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/らる。子息親類郎従等、同じく能員を諫めて云ふやう、「日来(ひごろ)、秘計の企(くはだて)あり。その事風聞あるに依て、この使を立てらるる歟。此所(こゝ)に残心(ざんしん)なかるべきに候(さうら)は/ず。左右なく参向(さんかう)せらるべからず。たとひ参らるゝとも、家子(いへのこ)、郎従を相随へ、甲冑弓箭を著帯(ちやくたい)せしめて、御身の辺(あたり)を離(はな)たれざらん事こそ然るべく候(さうら)へ」と申(まう)しければ、能員、云ひけるは、「甲冑、弓箭の用意は却つて人の疑(うたがひ)を招くに似たり。当時、能員、かゝる行粧(かうしやう)を致すとならば、鎌倉中の諸人、周章(あわて)騒ぐべし。且(かつう)は仏事結縁(けちえん)の為、且は御譲補等(じやうぶとう)の事に付きて仰(おほ)せ-合(あは)さるゝ事なるべし。何となく参らんには、然るべき計(はからひ)なるべきなりしとて、出立たれけり。北条(ほうでう/の)-時政(ときまさ)は甲冑を著(ちやく)し、中野五郎、市河(いちかは)別当(べつたう)五郎は弓に名を得たる者なりければ、征矢(そや)を手挟(たばさ)みて、両方の小門に立ちたり。天野入道蓮景、仁田忠常は腹巻巻(はらまき)を著して、西南の脇戸(わきど)の内に隠れて、今や今やと待ゐたり。能員、運命の悲しさは平礼の白き水干に葛袴(くずばかま)を著し、黒き馬に打乗り、郎等二人、雑色(ざつしき)五人を相倶して、惣門(そうもん)に入りて馬を下り、廊を昇り、妻戸を通り、北面に行至る。蓮景、忠常向うて、能員が左右の手を捕へ、引据て、首を搔(か)きたり。郎等雑色等、驚きて走(はしり)帰り、事の由を告げしかば、子息、親類家子(いへのこ)郎従等(ら)、さればこそとて一幡公の小御所(こごしよ)の引(ひき)籠り、謀叛(むほん)の色を立てたりしに、尼御台所の仰(おほ)せに依(よ)つて、軍兵を差(さし)-遣(つかは)さる。江馬(えま/の)-四郎(しらう)、同太郎殿を大将として、武蔵守(むさし/の-かみ)朝房(ともふさ)、小出(をやまの)左衛門尉朝政(ともまさ)、同五郎宗政、同七郎朝光(ともみつ)、畠山次郎重忠、榛谷(はんがへの)四郎(しらう)-

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