Thu 240201 仕事はじめと春スケジュール/中学入試の日じゃないか/豊竹咲太夫 4490回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 240201 仕事はじめと春スケジュール/中学入試の日じゃないか/豊竹咲太夫 4490回

 昨日の夕暮れに、大阪から帰ってきた。1月29日には大阪の豊中で160名、1月30日には同じ大阪の堺で200名、大盛況の公開授業が続いて、遅ればせながらこの2つが今年のワタクシの仕事はじめになった、

 

 この春も、やっぱり激しい東奔西走が続くのである。東奔西走ついでに、今年もまたたっぷり国内の観光を満喫するつもりでいる。

 

「暖冬」などという言葉はもう生やさしいので、こんなに暖かい日々が続くようだと、2月には梅が終わり、3月中旬には桜も散り始めそうだけれども、まあそれでもスケジュール通りに日本中を巡り歩こうと思う。

(12月13日、大阪・梅田で講演会。230名の大盛況。詳細は、次回の記事で 1)

 

 気がつけば2月1日、東京都内の中学受験は今日が本番だった。開成に麻布、桜蔭に女子学院、さぞかし今朝の校門付近には、ママやらパパやら塾のセンセやらに引き連れられて、主役の小6生がワンサ、思い切り緊張した表情で試験会場に入場して行ったことだろう。

 

 思えば、懐かしい世界である。20歳代の終盤、バイト感覚で塾の校長をつとめていた時代がこの今井君にもあったが、2月1日には今井君も、生徒&ママ&パパの付き添いで中学校に張りついたものである。朝6時に塾に集合、そこで最後の壮行会があって、各受験校別に出発式みたいなのもやった。

 

 4科目の試験が終わっても、まだ12時をちょっと過ぎたあたり、生徒&ママまたはパパと昼食をとってから塾に帰る。待ち受けていた各科目の先生方と、ついさっき受けてきたばかりの試験の答え合わせやなんかが始まり、その段階でもう泣き出す者、快哉を叫ぶ者、「いやまだ早い」と諌めるセンセ、昔も今も間違いなく、「中学受験は塾の花」なのである。

(12月13日、大阪・梅田で講演会。230名の大盛況。詳細は、次回の記事で 2)

 

 ここでは気軽に「ママ&パパ&センセ」とか言っているが、そういう人々が今40歳代の半ばだとすれば、まさに今井の元生徒たちなのだ。息を呑んで結果を待ち受けるママもパパもセンセも、河合塾の元生徒、駿台の元生徒、代ゼミの元生徒であって、下手をすれば東進の元生徒だって、そろそろママ・パパ・センセの仲間入りをしてくるかもしれない。

 

 しかし諸君、その中学入試で勝ったとか負けたとか言っても、その3年後があり6年後があり10年後があって、2月1日の勝った負けたは、長い人生の中でそれほど大きな問題だとは思えない。10年後があるなら、20年後とか30年後とか50年後もあり、もっと言えば100年後やら150年後なんてもある。

(大阪ウェスティンホテル付近、2023年のクリスマスツリー 1)


 今井君は何しろ「中学受験」と言ふもの自体がほぼ存在しないド田舎の生まれだから、12歳の段階では勝った負けたは一切ナシ。15歳の勝った負けたは一応存在したけれども、競争するとして県立高校一択だから、そんなに大した勝ち負けはナシだった。

 

 18歳の時の勝った負けたは、いやはや手ひどく地面に叩きつけられたけれども、それでも知らんぷりしてムックと立ち上がり、22歳だったか23歳だったか、またまた勝った負けたの世界に踏み込んだが、まあそこでは何とか勝った(気がする)。

 

 勝ったけれども、勝ち抜いて入り込んだ大会社からビックリするほどサッサと逃げ出して、そのまま今の現場で数十年、何だか知らんが勝ち抜いた。と言うか、勝ち残った。長い長いトーナメント戦みたいなものであるが、腕一本で勝ち抜ける世界ってのは、マコトに気持ちいいものでござるね。

(大阪ウェスティンホテル付近、2023年のクリスマスツリー 2)

 

 で、どうやら勝ち残って、いい年をして現場の講師として周囲を見渡してみると、いやはやどうやら同僚たちの最年長組の1人になっている。今井君より年長の予備校講師で、現役最前線で日本中を飛び回っている人なんか、ほぼ皆無に近い。

 

「果たしてこれって、勝ち残ったの? それとも取り残されたの?」と、じっと手を見て、じっと鏡を見て、過ぎ去った長い地道な戦いの日々を思い、これからの行く末を思うのである。

(阪急百貨店本店「神田やぶそば」、あんかけ揚げ蕎麦。コイツがワタクシのお気に入りだ)

 

 困ったことに、気力も体力も全く衰えてくれない。いやはや全然衰えないし、全く衰えてくれない。せめて「疲れたな」とか「あーあ」とか「やれやれ」とか「どっこいしょ」「どっこらしょ」その他、精神力の衰えを如実に示すような吐息が口から漏れてくれないかと思うのだが、そんな気配は全くナシ、元気いっぱいの楕円の顔が鏡の中でニタニタするばかりだ。

 

 それどころか、ホントのことを言うと、ワタクシはこの厳しいスケジュールでもまだ満足がいかないのだ。もっと働かないと、肉体もココロも精神も知力もどんどん緩んできて、ワタクシの場合、知力の緩みは病気につながる。あくまで今井君の場合だけであるが、知的に緊張しまくっていないと風邪をひく。風邪は万病の元である。

 

 だから関係者諸君、もっともっとワタクシを働かせてくださらなければ困る。スケジュールがあんまり空いていると、風邪をひく。サトイモが風邪を引かないように、この夏も、この秋も、次の冬も、遠慮なくどんどんスケジュールを埋めてくれたまえ。

(新大阪駅「弦」のきつねそば。おあげさんがデカくて麺も出汁も見えない)

 

 ただしその「スケジュール」、セキュリティの問題があって、昔みたいにこのブログに明記することができない。いやはや悪者たちのせいでマコトに窮屈な世の中になっちゃった。

 

 旅のスケジュールなんか公開すれば、たちまちアキス諸君の餌食になっちゃうし、クレジットカードを使えば頻繁に「使ったのはホントにあなたですか?」というメールが送られてくるし、そのメールだってホントにクレジット会社が送ってきたものなのか、戦々恐々の有様だ。

 

 だからその「スケジュール公開」に関しても、とりあえず自衛として「日付は一切非公開」。「どこ」は公開しても、日付は完全非公開。ブログに旅の話を書くのも、こうして1ヶ月も2ヶ月も遅らせて、滅多なことではスケジュールが他人に分からないように工夫を凝らすわけである。

(12月13日、「空也踊躍念仏」の京都・六波羅蜜寺を訪問 1)

 

 というわけでワタクシ、2月&3月の訪問先はまたまたマコトに盛りだくさん。大阪豊中、大阪堺での公開授業は大盛況のうちに完了したが、ここから先はやっぱり「西向くサムライ♡今井君」、西日本が圧倒的に多い。

 

 まあ一応列挙してみれば、大阪豊中・大阪堺・石川県小松・金沢・神戸三宮・和歌山・京都烏丸御池・兵庫県洲本・また金沢・岐阜・岐阜県・長崎県佐世保・沖縄県浦添・京都・山口・横浜・千葉県海浜幕張。おやおや何とも激しい春なのである。

 

 こういう講演会やら公開授業やらのスケジュールに、梅だの桜だのお祭りだの旨い物だの、地元の人も目を丸くするほど気合を入れて観光やらメシやら、日本中を満喫する。こうでなくては諸君、本当の人生とは言われない。

(12月13日、「空也踊躍念仏」の京都・六波羅蜜寺を訪問 2)

 

 今や西日本制覇の感のある今井君としては、何とも悲しいニュースが飛び込んできた。「文楽の人間国宝・豊竹咲太夫が死去」というのである。

 

 初めて東京・国立劇場で豊竹咲太夫を見たのは45年前。舞台の主役と観客という関係ではあっても、半世紀にわたって慣れ親しんできた人の逝去のニュースを聞けば、やっぱりここに感慨を書かずにはいられない。文楽の話では読者の多くは退屈するだろうが、まあちょっとだけ付きあってくれたまえ。

(12月13日、「空也踊躍念仏」の京都・六波羅蜜寺を訪問 3)

 

 ワタクシが文楽に通い始めた頃、文楽の太夫の世界には押しも押されもせぬ横綱クラスが2人。東の横綱が竹本越路太夫、西の横綱が竹本津太夫。越路太夫はまさにお手本格であって、美声も迫力もさることながら、居ずまいも話し方もカンペキに品行方正。代表者とはかくあるべしという品格を備えていた。

 

 一方の津太夫のほうは、何よりも豪快さで観客を魅了するタイプ。体格も豪快なら語り口も豪快、決してお手本とは言えないが、顔を滴り落ちる滝のような汗を拭いもせずに、「1時間でも2時間でも、とにかくオレに任せておけ」という豪傑だった。

 

 ワタクシが初めて観たナマの文楽は、竹本津太夫の「摂州合邦辻」。その豪快さに滅多やたらに引き込まれたわけだが、その横綱格の2人に従うように、そうそうたる大関&関脇格の太夫が、当時の文楽の世界にはズラリと並んでいた。

(12月13日、「空也踊躍念仏」の京都・六波羅蜜寺を訪問 4)

 

 その大関&関脇格が、まず後に住太夫になる竹本文字太夫。それに続いて、竹本織太夫(後の綱太夫 → 源太夫)・豊竹嶋太夫・豊竹十九太夫・竹本南部太夫・竹本伊達太夫・豊竹咲太夫。ズラリと並んだ大関&関脇格のラストに、当時は34歳の若手だった豊竹咲太夫の名を挙げておく。

 

 あれから45年、あの頃「若手のホープ」だった咲太夫は、「豊竹咲太夫」の名のまま人間国宝になり、文化功労者となり、79歳になり、1月31日、肺がんであの世に旅立った。

(12月13日、「空也踊躍念仏」の京都・六波羅蜜寺を訪問 5)

 

 師匠・豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう)の大名跡を継ぐこともせず、弟子・豊竹咲甫太夫が新・竹本織太夫を襲名してグイグイ成長してくるのを見届けながらの急死だった。急死とは言っても、昨年からほとんどの舞台を「病気休演」としていたのだから、文楽関係者の多くは、彼の舞台への復帰を半ば諦めていたように思う。

 

 豊竹咲太夫の訃報を読んだのが、1月31日の深夜、というか2月1日の早朝だった。その前日の1月30日、昼間に竹本義太夫の墓に詣でたワタクシは、堺での仕事が終わった夜10時、大阪・難波の名店「山三」で閉店すぎまでシミジミお酒を飲んでいた。店の暖簾を奥方が片付け、ごく一部の常連さんたちだけが店に残って、しっとり最高の雰囲気の夜だった。

 

 この「山三」、国立文楽劇場から徒歩10分ほどのロケーションなので、文楽関係者も多く訪れるのである。名前は忘れてしまったが、確か三味線の誰だったかと、人形の誰だったかが、つい最近「山三」の暖簾をくぐったはずだ。

(咲太夫の訃報前日の2024年1月30日、ムシの知らせだったか、ワタクシは竹本義太夫の墓所を訪問した。大阪・天王寺「超願寺」、欧米の人々の姿もあった)

 

 ならば、ありし日の豊竹咲太夫だって、何度かあの名店「山三」のカウンターに腰掛けたことがあっただろう。30日の夜には大将も奥方も咲太夫のことを語ることはなかったが、そりゃ当たり前だ、訃報が入ったのはその24時間も後のことだったのだ。


 次回「山三」の暖簾をくぐったら、ワタクシは何が何でも咲太夫のことを、大将&奥方と話し合いたいのである。「ああ、あの方は ... 」と大将なり奥方なりが訥々と語りだす咲太夫の思い出話は、きっと文楽の舞台に勝るとも劣らぬ感激を呼んでくれるに違いない。

 

1E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 4/6

2E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 5/6

3E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 6/6

6D(DPl) 文楽:義経千本桜④「道行初音旅」竹本南部大夫 豊竹咲大夫 「河連法眼館の段」豊竹嶋大夫 「道行初音旅」竹本津大夫 竹本越路大夫 竹本文字大夫 豊竹十九大夫

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