Mon 240115 もうよせ、こんな試験/冷めた湯豆腐の早食い/一粒で2度おいしい 4482回
ワタクシは「もう終わったこと」について語り合うのが、昔から大キライなので、たったいま受けてきた試験について友人たちの答え合わせが始まると、大急ぎでその場から逃走するのが常だった。
模擬試験でもそうだったし、予備校講師になってからも「テキストの問題が〇〇大学で的中!!」なんてのもそうだった。
とっくに終わったことについていつまでもウジウジやっているのを、最近の日本では「振りかえり」とか名付けて不可欠の努力みたいに賞賛するが、そんなことに血道をあげているより、どこまでもたゆまず前進、そっちの方がはるかにサッパリ爽快だ。
(11月29日、祇王寺の帰りに、大覚寺・大澤池に立ち寄る 1)
終わった英語試験の総語数を数え上げて、「6000語に限りなく近くなりました!!」みたいに絶叫しているのって、受験産業の努力としてはスンバラシイが、いやはやワタクシは昨日書いた通り、さすがにちょっと遠慮したいのである。
というか、受験生諸君にはいよいよ2次本番に向けてグイグイ恐れず前進していただきたい。国公立2次でも早稲田&慶應でも、出題される英文のレベルは、共通テストをはるかに凌駕する。
流行しているのは「New Scientist」であり「The Economist」であって、知的ネイティブがホンキで読む科学雑誌のエッセイを読みこなせなければ、ナンボ「共通テストをスラッシュリーディングで速読」みたいな訓練をしていたところで、2次本番にはほとんど歯が立たない。
(11月29日、祇王寺の帰りに、大覚寺・大澤池に立ち寄る 2)
話を「済んでしまった試験」に戻すなら、こと共通テスト英語に関する限り、ワタクシの意見は「もうヤメにしないか、こんなことは?」に凝縮される。共通テスト英語は、3年前の流行語を使えば「民間テスト」の影響にさらされ、ほとんど高校入試のレベルにまで落ち込んでしまった。
例えば大阪の北野高や天王寺高、京都の堀川高校や西京・嵯峨野高に合格する学力の生徒たちなら、15歳の今「大学入学共通テスト」を受験しても、8割どころか9割の得点をとることだって、十分に可能なのである。
15歳で8割の得点が可能なレベルの試験を、18歳になって受験を強制される。「こんなカンタンな試験、受けたくありません」と意地を張れば、京大も東大も阪大も、みんな諦めて私立1本か海外留学を直接目指すしかなくなってしまう。日本の国力を著しく毀損すること、まさに確実な試験制度である。
(11月29日、祇王寺の帰りに、大覚寺・大澤池に立ち寄る 3)
今年の大学受験生は、小4から英語を学習した世代である。小4から高3まで、すでに通算9年の英語学習歴が前提とされる。諸君、9年だ。9年も英語を学習した18歳の知的青年に相応しい試験かどうか、是非2024年の共通テスト英語をご覧になっていただきたい。
ワタクシは、激しい怒りをとどめることが出来ない。英語学習9年目とは、ホンの5年か10年前なら、大学3年か4年生に相当する。あの熾烈だった昭和&平成の大学受験を通過し、「でる単」「Duo」「速読英単語」を丸暗記して、そこからさらに3年4年の大学英語教育を通過し、やっと9年目に至る時代だった。
(11月29日、祇王寺の帰りに、大覚寺・大澤池に立ち寄る 4)
そういう「9年目」の知的青年諸君に、あの2024年共通テストの問題でいいんですか? 「WasabiとChilli」の長文が一番難しい、そのレベルでいいですかね。早稲田や慶應でも、北大でも九大でも広大でも「New Scientist」「The Economist」の英文を遠慮なく出題しているのに、共通テストだけがいわゆる「民間テスト」の難易度、ホントにそれでいいんですかね。
ワタクシは今の共通テスト英語を「冷めた湯豆腐の早食い競争」と呼んでいる。いや、昨年までは「冷めたカップ麺の早食い競争」と言っていたのだから、湯豆腐でもカップラーメンでも、どっちでも構わない。ただ、今日の後半の写真で、京都の湯豆腐屋さんの写真が6枚連続するから、あえてワードを湯豆腐にしておきたいだけだ。
(11月29日、祇王寺の帰りに、大覚寺・大澤池に立ち寄る 5)
要するに、何の歯応えもない。ヌルくてヌルくて、味も完全にボケていて、喉を熱いものが通過する快感も一切ない。京都の絶品♡湯豆腐とは、完全に異質な世界。「喉にひっかりそうな硬いものを思い切って飲み込んだ」という満足感さえ、ほぼ皆無なのだ。
不気味にヌルくて、歯応えも喉ごたえもなく、濃厚な味わいもない不定形のシロモノを、とにかく早く嚥下する。嚥下したものを引き受ける胃袋の方でも、消化の快感はやっぱりほぼ皆無。呆れた胃袋はサッサと小腸に送り、小腸も呆れてサッサと大腸に送る。大腸もやっぱり呆れ果てて直腸に直送、直腸からヌルリとお外へ排出だ。
咀嚼なしの嚥下から、一気にヌルッと排出へ。そういうのを「速読」「直読直解」とか「論理的読解力」「判断力」の美名で呼ぼうとするのは、ワタクシはハッキリ欺瞞だと断言する。
(11月29日、祇王寺の帰りに、大覚寺・大澤池に立ち寄る 6)
難関国公立大学を目指す18歳のマジメな秀才たちに、アメリカの小学生の読むような英文を与えて、「急げ」「急げ」「時間との勝負なんだ」とギューギュー締め上げるのは、とても教育の一環とは思えない。
そこで本日のタイトル「もうよせ、こんな試験は」に至るのである。いったい誰なんだ、こんな試験を18歳の青年たちに強制しようとした張本人は。いや、張本人探しは完全に無意味だからヤメるとして、とにかくこんな18歳イジメは可及的速やかにオシマイにしたほうがいい。
「人間よ、もうよせ、こんな事は」。高村光太郎のチョー有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」ラスト1行だ。詳しくは諸君、ググって読んでいただくしかないが、ワタクシは高村光太郎をマネて「何のためにこんなテストで受験生をいじめるのだ?」「日本のオトナよ、もうよせ、こんな事は」と、心の底から真剣に訴えかけたい。
(京都・三条木屋町「豆水楼」で熱々の湯豆腐定食をいただく。たいへんオイシューございました 1)
しかしあの良識のカタマリであるはずの「朝日新聞」でさえ、共通テストを疑問視する文言は1行たりとも載せていない。相変わらず「論理的思考力と判断力を試す良問ぞろい」というスタンス。河合塾のコメントを無条件というか無批判にそのまま掲載して平気なのだ。
この種の人々に、ワタクシは心から真剣に質問したい。2024年でもいい、2023年でもいい。共通テスト英語のいったいどこが「論理的判断力を問う」なのか、いったいどこが「実生活に即した判断力を問う」良問なのか。いったいどこが「複数データ情報処理系」なのか。ただ単に時間&時間、スピード&スピードで受験生を苦しめるだけなんじゃないか。
(京都・三条木屋町「豆水楼」で熱々の湯豆腐定食をいただく。たいへんオイシューございました 2)
ワタクシは「半世紀前みたいに、2次試験だけにしてあげたい」と切望するのである。センター試験の前身「共通一次」、そのまた前身である「東大1次試験」までは、こんなに贅沢に国のオカネと時間をかける試験制度は存在しなかった。どこの大学も一発勝負、1回の試験で受験生も大学も入試から完全に解放された。
あえてその「東大1次」の存在意義を思い返せば、「記念受験」の受験生が大学側にかける負担の軽減だった。合格の可能性がほぼ0%なのに、「ボクは東大を受験した」という記念と思ひ出作りのために、意地でも東大に出願する困った青年が、1970年代までは大量に存在したのである。
そこで東京大学は「1次試験」を導入。ごく基本的な設問を並べた1次試験で「足切り」を行い、2次本番の本格的試験を受けられる受験生を定員3倍程度までしぼって、そのぶん採点を厳格に行なった。その成功が共通一次につながり、センター試験やら共通テストの制度を生んだ。
(京都・三条木屋町「豆水楼」で熱々の湯豆腐定食をいただく。たいへんオイシューございました 3)
しかし今や、「記念受験」なんか全くハヤらない。というか、要するにカッコ悪い。そんなことをやっているヒマがあったら、サッサと推薦やら特色入試やらで大学を決めちゃった方が「カッケー」という時代だ。共通テストは、そのもともとのルーツからかけ離れ、すっかり時代錯誤のダチョウいじめになっちゃった。
あえてその恩恵を受けている者を探せば、いわゆる受験産業の「大手予備校」である。朝日新聞紙上で何の躊躇もなしに「河合塾によると」と書いてもらえれば、そりゃ予備校としての信頼度が違う。
そして、「一粒で2度おいしい」という恩恵が加わる。昭和の昔、グリコアーモンドチョコレートの謳い文句は「一粒で2度おいしい」。センター試験の頃もそうだったが、共通テストと名前が変わっても、やっぱり全く状況は変わることなく、予備校サイドにとって「一粒で2度おいしい」であり続けるのだ。
(京都・三条木屋町「豆水楼」で熱々の湯豆腐定食をいただく。たいへんオイシューございました 4)
どんなにスタンダードな講座を受けて英語の学力をつけても、やっぱり共通テストの対策が心配になるから、「共通テスト英語講座」も受講したくなる。塾や予備校の教務課だって、受験生に失敗させたくない一心からかもしれないが「最後に共通テスト対策講座も受講してください」とオススメする。
するとそれは英語だけでは済まない。国語も、数学も、地理歴史も、物理も化学も生物も情報も、「やっぱり共通テストは独特の出題形式ですから、受講しておいた方が安心ですよ」と、2者面談でも3者面談でも、徹底的に最後の営業トークを続けるわけだ。
ワタクシは時々、「こりゃ要するに塾業界のロビー活動の成果なんじゃないか」と思うことがある。スタンダードな講座を徹底的に受講して、「もう英語は大丈夫」「もう数学も大丈夫」「もう塾にオカネをかけなくて大丈夫」とビシッと自信をつけた受験生「1粒」から、2度目の美味をギュッといただく強力な集客マシーンなんじゃあるまいか。
(京都・三条木屋町「豆水楼」で熱々の湯豆腐定食をいただく。たいへんオイシューございました 5)
もちろん、こんなことを言っていても何の進展もないのだろうが、マスメディアの記者たちがこぞって「論理的思考力」「判断力」と絶賛しているチャラチャラした設問の数々について、ワタクシは全国の良心的な高校教師の皆さん、全国の新進気鋭の大学教授の皆さん、全国の子育てに夢中な保護者の皆さんの、本心からのご意見を聞きたいと思うのだ。
ま、いいか。こんなに熱くなる必要は、きっと皆無なのだ。今井君は今井君で、徹底的にスタンダードな講座に一意専心する。徹底的に精選した英語長文を満載したスタンダードな講座で、諸君、本格的な読解力をマジメに養成してくれたまえ。それ以上に効果的な英語学習は、おそらく他に考えられない。
(京都・三条木屋町「豆水楼」で熱々の湯豆腐定食をいただく。たいへんオイシューございました 6)
なお、昨日の記事で「松虫」「クツワ虫」の話になった時、ワタクシはあんまり夢中になりすぎて、「クツワ虫」の話ばかり紹介し、肝腎の「松虫」の和歌を紹介するのを忘れてしまった。いやはや、人というものは、夢中になりすぎちゃいかんものなのであるね。
昨日の記事で紹介したクツワ虫の話は、枕草子218段「ヒチリキは いとかしがましく 秋の虫をいわば くつわ虫などの心地して うたて け近くは 聞かまほしからず」。「ヒチリキはひどくけたたましく、秋の虫ならクツワ虫のような感じ。不快で身近では聞きたくないです」というヤツだった。
一方、今井君が祇王寺で出会ったオジサマと一緒に夢中になったのは、松虫。昨日の記事で紹介しようと思ったのは、古今和歌集に収められた以下の和歌である。
「もみじ葉の 散りて積もれる我が宿に 誰を松虫 ここら鳴くらむ」
「もみじの葉が散って積もっている私の庭で、誰を待っているというので松虫はこんなに盛んに鳴いているのだろうか」
「誰を松虫」は、「誰を待つ」と「松虫」と引っ掛けた典型的な掛け言葉というか、言葉遊び。松虫については、あの祇王寺のオジサマを相手に、もっともっと長く語り合いたかった。
「ここら鳴くらむ」の「ここら」は、「こんなにも」「こんなに激しく」の意味の副詞。現代語の「ここら」とは、完全に異質なのである。
1E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.2 & No.6
2E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.3, No.5 & No.8
3E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.9
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