「ゾルバ・ザ・ブッダ」っていうのは、思想家のOSHOがいう人間の在り方

 

 

 

このことばはHAPPYちゃんの配信で知ったので正確な定義は知らないけど、「俗っぽい生き方(ゾルバ)と精神性の高い生き方(ブッダ)の両方を体現する人」みたいに解釈してます

 

 

 

わたしにとってHAPPYちゃんは現代日本版 ゾルバ・ザ・ブッダの象徴。

(っていうか本人が「そうありたい」と言っていた)

 

 

 

昨日の化粧品配信を見て、「あ、ゾルバ」って久々に思い出しました 笑

 

 

 

 

HAPPYちゃんの精神性の高い話は共感できるけど、世俗的な部分は共感できないことが多々あります

 

 

 

よく考えたら「何もかも合うほうがおかしい」って気づきそうなものですが、たまに見失っちゃうんですね

 

 


こういうことがあるたびに、「すべてを応援できないわたしってどうなんだろう…」ってモヤモヤしてたけど、そんなことで悩むのはムダだ、と気づいたことについて書いてみます

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしがHAPPYちゃんを好きになったのは、ブッダモードの時。考え方や心の在り方をわかりやすい言葉で説明してくれるのが魅力だったんですね。いまも変わらずブッダ推しです

 

 

 

昔はブッダモードが強めだったのが、エンタメに力を入れ出してからゾルバモードがぐんぐん追いついてきた感じがします。ただ、ゾルバの活動もブッダの思想を含んでいて、ブッダの活動もゾルバ要素があるので、切り離すことはできない

 

 

 

聖人君主に偏ることなく、俗っぽさに振り切ることもない


それこそがHAPPYちゃんの魅力である一方、時々混乱してしまうんですよね

 

 

 

 

たびたび起こるわたしの混乱はこんな感じ↓

 

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ゾルバの活動は興味がない

 

でもブッダは好き

 

ゾルバ活動でもブッダが見えかくれする

 

だからゾルバも追うけれど、共感できないことも多い

 

ゾルバに共感できなかったのが、「わたしブッダに共感してないのかな?」と悩む

 

 

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みたいな

 

 

 

一般的にはゾルバ的な人かブッダ的な人か、どちらか一方で活動しているのがほとんど

 

 

 

そっちの方が、ファンとしても応援しやすくてラク

 

 

 

でもそういう人の周りを見ていると、諸刃の剣なところもあって

 

 

 

ブッダ的な人がゾルバを見せると、途端に「そんな人だと思ってませんでした」ってなったり

 

 

 

ゾルバ的な人がブッダを見せると「そんなの求めてねーし」って冷めちゃったり

 

 

 

人間なんてグラデーションがあって当たり前。なのに、自分の想像通りの人じゃないと幻滅しちゃうなんて、本当のファンじゃない

 

 

 

でも、片側しか見せていない本人にも同じくらい責任ありますよね

 

 

 

色んな面を見せて嫌われるのがイヤだとか

 

イメージを固めた方がラクだとか

 

 

 

ある人気著名人も聖人的な部分しかピックアップされてないけど、実は黒いウワサがあるとかないとか。陰がひとつもない人なんて、いるはずないのにね。本人もツラいだろうな

 

 

 

そんな中で、HAPPYちゃんはゾルバブッダを同じくらい見せてる


ほかにもいるんでしょうが、これだけ振り切ってて、しかも手の内も全部見せる人はそういない

 

 

 

で、昨日の配信で久々にゾルバに全振りしてるHAPPYちゃんを見て、ふと気づきました

 

 

 

わたし、毎回HAPPYちゃんのゾルバ的な部分を見てモヤってたけど、もうそろそろ、モヤるの飽きたんじゃない?笑

 

 

 

好きじゃないなら、ゾルバHAPPYちゃんの細かい活動にフォーカスしなくていいんじゃん。ただし、そこにブッダの要素を見つけたときは共感しよう

 

 

 

わたしはそれでいい

 

 

 

いちいち虫眼鏡で拡大するんじゃなくて、ちょっと遠目で見ていよう

 

 

 

「これだけ両極端に振り切っても大丈夫なんだよ」っていうのを、目の前で体現してくれてる。それだけで十分じゃん?

 

 

 

片側だけに傾いている人より、よほど成功してるし人生を謳歌してる。そういう生き方は可能なのだ、ということを教えてくれる

 

 

 

これに気づいたら、めんどくさい”モヤり癖”もどうでもよくなりました

 

 

 

ゾルバ・ザ・ブッダを見せてくれてありがとう。これからもガンガンやっちゃってください、ってことで指差し