最近、
「身体に意識を向ける」ことに
集中して生活していたら
ブログを書く気が起こらず
ネタはあったものの
しばし放置してました
今回の話は、1週間ほど前の
HAPPYちゃん配信を聞いて
思ったこと
(クローズ配信かな?)
わたしは
この世界ができた理由について
大いなる源が
完全調和に飽きて
「違う体験をしてみたい」
と願ったところからスタートした
みたいな説を支持してるんですが
このとき
「違う体験をしてみたい」
という願いが最初に起きた意図
それに伴って起こった物理現象が
ゆらぎであり振動
調和しかなかった場所に
源の意図によって
異質な振動が加わって
無限に分離した世界が
わたしたちが生きてる場所
なんですよね
ここで、
いまのほとんどの人間は
源から遠く離れて
分離して生きているけれど
実はすべての人間に
源の意識は備わっている
だから
それを思い出せばいいだけ
ということは
なんとなく理解してたけど
今回の配信で
理解が深まったのは
源は
意図してゆらぎを起こして
この世界を創った
ということは
わたしたちも真似して
意図してゆらぎを起こせばいい
ということ
いまの世界って
ゆらぎを抑えることが良いこと
になってるじゃないですか
ぱっと思いついた
「現代」を表すワードをいうなら
安定
無難
忖度
同調
予定調和
システム
とかかな
全部、ゆらぎをなくす方向の
ことばたち
ゆらぎをなくすというのは
生物にとっては不自然な現象
どんなに抑えようとしても
ゆらがずにはいられない
だから意図的に抑えると
必ず別の場所で発散される
現代はみんながみんなの
顔色をうかがいながら
みんながお行儀よく
ゆらぎを極力減らした
日常生活を送りながら
一方で
昔では考えられない
おかしな事件が増えたり
著名人がやらかすと
ハンパなく炎上したり
非日常に対して
過剰な反応が起こってる
この現象って
かつて日常の中であった
揺らぎが消えてしまった反動
もあるんじゃないでしょうか
日本って
日本語からも分かるように
どっちつかずであいまいで
ゆらぎの多い国民性
西洋文化は
直線的でゆらぎが少ない
戦後、西洋文化に合わせてきて
直線を目指した結果
日本にゆらぎが減ってきた
本当はもっとゆらいでるのが
日本人の自然な姿
だから かつてのように
日常からゆらいでいけばいい
話を少し戻して
源という存在が
この世界を生み出したように
わたしたちも”意図”を大事にしよう
ということを意識すると
なんだか大そうなことを
想像してしまう
「幸せになる」とか
「仕事で成功する」とかね
もちろん、大そうなことを
意図してもいいんですが
日常という過程を無視して
それは実現できない
ゆらぎのない
直線的な日常のまま
大きなゆらぎだけを求め
一瞬体験してもあまり意味がない
たとえば
家族や知り合い、同僚に
めちゃくちゃムカついてるのに
「怒るのは良くない」と考えて
怒りを抑えて過ごしながら
「家族を幸せにする」
「友人と仲を深める」
「仕事を成功させる」
っていう
大きい目標だけ意図しても
たぶんうまくいかないし
うまくいったとして
そこに喜びがあるのかは疑問
感情は抑えた方が
丸く収まるけど
それで自分が歪むくらいなら
感情が爆発する前に
小出しにしたらいいんですよね
変だと思ったら「変だ」って
言えばいいし
ムカついたら「ちょっとさ…」
って言えばいい
普段からゆらぎ続けていれば
突発的な極端な揺れで
ぶち壊すことはない
自分にしかない「ゆらぎ」
をとことん味わいたければ
素直でいること、そして
五感を研ぎ澄ますこと
ゆらぐことで
人に迷惑をかけることもあるし
誤解を与える可能性もある
でも自分のゆらぎを許せば
人のゆらぎも許せる
いろんなゆらぎが混ざりあって
一見、めちゃくちゃなのに
全体を俯瞰して見ると
ハーモニーを奏でている
っていうのが理想の世界です
いまの大河ドラマの舞台が
江戸時代なんですけど
あの中にいる人達を見てると
「ゆらいでんなー」って
うらやましい 笑
わたしは日頃
時事ニュースを見るときに
コメントとか世間の声も
一緒に見ることが多いんですが
コメントしてる人達を見ると
「みんな真面目すぎる…
」
と思わずにはいられません
あれやこれやの事件も
話題のゴシップも
無関係の第3者が
そこまでムキにならなくても
いいんじゃないの? って
賛同を得ているコメントは
正論中の正論だから
反論しようがないけど
こういう人とは
友だちになれそうにない💦
批判の正当性はさておき
わたしにとって
テレビの向こうの人たちも
自分の一部。
わたしにも
こういう一面あるよね…
って思っちゃうんですよね
わたしはゆらいでたいから
人のゆらぎも許す方向で
いきます
笑
