Mon 240311 博多にて/大震災のこと/サンダーバード&しらさぎ、ラストラン 4503回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 240311 博多にて/大震災のこと/サンダーバード&しらさぎ、ラストラン 4503回

 昨日の朝は名古屋にいた。名古屋から博多に移動し、そのまま佐世保に向かい、佐世保で講演会を済ませたのが20時、メシも食べずに博多に帰ってきた。

 

 5日は京都に宿泊して、6日の午後に金沢に到着した。京都から金沢まで、直通の特急「サンダーバード」に乗った。1964年の誕生以来、60年間の長きにわたって近畿圏と北陸を結んで大活躍した「サンダーバード」、まもなくラストランの日を迎える。

 

 誕生当時の愛称は「雷鳥」、やがて「スーパー雷鳥」に名称が変わり、「すんげぇ雷鳥」「ものすごい雷鳥」という訳の分からない雷鳥として大阪と金沢&富山間を快走したが、1997年のダイヤ改正で「サンダーバード」に改称。1997年はワタクシが駿台から代ゼミ移籍した年であって、マコトに感慨深いものがある。

 (金沢駅に到着したサンダーバード。2024年3月6日 1)

 

 前身の「雷鳥」が誕生する2年前、当時の日本最長だった「北陸トンネル」が開通している。1962年、敦賀―今庄間に、総延長約14kmのトンネルが開通。記念切手も出た。青森から大阪まで日本海に沿って快走する特急「白鳥」が北陸トンネルを抜ける図柄の、茶褐色1色の切手だった。

 

 北陸トンネル開通以前の北陸本線は、険しい山道をうねうね、何度も何度もスイッチバックを繰り返し、上り列車と下り列車のすれ違い待ち合わせを繰り返す、マコトに19世紀的な鉄道だった。

 

 列車に立ちはだかっていたのは、鉢伏山。そんなに高い山ではないが、木の芽峠とか山中峠とか、木曽義仲に浅井&朝倉に柴田勝家、血なま臭い戦いに明け暮れた武将たちがシノギを削った険しい峠道を、蒸気機関車が真っ黒い息も絶え絶えのありさまで走っていたのである。

 (金沢駅に到着したサンダーバード。2024年3月6日 2)

 

 山陽新幹線の六甲トンネルに「日本最長」の座を譲ったのが、1972年。ミュンヘンと札幌でオリンピックがあった年であるが、まさにその1972年11月、北陸トンネルを走行中の青森行き寝台急行「きたぐに」で列車火災が発生。30人の死者を出す大惨事になった。

 

 火災は、午前1時過ぎ、食堂車の喫煙室から発生。800名近い乗客は、まさに熟睡中であった。列車は急停止して消火活動にあたったが、まさにその消火活動中に火が燃え広がって送電停止の状態になり、敦賀から5km、今庄から8km、最悪の位置の真っ暗闇で、乗客800名が猛火&猛炎に襲われる事態になった。

 

 乗客は、それでもレールを触りながらトンネルの出口を目指す。「レールに触れながら行けば助かる」と呼びかけたのは、ワタクシの級友だった高井君と小林君の父親であって、国鉄職員として秋田から大阪への出張の帰りにこの惨事に遭遇した。

 

 結局、乗客の救出が終わるまでに10時間以上が経過。北陸トンネルの出口にテレビカメラがズラリと並んで、真っ黒い煤だらけになってトンネルから這い出てくる乗客の姿を映し続けた。

 

 20世紀の中盤には、北海道の炭鉱で頻繁に落盤事故があり、同じような悲劇の映像には何度も触れていたけれども、何しろ「きたぐに」は幼い今井君が住んでいた町にも停車する馴染み深い寝台急行列車だったから、この時のショックはマコトに大きかった。

 

 (金沢駅に到着したサンダーバード。2024年3月6日 3)

 

 その北陸トンネルを60年も駆け抜けてきた特急サンダーバードが、とうとうラストランを迎えるのである。3月16日に北陸新幹線が金沢から敦賀まで延伸すると、JRという会社は「何が何でも新幹線に乗せよう」と異様に頑張るから、「もうサンダーバードが敦賀から先に行く必要なんかない」という判断になる。

 

 すると、近畿方面から北陸に向かう乗客は、何が何でも敦賀で1度乗り換えを要求される。今の西九州新幹線も同じことで、「長崎に行くんだったら、何が何でも武雄温泉で乗り換えなさい」というスタンスになる。

 

 足の悪いジーチャンも、旅慣れていないバーチャンも、大っきなキャリーケースとベビーカーを引いてニッチもサッチもいかないママたちも、意地でも乗り換えを要求される。加賀や能登の温泉を目指してのんびり旅をしようにも、誰がなんと言ったって「敦賀で乗り換え」、それ以外の選択肢はありえない。

 (金沢駅に到着したサンダーバード。2024年3月6日 4)

 

 すると、明らかな近代歴史遺産も容赦なく放置され、放置されれば当然のように朽ち果てていく。

 

 米原から琵琶湖の東を北に向かって走り続けた北陸本線それ自体が近代歴史遺産。北陸トンネルも、もちろん歴史遺産。急行「きたぐに」の大惨事の記憶も、木の芽峠や鉢伏山や山中峠の記憶もまた歴史遺産。それらがまもなく「放置」「忘却」の対象になろうとしている。

 

 ま、それも致し方ないのだ。すでに新・北陸トンネルが完成して数日後に敦賀―金沢間の新幹線が走り始めようとしている以上、それを祝福して素直に時代の流れに乗るか、変にノスタルジックになって「残せ」「残せ」とムクれてみせるか、マトモな人は間違いなく前者を選択するのだ。

 

 そこで諸君、ワタクシはとりあえず「ラストラン」と称し、出張のスケジュールに合わせて「サンダーバード」への乗車を試みた。3月4日に淡路島で公開授業、3月7日に金沢で講演会、というスケジュールなら、6日か7日にサンダーバードで大阪か京都から金沢に移動、まさにピッタリのタイミングじゃないか。

(3月8日、直通の特急「しらさぎ」金沢から名古屋に向かう)

 

 そしてワタクシからは、2011年3月11日の記憶も、まつわりついて離れない。13年前の3月11日、若き今井君は大阪からサンダーバードに乗って雪の北陸路を北上、それこそ国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だったのであって、沿線の高い杉の木々が、北陸の重たい雪を被って冷たい風に揺れていた。

 

 あの時、金沢に到着したのは14時30分。当時の真面目な今井君は、長い出張にはキャリーケースを同伴していくことにしていて、定番の赤紫色の中型キャリーケースを引きずり、駅前のANAクラウンプラザホテルにチェックインした。時刻は14時40分だった。

 

 エスカレーターを降りて、17階の部屋に入ったと同時に、部屋の窓の重いシェードがガタガタ不気味な音をたて始めた。マコトに周期の長い揺れで、始めは隣の部屋の誰かがふざけて壁でも叩いているのかと勘違いした。それが東北の大地震だった。

(金沢駅で出発を待つ特急「しらさぎ」、2024年3月8日 1)

 

 そこからのことは、何度もこのブログに書いた。テレビをつけて巨大地震のニュースを知り、画面は名取川の河口付近に切り替わって、まずは河口を襲った真っ黒い津波が、荒涼とした冬の田んぼと、住宅地と道路を次々に飲み込んでいった。

 

 それでもその夕暮れには富山で公開授業があり、まだ動いていた17時のサンダーバードで金沢から富山に向かった。同じ金沢駅のホームに、北海道まで行く予定の豪華寝台特急トワイライトエクスプレスが停車中。地震の後の運転再開を待っている様子だった。

 

 13年前、富山での公開授業は出席者130名。21時すぎ、大喝采とともに授業を終えて富山駅に向かうと、日本海沿岸にも大津波警報が発令されて、特急は全て運休となり、ワタクシは各駅停車で雪の倶利伽羅峠を1時間かけて横断、深夜23時過ぎの金沢駅に辿り着いた。トワイライトエクスプレスがまだ金沢に停車中だった写真は、13年前のこのブログに掲載した。

 

(金沢駅で出発を待つ特急「しらさぎ」、2024年3月8日 2)

 

 こういうふうで、北陸トンネルとサンダーバードには、どうも明るい記憶が結びついてくれないのだ。それでもまあ諸君、わがままは言いっこなし。2024年のワタクシは、60年も走り続けてすっかり年老いたサンダーバードのラストランを、大いにエンジョイしたのである。

 

 金沢への直通ラストランについては、サンダーバードに限らない。長く金沢―名古屋間を走り続けた特急「しらさぎ」も、同僚というかライバルというか、サンダーバードと同時に直通ラストランということになるはずだ。

 

 かくいう今井君は、金沢の翌日3月8日には岐阜で公開授業があった。まさに「しらさぎラストランをエンジョイしてきてください」というようなスケジュールだったから、3月8日のお昼にはホクホク「しらさぎ」に乗車。米原で進行方向が変わり、乗客みんなで協力して座席の向きを変えるクラシックな特急列車を、心ゆくまで楽しませてもらったのである。

 

1E(Cd) Rubinstein:CHOPIN/MAZURKAS 2/2

2E(Cd) Lima:CHOPIN FAVORITE PIANO PIECES

3E(Cd) Menuhin & Bath Festival:HÄNDEL/WASSERMUSIK

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