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先(まづ)鎌倉の民屋(みんをく)を点じて、御座として入れ奉る。其の外の輩(ともがら)は谷に塞(ふさが)り、山に満(み)ちて、思ひ思ひに陣を取る。治承三年十月六日鎌倉山に花開けて瞻々(にぎにぎ)しくぞなりにける。同十一日頼朝の御台政子を大庭平太景義迎へ奉りて、鎌倉に入れ給ふ。めでたかりける事どもなり。

S0104    ○鶴ヶ岡八幡宮修造遷宮の事/6p

大庭平太景義に仰せて、鎌倉小林郷の北(きた)の山を点じて、宮所を造営し、鶴ヶ岡の八幡宮を落慶す。頼朝此の間精進潔斎し給ふ。然るに此の宮所の事本所(ほんじよ)を改(あらため)て新地に遷(うつ)し奉らんは神慮如何(いかゞ)はからひ難し、只神鑒(しんかん)に任せらるべしとて、頼朝自(みづから)御宝前に於いて御鬮(みくじ)を取り給ひければ, 小林の郷に遷り給ふべき由三度まで同じ御鬮の出たりける故にさては神慮も納受あり、危(あやぶ)み奉るべからず」とて、未だ華構の飾(かざり)には及ばすといへども、茅茨(ぼうじ)の営(いとなみ)形(かた)のごとくに修造せらる。抑此の八幡宮と申すは古(いにしへ)後冷泉院の御宇、伊予守源朝臣(あそん)頼義勅(ちよく)を承りて、安部貞任(さだたふ)征伐の為東国に下向ありし時、懇祈(こんき)の旨有り/て康平六年秋八月窃(ひそか)に石清水の八幡を勧請し、宮所(みやどころ)を鎌倉の由井郷に建てられたり。其の後永保元年二月に頼義の長男陸奥守源朝臣(あそん)義家修理を加へ、崇(あが)め祀(たてまつ)り給ひけり。今又是(これ)を小林の郷に遷(うつ)し奉らる。本の宮居をば下の若宮と号し、今の鶴ヶ岡をば上の若宮と申し奉る。往初(そのかみ)平家世を取つ/て

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