済みましたね? 大丈夫ですよ兄貴には言いませんから、だから殴ってくださいよ……」
上級生二人は荒い息を繰り返し一人は松尾の髪の毛を掴み、引き寄せもう一人は丸くなった背中に蹴りを入れた。
「二年の癖に生意気な態度取りやがって!」
「そうですよ。生意気なのは俺様なんっすよ。あのでかいのは何も悪くねぇんで……」
上級生は背中を更に蹴った。松尾は一瞬呼吸が苦しかったが、喋り続けた。
「俺様は、デコボコのためならなんでもします。やっとアウトローな俺様も、居場所が出来たんですよ。隆と二人じゃ息苦しかった。でもあいつの歌は、それはもう……」
「うるせぇ、ぶつぶついってんじゃねぇよ!」
それから殴る蹴るの暴行を繰り返し、気が済んだのか二人は埃でも払うように、掌についた汚れを落として、去っていった。
「おれがデコボコになってどうすんだよ……おれは裏方なんだからな……」
松尾は痛みを気合いで殺して起き上がった。松尾は思った。こんなもの兄貴のパンチに比べたらへでもねぇ、と。そしてこれで片がつくなら安いものだと。松尾は自分から二人の上級生を呼び出してわびを入れたのだ。そうでもしないと今日、恭介が数人の男に呼び出されるのは必然だった。豊漁祭も迫っていたこのとき、喧嘩でも起こせば、せっかくの担任のお墨付きもぱあになってしまう。
それに何より、恭介の性格が立ち直りかけているときに、強制的に押し戻されるようなことを黙ってみたくなかった。
「損な役回りな俺様だぜ」
松尾はそう言って手鏡を出し切れた唇の血を拭った。
角を抜け、しばらく歩くといつもの交差点に出る。椿と隆が先にいた。
隆は松尾の顔を上からら下まで眺めた。
「おまえさ、アリエネェ顔してるぞ」
松尾は辺りに視線を泳がせている。
「っておまえだよ、松尾! おまえしかいねぇし」
「ちょっとな、兄貴と喧嘩したんだ」
隆は、のそのそと歩いてきた恭介を一度見て、松尾の肩に手を置いた。
「まあ、そういうことにしといてやるよ。アウトローなおっさん」
「マッチャン、何かあったらあたしから涼子さんに言ってあげるわよ」
椿がそう言うと松尾は顔を青ざめ勢いおく首を横に振った。
「お、おはようございます」
「おはよう、みんなぁ、うわぁ松尾君どうしたの?」
「ちょっとな兄貴と喧嘩して」
「おにぃさん怖いって言ってたもんね……」
良太はそう言いながら松尾の顔に触れる。
「大丈夫?」
「これぐらい、おれさまはアウトローだから」
「そっか、けんかはよくないからね」
良太は掌に血がついていたが、あえて黙っていた。
「さていきますか、ああ授業めんどくせぇ、俺が二人いてくれたら、一人は授業にいかせて、もう一人は一日中好きな音楽が流れている部屋にこもってんのによ」
「そんな都合のいいことあるわけないでしょう、みんなバカはほっといていきましょ」
椿が重いギターを背負って先頭を歩く、その後ろに良太、恭介と続く。隆は、「ばかはないだろ、朝からよ」などと言いながら追いかける。
松尾純一はしばらく立ったまま動かなかった。
恭介が振り返り、手招きをした。松尾は笑って歯を剥き出しにして歩き出した。
数学教師が生徒たちに背を向け黒板に向かっている。隆は手元にあった、消しゴムを適度な大きさ、最前列の椿にまで届く重さにしなくてはならないので、からかうにしては少し大きすぎていたが、「まあいいや」と安易に考え身体を反らすようにして椿へと、投げつけた。
消しゴムは放物線を描いて椿の後頭部に直撃。クラスから低い笑い声がもれ、数学教師は振り返る。しかしそのときには生徒たちの表情は潮が引くように引き締まる。
椿は後頭部に手を当て後ろを振り返りきょろきょろとしている。その姿を見て隆は笑いを堪えようと必死であった。しかしばればれである。隆以外に椿の頭に消しゴムを当てるような物好きはいない。椿は目を糸のように細くして睨むと、消しゴムをむしりだした。
隆は椿に投げてくるならこいという表情だ。
椿は消しゴムを細かくしながら考えていた。隆と出会ったころのように気兼ねなくなんでも言い合える仲に戻れたことを。もしあのとき傍にいたら、隆の傷を余計にえぐってしまったかもしれない。あの辛い時期……椿は常々当たり前に思っているものほど、なくなって初めて気づくものだと思っていた。消しゴムのように都合の悪い部分を消せないのだ。
椿の肩は揺れていた。隆はそれをみてやり過ぎてしまったのかと不安になった。しかししばらくしても消しゴムは飛んでこない。隆は窓から空を見上げた。雲は出ているが、晴れている。
「やばいぞ隆、教科書で避けろ――」
松尾の声が聞こえたので、視線を戻す。
すると、椿が振り返りにやりと笑った。椿の後ろの数人の女子は一斉に隆に向かって消しゴムを投げつけた。
「ちょっ、反則だろ」
隆の声で教師は振り返る。
「ん、何か言ったか――」
「な、何でもありません!」
椿は勝ち誇ったような笑顔だった。女子たちも顔を見合わせ笑っている。
そのときチャイムが鳴って授業は終わりを告げた。
クラスの女子は消しゴムを片付けている椿に言った。
「山中さんってあたしもっとクールなのかと思ってた」
椿は顔を赤くし首を横に振った。
「おまえらぁ俺様にもあてやがって、無罪だぁ!」
松尾がそう言うと女子たちは逃げていった。
放課後になるとF組に向かって、良太と恭介と合流して帰るというのが恒例になっているのだが、津田美咲は教室から出ていこうする良太の背中に、
「あの、良太君……」
と声をかけた。良太は美咲を見て、
「どうしたの?」
「ごめん、何でもない、メールするね」
「さようなら津田さん」
良太はそう言って出ていったのだが、美咲は苦しそうに顔を落としていた。
「もう本番まで時間がないわ、急いでスタジオに行きましょう」
椿はそう言って歩き出す。
「緊張してきた……」
「大丈夫だよ良太君……」
そう言った恭介も本番のことを考えてだろう、顔は強ばっている。
「俺様がいっぱい連れてくからな」
恭介は恨めしそうに松尾見て、ぬっと顔を突き出した。
「松尾君も、トライアングルとかでもいいから持って演奏してみる?」
松尾が歩き出したので、恭介もそう言って後を追う。
「恭介、こっちみんな、それやりながら歩くな怖いわ」
良太と隆も歩き出して、
「トライアングルか……にあってねぇ、松尾はあれだろう。松明を持って踊る、ダンサーとかだな。ジャングルの中にいそうなやつ」
「隆君、それはまりすぎてる。夢にでそうだよ、僕……」
良太はぶるぶると震えている。
「よし、豊漁祭の次のライブにでもやってみよう!」
「頼むからやめれ……」
中央階段を下りて、一階にいくと正面玄関に出る。こちらは来客用で、生徒用玄関は右に曲がって、一年生、教室の廊下を真っ直ぐ進むとあった。隆が靴箱から靴を出している。この先の玄関から下は階段で校門まで見渡せるのだが、ふと隆の動きが止まった。
「あいつ……アリエネェよ」
校門には真紀がウィッグとサングラス姿で立っていた。生徒たちは物珍しそうに真紀を眺めている。
隆が玄関から出ようとしないので、椿はすぐに察した。真紀は大きく手を振っている。
椿はおどおどとしている隆を見て、
「来たからには仕方ないじゃないのよ」
と、言って手を振り返す。
「真紀さんがいるぅ」
「ほんとだ、良太君よく気づいたね」
「俺様、ここに一つの歴史を見たぜ」
隆が動こうとしないので、椿は隆をおいて少し歩いた。
「隆、ここまで呼んでくるわよ。男なんだからしゃきっとしなさい!」
「わかってら、俺にだって例外はある!」
隆はあきらめて歩き出した。
階段を下りて重い足取り一歩一歩前へ出す。
そのとき、真紀の黄色い声が届いた。
「隆くぅんおかえりぃ」
隆の顔は沸騰した。耐えきれずに足早になった。校門まで行くと、真紀と他人だと装いいこうとするので、真紀は口を突き出して、
「隆君――」
隆の腕を取った。そしてメンバーと松尾を見て、
「みんな帰ろう」
と、満面の笑みで言った。
「真紀、くるならくるっていいなさいよ」
「きたきた」
「だからなぁ、毎回言ってるが、それおせぇんだよ!」
「そうか、二度目になるんだな、隆のこんな慌てた姿めったにみれねぇ!」
そういって松尾は隆の背中を叩いた。
「真紀さん、ありがとう迎えにきてくれて、ぼくぅ……感激しちゃいました」
「お、おれも」
「うん、真紀ね一度こうしてみんなと帰ってみたかったんだ」
「変なやつ、それと頼むから手を放してくれ」
隆がそう言っても真紀は手を放さなかった。
「舞ちゃんに会うと大変だから、早くフルハウスに帰ろう」
そう言って隆の腕を引っ張るようにして歩き出した。隆は周囲に目を走らせてみたがSAYAに気づいている様子はないので、歩き出した。
「ぐだぐだしてると、大変なことになりそうだ」
六人は足早にフルハウスへと向かった。
本番まであとわずかという状況はメンバーたちに等しく伝わり、皆真剣な表情で聞いている。老人バンドも少し早く今日はきてパイプ椅子を広げて、演奏に耳を傾けている。
源二は容赦なく真紀を叱咤し、真紀は防音の壁を突き抜けるように返事をする。
見慣れた光景。良太は曲が終わると率先してユキエの下へいって癖が出ていないかなどと聞いていた。恭介は無言でドラムを叩いている。
そんな中、隆は真紀を見ている回数が次第に増えていった。真紀が歌う姿、源二に頭を下げる姿、その並々ならぬ集中力と、思い溢れた行動全てが美しかった。
いつから真紀はこうなっていたんだろう、改めてみるとそこには心動かせる何かが確かにあった。
「隆いくわよ?」
椿がそう言うと隆は我に返った。
「わるい、ぼーっとしてた」
椿はゆっくりと歩いてくる。
「無理もないわ、真紀すごいわよ……隆が乗り移ってるみたいに」
「俺……あんなの?」
「違うともいえるしそうともいえる。質は同じでも異なる。隆は真紀を知っているから伝わってくるんだわ。真紀はわたしたちみたいに幼いころから音楽をしてるわけじゃない。たかだか、一、二ヶ月で成長するわけがないわよ――でもねアーティストって精神状態が投影されるでしょう。真紀は自分を知っている人間。あたしたちやファンね、そういう人には歌声で共感させるところまできたわ」
椿がそう言って話していると真紀が気づいて、にこっと笑った。
「ありゃ、やっぱり真紀だわ」
椿はクスクスと笑った。
「おかしな隆ね、真紀は真紀でしょ」
そう言って振り返り手を叩く、
「次、いくわよ」
そしてメンバーたちは持ち場に戻ると演奏が始まった。
夜も更け時計が三時を回ると隆は目がさめた。そして思わず苦笑いを漏らす。隣で真紀は布団を頭までかぶって寝ていた。おそらくは本当に眠っているのだろう。
隆は真紀の布団を少しめくった、真紀の顔が見えると、真紀の頭に掌を乗せ前後に揺すった。
「おきれ」
真紀は唸って寝返りを打つ。
「おい、おきれ」
隆が激しく頭を揺らすと、真紀は手でそれを払いのけた。
「こいつ自分のときだけ無視かよ。おきれ! 真紀!」
隆は耳元で怒鳴った。
「ちょっと待ってよ……今何時……」
「おまえがいつも、おれを起こすくらいの時間だな」
真紀は隆から顔を背け、
「真紀、寝る。……もう限界」
「絶対にそんなことゆるさんぞ!」
隆は頭を揺すり続けた。真紀は手で払いのけたりしていたが、
「わかった。起きるから!」
語気を荒くして言った。
「おまえアリエネエよな、自分のときはきれてやがんの」
「もう!」
半身を起こしてベッドの上で布団をたぐり寄せて口を突き出した。
「いいから行くぞ、眠れねぇ、散歩散歩」
「寒いからいやだ」
真紀がそうやってだだをこねていると、隆は布団を力尽くではぎ取った。
そしてコートを取りにいく。真紀ものろのろと起き上がってきて、隆に背中を向けて両手を広げた。
「なんだよ……」
そしてトントンと身体を上下に揺らした。隆は舌打ちしてコートを真紀に着せる。
「あー眠い」
「真紀、おまえネタできれてたんじゃねぇの?」
「そんなわけないよ、隆君だからだよ。舞ちゃんなら絶対に起きない」
「おまえってやつが少しわかった気がする。安心したわ」
隆はそう言って真紀の腕を握って玄関に向かった。