Thu 240627 こりゃ永遠に、授業では誰にも負けないかも/京都、バラ園の風景 4543回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 240627 こりゃ永遠に、授業では誰にも負けないかも/京都、バラ園の風景 4543回

 さて、ではまたゴゴゴゴ(スミマセン、前回の続きです)、6月26日の誕生日を目いっぱい満喫した後の今井君は、再びゴゴゴゴ(スミマセン、繰り返しますが前回の続きです)、異様なほどの元気と活力と魔力と破壊力を発揮して、大ベテラン予備校講師としての大活躍を再開したいと考える。

 

 いやはや、カズこと三浦知良どんはとうとう57歳になって、それでも現役サッカー選手を続けるんだそうな。サッカーと予備校講師は全く違う話であって、そりゃさぞかしヘトヘトだろうし、全力疾走して蹴つまずくこともあるだろうに、どこまでも現役にこだわるんだそうだ。スゲーことじゃないか。

 

 そこへ行くとワタクシなんかは、弱音ばっかり吐いていてマコトにダラシない。不甲斐なく、腑甲斐なく、怯懦で情けない日々を続けている。別に全力ダッシュが必要な職種でもなし、90分間走り続ける持久力だって要求されない。それなのに、果てしなく弱音を吐くのである。

  (5月25日、京都府立植物園のバラ園が美しかった 1)

 

 もっとも、サッカーと同じ「90分」という授業の制限時間はもどかしい。何なら延長戦になっても全然オッケーなのだ。サッカーの延長は確か15分ハーフ×2であるが、今井君は延長だって、もし頼まれれば相手が倒れるまで続けても一向に構わない。

 

 いや、今でもダブルヘッダーが大好きだ。なかなか申し出てもらえないが、何ならトリプルヘッダーでもいいぐらいだ。かつては駿台の夏期講習で50分授業 ×12だの、代ゼミの夏期講習でも90分授業 ×7だの、その類いの人間離れした大活躍を演じていた。

 

 今やワタクシの目標は、「100歳の予備校講師」なのだ。ワタクシが100歳になるまで、予備校とか塾とかいうプラットフォームが日本に残っているかどうか、いや100歳の誕生日にこの日本にまだ受験生というカテゴリーが残っているかどうか、その辺がはなはだ心配であるが、今井個人としては100歳になってもなお、誰にも負けるとは思えない。

  (5月25日、京都府立植物園のバラ園が美しかった 2)

 

 今井君が18歳の浪人生だった頃、駿台予備校には「下手すると100歳?」と思うような、名物オジーチャン講師が何人も存在した。古文の小柴センセは、駿台始まって以来の先生だったし、後に「久米仙人」とアダナされるようになった久米センセだって、すでに十分老いた仙人の貫禄を備えていた。

 

 ワタクシの好みとしては、古文や漢文の先生はやっぱりオジーチャンがいい。余裕たっぷりの笑顔のオジーチャンが、もどかしくなるほどゆったり落ち着いた口調で語る古文漢文の授業ほど、知性の本質を見せてくれる世界はない。

 

 20世紀の女子校なんかで一番人気が高かったのは、滋味溢れるオジーチャン先生だったんじゃないか。いや、「オバーチャンの古文」なんてのもいいですな。何しろ20世紀の予備校というのは男社会であり続けたから、21世紀になってもなお女子のセンセの比率は低い。

 

 そこへ80歳過ぎたシャープで知的なオバーチャンが一人出現し、マコトに優しい口調で古文の神髄なんか語り出してみたまえ。教室はたちまち熱心な古文ファンの男子&女子でいっぱいになるんじゃなかろうか。

  (5月25日、京都府立植物園のバラ園が美しかった 3)

 

 遥かな昔の駿台には、このブログで何度も紹介した桑原岩雄師もいらっしゃった。まだ若き今井君が最も尊敬したセンセであるが、彼こそ「精選」「精読」「味読」を最も大切にされていた先生であって、驚くほど大きな活字のテキストで、50分で3行か4行しか進まない。何とも栄養&滋養の豊富な先生だった。

 

 そして英語なら、やっぱり奥井潔センセなのだ。先生のテキストは、どこまでも精選、精選に精選を重ねて、1時間で10行か15行か、4月下旬から7月上旬までの2ヶ月半で、全部で50行も進めばいいぐらいだった。

  (5月25日、京都府立植物園のバラ園が美しかった 4)

 

 若き今井君は駿台講師として6年。その後半の3年間は、奥井先生と同じテキストも使わせていただいた。「東大文系&理系スーパーコース」だったが、さすがにまだまだ未熟な今井君は、奥井先生が半分も終わらないテキストを、1学期で全ページ全て解説し終えてしまった。

 

 褒めてもらえると思って「ボクは全ページ完了しました」と報告に及んだところ、奥井先生に「バカモノ」「速すぎるではないか」「そんなに軽薄にどんどん進めたら、奥深い芳醇な授業なぞ、決して出来っこないので、ある!!」と一喝され、「そもそも、君のメッチエは何なのかね?」と、静かな厳しい視線でじっと見据えられた。

 

 その「メッチエ」というのが何なのか、そもそも分からなかった。「メッチエ?」「そりゃいったい何どすえ?」であって、そんな状況で「キミのメッチエは何かね?」と尋ねられても、ただ目を白黒させるばかりだった。

 

 仕方がないからニタニタだらしなく笑ってゴマかしたが、今の長ったらしいだけの「共通テスト」なんか、先生の厳しい叱責にあえば、春の淡雪みたいに一瞬で解けてしまいそうだ。「速く大量に」がウリの授業では、生徒諸君は精神も肉体も疲弊するだけで、人間としての実力なんか全然つかない。

  (5月25日、京都府立植物園のバラ園が美しかった 5)

 

 しっかり精選して、深く豊かに力強く。オジーチャン&オバーチャンにしか出来ないそういう授業があるはずだ。90年代の駿台英語に、浜名師というもう一人のオジーチャン講師がいらっしゃって、この先生もまた「深く豊かに精選して」という方針。決して「大急ぎで速読」みたいな愚かなことはなさらなかった。

 

 休み時間に講師室に戻ってくるたびに、「疲れましたな」「疲れて身体が冷えてまいりましたな」と低く呟き、身体の冷えを感じると小さなキャンディ型のヨーカンを、ポケットから出してつまみ食いなさるのである。

  (5月25日、京都府立植物園のバラ園が美しかった 6)

 

 講師室で召し上がるランチも、若い講師陣とは全く違う。「若い講師陣」と言っても、そのほとんどは50歳代なのであったが、彼ら彼女らはみんな一律に1700円の講師弁当。最も若いまだ30歳代中盤の今井君なんかは、そんな豪華なお弁当を遠慮して、講師室の片隅で学食のカレーやお蕎麦をかき込んでいた。

 

 ところが浜名先生は、何と「ゴハンが半分と、味噌汁」と、静かな声で注文なさるのである。「ゴハンが半分」とは、小さなお茶碗に半分、遠慮がちにちょっぴり盛っただけのゴハンであり、味噌汁もやっぱりごくごく地味なワカメとお豆腐、またはワカメとナメコ、その類いの味噌汁なのだった。

 

 そういうランチを静かに召し上がって、午後の授業にも静かに音もなく出かけていかれる。「特設単科」もやっていらっしゃったが、他のスター講師に遠慮してか、講座名は平凡に「私大英語」。「私大」とは要するに早稲田と慶應のことなのであるが、個人名の出る特設ゼミにありがちなド派手な講座名なんか、絶対につけないのである。

(5月25日、京都府立植物園の温室で、熱いクチビルのようなお花が咲いていた)

 

 ワタクシはこれから遠い将来、今の今井君みたいな生ぐさ坊主ではなくて、あの久米仙人や小柴・桑原・浜名師みたいな、老練きわまりない枯れた名人先生になりたいのだ。

 

 さすがに「奥井潔師みたいになりたい」「鈴木長十の跡継ぎになりたい」みたいな僭越で傲慢不遜なことを口にする勇気はないが、じっくり十分に精選したテキストで、芳醇かつ豊穣、決して青年諸君の心を疲弊させることのない、優しく地味豊かな授業を、何とかして100歳まで続けたい。

 

 だから諸君、誕生日イブが来て、誕生日そのものも来て、誕生日はもう昨日のことになって、また長い1年のスタートを切ったわけだけれども、この1年もまた修業、365日後に始まる次の1年もまた修業、修業また修業の年月が続く。

(京都府立植物園からすぐ、「半木の道」あたりの鴨川の風景。1年で一番穏やかな季節を迎えていた)

 

 誰か、この今井君がついに100歳になった時、今日のブログを記憶してくれていて「100歳の予備校講師」とでもタイトルをつけた特集テレビ番組でも企画してくれないだろうか。

 

 いや、そんなの絶対に無理に決まっている。まず、そんな遠い将来まで今日の記事を記憶してくれている人はいないだろう。それどころか、そんな遥かな未来まで、テレビだなんていうオールドメディアが生き残っているとは思えない。テレビどころかインターネットだって、どうやら命ははかなそうだ。

(5月25日、京都北山コンサートホール内「カフェ コンチェルト」にて。どれもみんな旨そうだ。このごく普通のカレーもいいですな)

 

 じゃ、仕方がない。諸君の息子にも娘にも、孫女子や孫男子にも、今井というこの異様に元気な予備校講師のことを語り継いでくれたまえ。今の読者諸君が現役を引退して、退職金をもらって年金生活に入るほどの年齢になっても、きっと今井はランチに「ゴハンが半分と、味噌汁!!」、間違いなく続けている。

 

 むしろ問題なのは、その頃の日本に退職金や年金が残っているかどうか、それどころか日本という国が存続しているかどうか、その類いのことであるが、そこは諸君、ワタクシは深い森の中のツル植物並みに生命力の強い人間だ。少なくとも日本の年金制度よりは長生きして、元気いっぱいに授業を続けていく。

(カフェ・コンチェルトのナポリタン。京都でクラシックを聴く前は、何が何でもこのナポリタンがいい)

 

 ま、心配なのはむしろ、この余りにも強烈なエネルギーなのだ。「ゴハンが半分と、味噌汁」ぐらいに優しく静かに枯れた人間になれればいいが、今のところ今井君は、朝ごはんを貪りに「なか卯」に出かけ、「豚汁と目玉焼きとベーコンとシャケ」の定食を注文し、しかしやっぱり「シャケをもう1切れトッピング」、そんな真っ黒なツキノワグマみたいなヤツであり続けている。

 

 しかしそこはそれ、豊かに枯れるための修業を重ねることだ。京都府立植物園の年間パスポートを所有し、四季の花を眺めて心を落ち着かせ、京都北山コンサートホールに出入りしてはバイオリンやチェロの音でますます心を鎮め、大阪では文楽、東京ではシェイクスピア、そういう日々を心がければ、いつか必ず「ゴハンが半分と味噌汁」、その境地に到達することができるはずだ。

 

1E(Rc) Amadeus String Quartet:SCHUBERT/DEATH AND THE MAIDEN

2E(Rc) Solti & Chicago:BRUCKNER/SYMPHONY No.6

3E(Rc) チューリッヒ・リチェルカーレ:中世・ルネサンスの舞曲集

4E(Rc) Muti & Philadelphia:PROKOFIEV/ROMEO AND JULIET

5E(Cd) Karajan&Berlin:HOLST/THE PLANETS

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