Mon 231225 仕事納め/90分授業じゃなきゃ/ゑびす神社の湯たきと焼きみかん 4471回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 231225 仕事納め/90分授業じゃなきゃ/ゑびす神社の湯たきと焼きみかん 4471回

 12月23日、19時から東京・池袋で公開授業があって、これが2023年のワタクシの仕事納めになった。事前に準備していただいたよりワンランク難しいテキストを至急印刷してもらって、旧7帝大レベルの授業に変更した。100分、というか正確には110分、遠慮会釈なく喋りまくって、素晴らしい仕事納めができた。

 

 しかしどうも諸君、20世紀後半から花開いた絢爛豪華な♡予備校文化は、21世紀初頭からの長い停滞期を経て、どうやら終焉期に差しかかっているように感じる。

 

 あれほど強烈な熱気に包まれていたナマ授業の大教室は、かつての「立ち見が出る」「湯気が上がる」「通路まで超満員」の夢がウソだったように空席が目立ち、200名教室に50人どころか20人いればまだいいほう、5人とか10人とか、そんな状態で何とか継続している予備校だって少なくない。ワタクシばかりが恵まれていて、何だか申し訳ない。

   (11月16日、大阪府茨木市、280名の大盛況 1)

 

 塾を経営する側もだんだん気が弱くなってきて、どんどん教材を易しく変えてしまう。「90分授業では生徒の集中力が続かないから」という理由で、50分授業どころか「30分」「20分」、中には「10分」なんてのまで登場し、最後には「うちは授業を廃止しました」「もう授業なんかいらねえよ」というテイタラクに陥る。

 

 そういうただのテイタラクを、「日本初!!」「授業をしない予備校がついに誕生!!」と、ビックリマークだらけで宣伝するような

人々も出現する。講師の高額な人件費を削減ないしゼロにして、縮小再生産を繰り返そうという発想である。

 

 昔からワタクシが言い続けているように、「毎年10%減」の縮小再生産ほど恐ろしいものはないので、10%減が10年続けば0.9の10乗 ≒ 0.35、生徒数は10年で1/3になる。それがもし毎年20%減なら、0.8の10乗 ≒ 0.1、生徒数は1/10になってしまう。

    (11月16日、京都ゑびす神社の湯たて神事 1)

 

 ワタクシが18年前に佐々木ゼミナール(仮名)を辞して今の予備校に移籍する時、当時の佐々木ゼミ教務本部長を相手に懸命に説いたのはそこだった。

 

「このところ毎年2割減が続いているみたいですが、それを放置すれば10年後には5万の生徒は5000に、ゼロが一桁減りますよ」

「授業内容を抜本的に考え直す必要があるんじゃないですか?」

と、若き今井君はそこまで突っ込んで談判したが、「そんな心配はありません」と失笑されて、すぐに移籍を決意した。

    (11月16日、京都ゑびす神社の湯たて神事 2)

 

 今のワタクシは、また同じような不安でいっぱいなのだ。予備校の業界全体が、例の共通テストに影響されて、一気に授業のクオリティを下げている。

 

 だって諸君、もしも共通テストの英語を基準とするなら、正直言って高校受験英語のレベルを確保しさえすれば十分、高校受験の塾のテキストを100%理解し、それを30回繰り返して音読した生徒なら、大学受験の共通テストで9割の得点を確保するのは難しいことではない(んじゃないかな)。

 

 すると諸君、大学受験予備校の英語の授業も、中身はマコトに初歩的なもので構わなくなる。「クマムシを観察してみました」「ジャガイモ畑を見ていたらテレビを思いつきました」「ジャパンフェスティバルに出かけて、焼き鳥とタコ焼きとソーメンを食べました」、その程度の英文を読むなら、確かに高校受験と択ぶところがない。

 

 だから授業の内容もどんどん薄っぺらになる。AIでも書けるような安っぽい英文をどれだけ速く読むかが勝負になるんだから、スラッシュを入れながらの「速読」、いわゆるスラッシュリーディングみたいなものが中心に据えられる。

    (11月16日、京都ゑびす神社の湯たて神事 3)

 

 すると、「その程度のことなら予備校に高いオカネを払う必要なんか皆無」という判断につながる。だって諸君、塾でも予備校でも、吐くほど高い授業料を払うのである。親の夏のボーナスは簡単に消えてなくなり、冬のボーナスもすでに風前のトモシビだ。

 

 しかしそうやって「スラッシュリーディングで十分だ」みたいなことを言っていても、それで何とか通用するのは共通テストまで。いざ本番の京都大・東京大・早慶やら旧7帝大のレベルになると、そんなんじゃ全く歯がたたない。

 

 ワタクシはこの数年、京都大学の英語の問題が滅多やたらに好きになってしまい、出来れば近畿圏で京都大学に特化した英語読解講座がやりたくて仕方がない。

 

 2021年の「why not?」やら、2022年の「only now」やら、スラッシュリーディング的読解では必ず無惨な誤答に導かれてしまう、マコトに見事な出題には、英語講師としてどうしても魅了されざるを得ない。大学入試問題の目指すべき高みは、この辺にあるんじゃないか。

    (11月16日、京都ゑびす神社の湯たて神事 4)

 

「英語の読解では、できるだけ日本語を交えずに、英語だけで理解するようにすべきだ」。かつて「直読直解」「速読即解」を理想とした英語講師たちは、そう口を揃えた。21世紀も中盤に入ろうとしている今でさえ、そういう発言を喝采で迎える人々は多い。

 

 しかし諸君、その程度の読解なら、人間様の代わりにAIの皆様が簡単に代行してくださる。21世紀の我々が読解と向き合うときには、「日本語を混えずに直読直解」、そんな古色蒼然とした発想を颯爽と乗り越えていくべきなんじゃないか。

 

 日本語でも外国語でも、読者として我々が筆者と対峙する時には、これまでの人生で獲得してきた全ての教養と知識を投入し、筆者が悠然と展開する論理と真っ向から対決する覚悟が必須なのだ。要するに「真剣勝負」なのであって、「スラッシュを入れてとにかく速く」という初歩的な世界とはクオリティが格段に違う。

    (11月16日、京都ゑびす神社の湯たて神事 5)

 

 そのごく一端を示してくれたのが、30年も40年も昔の予備校の先生方だった。代ゼミの潮田五郎、駿台の奥井潔と鈴木長十と伊藤和夫、河合塾にはいなかったが、それでも代ゼミから引き抜いた芦川進と古藤晃(すべて敬称略)、彼らは決して「スラッシュリーディングでだいたい分かればいい」などとは言わなかった。

 

 そういう長文読解には、少なくとも50分授業、可能な限り本格的な90分授業が必要なのである。本来90分必要な教材を、30分と30分と30分とに切り刻み、文章の前半と中盤と後半を別々にして講義を行なうのは、文章への冒涜である。

 

 起承転結を4分割して別々に扱うこと、同じように序破急を3分割して別々に読むことは、文章を読むこととは異質のママゴトである。ワタクシが1つの文章を決して分割せず、90分授業で1つのパッセージを必ず全体として解説し終えるのは、その発想に基づいている。

(11月16日、京都ゑびす神社に、焼きミカンをもらいにいく 1)

 

 今ここに熱いラーメンが登場したとする。熱いラーメンは、まずスープを啜って「アッチッチ!!」と叫び、麺をすすって「うへー!!」と意味不明の唸り声をあげ、シナチクをかじりチャーシューを噛み切りホーレンソーを飲み込み、少しノビかけた麺をすすり、少しだけ冷めたスープを飲み干して、その全体がラーメンだ。

 

 にも関わらず、「生徒の集中力が続かない」と言って90分のものを15分ずつに切り刻めば、それはもうラーメンではない。スープと麺がバラバラ、シナチクとチャーシューがバラバラ、ホーレンソーの行き場がなくなって、しまいにはコショーだけ別にしゃぶらなきゃいけない。

 

 そういうラーメン屋さんにお客が長い列を作って並ぶかどうか、考えてみたらいい。お客は、ラーメン全体を満喫するために並ぶのであって、麺とスープと刻みネギをバラバラに味わいに来ているのではない。今もしも絶不調の塾があるとすれば、その塾はそういう愚かしいことを繰り返しているのだ。

(11月16日、京都ゑびす神社に、焼きミカンをもらいにいく 2)

 

 ワタクシは、そういうのは絶対にイヤなのだ。もしも「生徒の集中力が90分続かない」というのなら、意地でも90分集中するような授業を展開してみせる。それがラーメン屋の心意気じゃないか。

 

 序破急の序に30分、破に30分、急に30分、それぞれバラバラに解説して、「でも合計すれば90分、コスパもタイパも消費者のニーズにピッタリだ」と胸を張るような塾が万が一存在すれば、それこそ文化の破壊者、優れた文章を味読するとはどんなことかを知らぬ愚者の典型、そういう誹りを免れない。

 

 4半世紀ほど前、駿台予備校の英語科にそういう危機が訪れていたかもしれない。「50分授業」という制約の中で、1本の長文読解問題を一気に扱うことが困難になり、どの授業も構文と文法の解説に徹し、文章を全体として理解することが不可能になった。

 

「全体なんか、もともと存在しないのだ」「あるのは部分だけだ」「部分だけを詳細に見れば、要するに全体も見たことになる」と強弁する先生が多数派を占め、1997年の今井君はその風潮を嫌って駿台から代ゼミに移籍したのである。

 

(11月16日、京都ゑびす神社に、焼きミカンをもらいにいく 3)

 

 するとそこでも、全く同じ発想を展開する先生方が主流を占めていた。「すべての部分を正確に読めば、それで全体を把握したことになる」「全体などというのはマボロシに過ぎない」「マボロシで点数が取れるか?」「マボロシで飯が食えるか?」と開き直られれば、今井君の信奉者たちは口をつぐむしかなかった。

 

 そして2023年、やっぱり今井君はほぼ相似形の論争の真っただ中にいる気がする。「部分読解の信奉者」「スピード第一主義者」は、この世からどうしても消えてくれないのだ。

 

「世界史や地理や生物や物理、今までの人生で得たすべての教養を武器に筆者と対峙するのが、読むということの本質」と、いくら顔を真っ赤にして説いてみても、共通テストを材料に「それよりスピード」とニヤリと失笑されれば、多くの生徒は間違いなくそっちについていく。

 

 しかし諸君、ワタクシには強力な味方がついていてくれて、それが京都大やら東大やら早慶やら、いわゆる日本屈指の難関大、その極めて念入りな良問たちである。

 

 この選りすぐりの良問たちと対峙するには、時間を無残に切り刻んだチマチマ系では通じない。ラーメンを1本ずつ啜って、「結局は同じことだ」と強弁しているんじゃ、対応は明らかに不可能。本格的な90分授業で、どれほど真剣に講師の解説を聞き続けたかが、最終的な勝敗を決すると信じる。

(11月16日、京都ゑびす神社に、焼きミカンをもらいにいく 4)

 

 というわけで、12月23日の仕事納めもまた最高に充実した授業になった。残念ながら写真を撮り忘れたが、その分、11月16日の大阪・茨木市での大盛況の写真を掲載しておく。

 

 すでに40日も昔のことになるが、大阪のスーパー名門塾「馬渕教室」主催の茨木市公開授業は、出席者280名の大盛況。大阪府立高校のトップ、北野高校や天王寺高校の9割がこの塾の出身者だし、京都の堀川高校でも滋賀の膳所高校でも、馬渕教室出身者の割合は群を抜く。

 

 ワタクシとしては彼ら彼女らに、どうしても今井の90分授業をどんどん精力的に受講してほしいのだ。来年1月29日には茨木会場で、2月16日には京都会場で、同じ塾の主催で今井が京都大2022年の読解問題を解説する。近畿圏の諸君は是非ともドシドシ参加していただきたい。

 

 というか、どうせ京都の駅からすぐの会場だ、名古屋や東京、横浜や広島や博多の諸君にも、新幹線に乗って参加してほしいぐらいだ。今井の京大問題解説、参加した人には決して「新幹線のチケット代、損した」とは言わせませんぞ。

   (11月16日、大阪府茨木市、280名の大盛況 2)

 

 ま、こんなふうにして2023年の今井の仕事納めは恐ろしいばかりの満足度だった。本日の写真は、仕事納めにふさわしく、京都ゑびす神社の「湯たて神事」。ベテランの巫女さんが、煮えたってもうもうと湯気の上がる熱湯に榊の枝の束をひたし、訪れた人々に遠慮会釈なく熱湯を浴びせかける。

 

 しかし諸君、ホンモノの熱湯なんか浴びればひどいヤケドに苦しむことになりかねないから、湯たての神事も、焼きミカンも、今年のところは今井ブログの上で眺めてオシマイでかまわない。クリスマスなのに日本の神道で申し訳わけないが、まあとにかく神様だ。御利益に損得なんか論じている場合ではない。

 

1E(Cd) Jandó:MOZART/COMPLETE PIANO CONCERTOS vol.7

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