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に眤近(じつきん)の奉公を勤む。今忽に罪科せられんは如何あらん。潜(ひそか)に和平の義を廻さん」と猶予(いうよ)未だ決せずして披露するに及ばず、和田左衛門尉御所に参会して広元に近(ちか)付きて申しけるは、「彼の状定(さだめ)て披露候か。御気色如何候」と。広元「いまだ申さず」と答ふ。義盛居直り、目を瞋(いから)して「貴殿は関東御政道の爪牙股肱(さうげここう)、耳目(じぼく)の職に居(ゐ)て、多年を経給(たま)へり。景時一人の権威に恐れて、諸将多輩(たはい)の鬱胸(うつきよう)を閣(さしお)かるゝ条、寧(むしろ)憲法(けんはう)の掟(おきて)に契(かな)はんや」といひければ、広元打(うち)笑ひて、「全く怖るゝ所なし。只彼(かの)滅亡を痛(いたは)り、同くは和平の義を調へんと思ふ故にて候」と申されしかば、義盛愈(いよいよ)怒(いかり)をなし、傍(そば)近く居(ゐ)-寄(よつ)て、「怖(おそれ)なくば、何ぞ数日を過し給(たま)ふぞ。披露せらるべきか否や、只今承り切るべし」と云ふ。広元「この上は申し上くべし」とて座を立ちつゝ頼家卿に見せ奉(たてまつ)れば、即ち景時に下されたり。景時更に陳謝すべき道なくして、子息親類を相倶し、相州一宮に下向す。然れども三郎景茂は暫く鎌倉に留めらる。その比(ころ)頼家卿は比企六衛門尉能員が宅(いへ)に渡御あり。南庭に於て御鞠(おんまり)を遊(あそば)しける。北条五即時連(ときつら)、比企弥四郎、富部(とべの)五郎、細野四郎、大輔房源性(げんしやう)、御詰(おんつめ)に参らる。その後御酒宴(ごしゆえん)に及びて、梶原三郎兵衛尉景茂御前に候(こう)ず。右京進仲業銚子(てうし)を取りて座にあり。頼家卿即ち景茂を召して、「近日、景時、権威を振ふの余(あまり)、傍若無人の有様なりとて、諸人一同に連判の訴状を上げたり。仲業その訴状の執筆を致しけるぞ」と宣ふ。

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