Sun 240114 共通テスト英語の話/入試は大学の檜舞台/祇王寺のオジサマと松虫 4481回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 240114 共通テスト英語の話/入試は大学の檜舞台/祇王寺のオジサマと松虫 4481回

 終わってしまった試験について、まだその緊張も冷めやらぬ段階で、ワタクシのような中途半端な者がツベコベ口を出すのは遠慮することにする。

 

 ホンの10年前ならば、あるいは20年前ならば、解答速報のために講師室に控えていて、「今年の問題は出題傾向が変わったな」とか、「第6問の英文ががますます長くなった」「いや短くなった」とか、湯気の立つような熱気の中で講師仲間とワイワイやっていたものだったが、そういう忙しい役割はもう、伸び盛りの若手の先生方にお譲りした方がいいだろう。

 

 30年前の河合塾では、新人講師として「センター試験英語」を担当した。同じく25年前の駿台予備校では「センター模試」の作成にも加わった。その後移籍した代々木ゼミナールでも「センター試験英語」の衛星同時ナマ中継をサテラインで担当。ワタクシは、お正月中旬の国家的試験の申し子みたいに生きてきた。

 

 いま席を置いている東進でも、やっぱり3年前までずっとセンター試験英語の講座をもっていて、話が「センター」ということになれば、遠慮なくしゃしゃり出て徹底的にツベコベ、「長くなった」「短くなった」「傾向が変わった」と専門家気取りで盛り上がっていた。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 1)

 

 しかし諸君、この種の舞台はやっぱり、気鋭の若手諸君の独壇場にしてあげるべきなんじゃないか。別に「大御所」を気取るわけではなくて、若手講師の登竜門とも呼ぶべき共通テストの解説やら対策やらに、講師生活30年を誇るこんな大ベテランがデカい顔で頑張っていては、若手諸君がさぞかしやりにくいだろう。

 

 というわけで、これからしばらくは共通テスト各設問に関する具体的な発言はガマンする。いろんな予備校のいろんな若手講師やら、いろんな出版社のいろんな解説書をひとわたり読んでじっくり検討を加え、例えば春4月、桜の花が咲きそろった頃に、一種の行司役というかレフェリー役というか、そういう役割で発言したいのである。

 

 そしてじっくり落ち着いて、

① あんな分量の英文を出題して受験生を慌てさせる試験構造が望ましいものなのか

② あのレベルの難易度の英文を出題し続けるべきなのか

③ もっと難易度を上げて、そのぶん文章量を減らす方向性の方が望ましいのではないか

そういう見地から発言したいと思うのだ。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 2)

 

 例えば、「英文合計で、なんと6000wordsです」みたいなオドカシをする人たちが存在するわけだ。ワタクシは英文をwords単位で計算し、その「とっくに5000wordsを超えて、6000wordsに近づいています」と数え上げる努力をしてみたことはないが、ホントに語数を1から50006000まで数える努力が、何だか悲しいものに思えて仕方がない。

 

「制限時間80分のうち、60分で英文を読み、20分で設問に答えるとすれば、6000語 ÷ 60分 = 100語、つまり毎分100語を読みこなさなければなりません」「1語に0.6秒しかありません」「だから速読が必要です」というストーリー作りから、「だからウチの塾のこの講座がオススメです」という激しい営業トークに至る。

 

 そんな単純計算だけ眺めていれば、まさに正論であって、大ベテランとしてその営業トークを批判も非難もするものではないが、その計算、冠詞も前置詞も代名詞にも、みんな0.6秒ずつかけて読解する計算であって、例えば「in the room」なら3語だから1.8秒、そんな計算、おかしくないか?

 

 今年の第6問にしたところで、wasabichilliの1語に0.6秒なんかかかるわけがない。ワタクシがいつも公開授業で言っている通り、全問合計で300行、これを同じ60分で読解するなら、1分で5行、1行を12秒で読めばOKなのだ。

 

 1行12秒というスピードなら、普段から難易度のもう少し高い英文をしっかり読み込む練習をしていれば、簡単に確保できる。いたずらに「共通テスト向けの対策」「速読の訓練」と言って慌てふためいているより、普段の授業でもじっくり落ち着いて本格的な英文を講師とともに読み、しっかり理解した英文を繰り返し音読する訓練の方が、対策としてまず間違いなく優れている。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 3)

 

 おやおや、「発言は差し控える」「共通テスト関連の各問解説は若手講師の皆様にお譲りしたい」と言った割には、全然「差し控えて」なんかいない。ワタクシは、現政権党系の「差し控える」がどうも苦手なのだ。

 

 スミマセン、ホントにスミマセン。しかしどうですか、共通テスト英語について、その語数を1語ずつ数え、words数から来年や再来年の受験生への営業トークを繰り返す手法はどうも古臭くて、行き詰まっているような気がする。20世紀の終末期から21世紀初頭にかけて、センター試験対策で生徒諸君をオドカシ続けていた頃から、ちっとも進歩が見えない。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 4)

 

 ついでに言えば、大学側もあまりに安直に「共通テスト利用」を推進しすぎていないか。入試問題は、各大学が自信満々で独自の問題を制作すべきなんじゃないか。

 

「カネがない」「ヒマがない」とか、そんな情けない言い訳をして、独自の入学試験を制作する努力を回避している大学が、新入生に対してどんな教育をしているのか、ワタクシはその辺に甚だ大きな疑問を感じるのだ。

 

 だって諸君、入試問題というのは大学にとって「こんな学生を求めています」という華々しいマニフェストの場であるはずだ。速読能力を求めているならそういう問題を、じっくり論文を読む力を求めているならそういう問題を、4技能を求めているならそういう問題を、大学の将来を担う新進気鋭の教授たちが心を込めて制作すべきなのだ。

 

 つまり入試問題とは、大学の魅力を国中の受験生に強く熱くアピールできる、大学にとってのヒノキ舞台だ。そのヒノキ舞台をブザマに怠惰に回避して、国まかせ、入試センターまかせ、「うちはカネもヒマもないんで、国に任せます」というんじゃ、大学としての存在価値さえ疑わなきゃいけない。

 

「どんな学生を求めているか」がマコトに曖昧模糊としていて、学生募集に焦点が定まらず、朦朧とした意識の中で「オープンキャンパス」ばかりメッチャ華やか。そんな大学じゃ、経営的にも必ず行き詰まる。「うちの入試は、自分で作ります」「共通テストは参考程度」と、そう堂々と発言する大学がどんどん増えるべきなんじゃないか。

 

 というか、そういう強く高いキョージを持つ自信満々な大学の入試問題でないと、教材として学習するのに値しないような気がする。講師としても、生徒たちにテキストとして与え、全力で解説して100%理解してもらい、「よーっく理解したら、さあ、音読だ!!」と胸を張って勧めることができない。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 5)

 

 ワタクシは最近、多くの国公立大学の2次試験で出題されている英語長文に、大きな信頼を置いている。京都大・大阪大・神戸大。北大・東北大・名古屋大・九州大。もちろんそんなヤンゴトナキ大学ばかりじゃなくて、合格がそんなに難しくはないと思われる大学でも、読んでみるとよく吟味&精選された中身の濃い英文が多い。

 

「これなら、予備校の授業の教材として最適だ」と、ワタクシはポンと膝を打つのである。大人の読む雑誌に掲載された科学エッセイが21世紀の流行&定番であるが、こういう大学の先生方は、2次試験の出題を自分のヒノキ舞台と考えて、「こんな英文が読みこなせる学生を求めています」というアピールに夢中のようだ。

 

 未来の受験生諸君は、高いレベルで知的好奇心を満足させてくれる英文を集めたテキストを選ぶべきだ。出題者の意図まで含めて、じっくり100%理解させてくれる予備校のセンセを選ぶべきだ。慌てふためいて「だいたい分かればいい」などという発言は、講師の側としても厳に避けるべきなのだ。

 

 ま、そういうことを熱く思いながら、13日と14日の今井は徹底的にカッカしていたのである。9日から13日までは大阪と京都に滞在して、「カッカしないように♨︎」「カッカしないように♨︎」と自らを抑えていたが、うーん、やっと終わってくれた。大ベテランとして、とりあえず終わった試験についての全般的な思いを書き連ねておいた。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 6)

 

 ところで今日の写真であるが、全て1129日の京都・祇王寺でのもの。2023年の祇王寺の紅葉は、近来マレなほど、抜群に美しかった。午前中、早い時間帯に訪問したのもよかった。紅葉の真っ盛りなのに観光客の姿はまばら。実に深く森閑として、カエデの葉や竹林を吹きわたる秋風の声を存分に味わうことができた。

 

 その美しさについては全て写真にお任せすることにして、ここでは祇王寺で出会ったオジサマの思い出を書いておく。むかしむかしの大昔には「寺男」と呼んだが、早朝から境内を掃き清め、たくさんの力仕事をこなし、寺の雑務も一手に引き受ける働き者のオジサマである。どこのお寺でも、必ず1人はいらっしゃる。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 7)

 

 祇王寺では、何だかそのオジサマの視線がギュッとこちらに向いていた。ま、無理もない。もっさり髭をたくわえ、4mmに刈りそろえたボーズ頭に、紺色ハンティングのシャッポ。見るからに「タダモノではない」これもまた紺色の高級コートを秋風にヒラヒラ、彼の視線がこっちに向くのも「ムベなるかな」なのである。

 

 もちろん実際のワタクシは「タダモノではない」どころか「完全100%のタダモノ」「これ以上のタダモノは存在しないぐらいのタダモノ」。タダモノ選手権の優勝者、タダモノ日本代表、タダモノコンクール♡グランプリというぐらいのタダモノなのだが、せっかくオジサマに注目されたんだから、無視するのは失礼にあたるだろう。

 

 話しかけてみると、掃き掃除の真っ最中だったオジサマは、右の手のひらに小さな秋の虫を1匹捕えている。松虫である。秋の空気が急激に冷え込んだ朝だったからか、松虫はもうすっかり元気をなくして、オジサマの手から逃れようともしない。

 

「松虫ですね」と声をかけると、「ああそうですねえ、クツワ虫ではなさそうですね」と笑顔で答えてくれた。「松虫は、どんな鳴き声でしたっけ?」と問いかけてみたが、オジサマも忘れてしまったようだった。

(11月29日、京都・祇王寺を訪問。今年の祇王寺の紅葉は特に見事だった 8)

 

 しかし諸君、童謡というものは、素晴らしく役に立ってくれるのである。「あれ松虫が鳴いている、チンチロチンチロ&チンチロリン」、昔の文部省唱歌「虫のこえ」の冒頭だ。

 

 最初にオジサマが口になさった「クツワ虫」のほうは、、文部省唱歌では「がちゃがちゃ&がちゃがちゃ、クツワ虫」であって、鳴き声にあんまり深い情趣がない。

 

 枕草子の218段、清少納言は「ヒチリキは いとかしがましく 秋の虫を言はば くつわ虫などの心地して うたて け近くは 聞かまほしからず」と書いた。「ヒチリキはたいそうけたたましく、秋の虫で言うならクツワ虫のような感じで不快、身近では聞きたくないですね」というわけである。

 

 掃き掃除の途中のオジサマと、秋の虫についてしばらく語り合った。というか、今にもコト切れようとしている祇王寺の松虫どんを草むらに帰し、姿が見えなくなるのを見送った。もうそれ以上何を話していいか分からなくなって、オジサマに黙礼で挨拶し、1時間のうちに3回も巡り歩いた祇王寺の庭の紅葉にも、静かに別れを告げたのだった。

 

1E(Cd) Wand & Berliner:SCHUBERT/SYMPHONY No.8 & No.9 1/2

2E(Cd) Wand & Berliner:SCHUBERT/SYMPHONY No.8 & No.9 2/2

3E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.1 & No.4

6D(Pl) 新春文楽公演 第2部:伽羅先代萩:竹の間の段/御殿の段/政岡忠義の段(竹本千歳太夫/豊竹呂勢太夫)/床下の段:大阪・国立文楽劇場

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