Wed 230920 日本の神様のオヘソ/フマジメ里芋の嘆き/西方寺の六斎念仏 4431回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 230920 日本の神様のオヘソ/フマジメ里芋の嘆き/西方寺の六斎念仏 4431回

 東京の世田谷区から渋谷区に向かって「北沢川」という川が流れていて、その上流の街を上北沢、下流の街を下北沢と呼ぶ。同じような「上」と「下」が全国各地どこにでもあって、秋田市北部には新城川が流れ、上流地域が上新城、下流地域が下新城と呼ばれる。今井君の母方のルーツが、その上新城にあったヨロズ屋である。

 

 その新城川流域を線状降水帯が襲い、上新城から下新城の全域、さらにはワタクシの故郷である港町・土崎まで洪水の被害を受けたらしい。

 

 7月上旬にも同じ地域で洪水があり、それでも土崎港の人々は「洪水に負けていられない」と、ユネスコ世界遺産の夏祭りを神様に捧げたが、どうも今年の神様はオヘソが少し曲がっていらっしゃるようだ。

 

 もちろん神様にオヘソなんてものはありえない。オヘソとは、哺乳動物ならではの特典であって、ママのお腹から生まれた経験のない神様にオヘソがついているはずはないのである。

 

 その辺を、映画のセリフなんかでは「神は人間を羨んでいる」と言ったりする。神様は死なないというより「死ねない」のであって、オヘソもなければ、伝説や物語になる美しく英雄的な死を経験することも、あくまで神話の中だけのことである。映画のヒーローが最期を迎える時、天を仰いでそんなふうにうそぶくじゃないか。

 

 しかし本来存在しないはずの神のオヘソ、今年は曲がり放題に曲がって、どうにも処置ナシの様相だ。毎日どこかで洪水を起こし、洪水でなければスーパー熱波、9月20日になっても33℃超えなんてのは、どうしても今すぐ神様のオヘソを元に戻すスーパーヒーローが必要だ。

(8月16日、五山の送り火のあとは、西賀茂「西方寺」で六斎念仏を眺める 1)

 

 こういうマコトに非論理的なことを書いていると、日本中の先生たちに間違いなく叱られる。数学を学ぶ目的は「論理的思考を身につけるため」、歴史を学ぶ目的も「歴史的論理的思考を身につけるため」、万が一「非論理も、面白いよ」などと言えば、先生方の総スカンを食う。

 

 国語の授業も「ひたすら論理」、だから科目名も「論理国語」にかわり、感情も論理、愛情も論理、意地でも論理で押し通し、論理で解決できない問題は「非論理」のカテゴリーでジッパヒトカラゲ、入試科目からも外される。

 

 ワタクシなんかは「なぜ歴史を学ぶんですか?」とコドモに問われれば、間違いなく「面白いからじゃないの?」と即座に答えるし、「数学を学ぶのは?」「国語を学ぶのは?」と尋ねられても、「面白くてブルブル震えそうになるから」と即答する。

 

 読書だって、旅行だって、仕事だって何だって、究極の理想は「面白いから」だと信じるのだが、どうもそういうのは「フマジメだ」ということになるらしい。

 

 ワタクシなんかは、「面白いか面白くないか」を全てに優先させるが、役に立つか立たないか、論理的であるか論理的でないか、そういうKusoーmajimeな世界になっちゃった。

 

 すると「歴史とは、過去の過ちに学んで、同じ過ちを繰り返さないために勉強するものである」みたいな超優等生以外、全て排除される。いやはやマコトに堅苦しい。

 

 遥かなむかし松平定信どんが寛政の改革を粛々と推し進めた時「蚊ほどうるさきものはなし」「ぶんぶぶんぶと夜も寝られず」とホザイたフマジメな御仁がいたが、今はもう「文武文武」じゃなくて「ろんりろんりと夜も寝られず」な世界なのだ。

 

 論理教育を勝ち抜いた人々ばかりがエリートになると、今井君は困るのである。人がみな論理で動く世の中なんてのは、マコトに生きづらいと思うのである。非論理や思いつきや、感情や心や好き嫌いが優先であってくれないと、世の中から新鮮な驚きとか笑いが消えてしまうのである。

 

 エリート集団が「人はみな論理で動くのが正しい」と思い込み、「マトモな人間は過去の過ちを繰り返さない」と思い込んで、過ちを繰り返す非論理的感情的人間を論理でさばくようになってみたまえ。そんなの、スカスカだ。カスカスだ。潤いも笑いも涙も奇跡も、何にもないじゃないか。

(8月16日、五山の送り火のあとは、西賀茂「西方寺」で六斎念仏を眺める 2)

 

 8月16日、ワタクシは京都・松ヶ崎の宝ヶ池ドライビングスクールで五山送り火の「妙」の字を堪能。ここからは1ヶ月前の五山の送り火の話を読んでくれたまえ。「1ヶ月も前のこと」などと思ってはいけない。次の送り火まで残り11ヶ月。これは11ヶ月先を見越した観光ガイドなのだ。

 

 送り火の夜、インバウンドも含めた観光客で京都の北山方面は目一杯ごった返すから、カンタンにタクシーが拾えることは望み薄。ワタクシはノートルダム女子大付近で辛抱強く待ち、約10分待ってようやく「ヤサカタクシー」を1台つかまえた。

 

 京都で評判のいいタクシーは、もちろんMKだ。ワタクシもこの15年、マコトに頻繁に京都の旅を繰り返し、MKにはずいぶんお世話になった。MKのポイントカード「タクポ」はもうすっかり擦り切れて、券面の文字が見えないほどだ。

 

 しかし諸君、老舗「ヤサカ」も決して捨てたものではない。乗客との会話にもたいへん気軽に応じてくれる。コロナの3年は今井君も大人しくしていたが、5類への移行以来、ちょっと長時間のタクシー移動では必ず運転手さんとの会話を満喫する。

 

 あの夜のヤサカタクシーは若手の運転手さんだったが、たいへん積極的に会話に応じてくれた。行き先の「西方寺」を告げると、誰だってそうだと思うのだが「は? 西芳寺ですか?」と訝しげな様子。「苔寺」としても有名な「西芳寺」と勘違いなさったようだ。夜9時過ぎてから苔寺なんかに行く人はなかなかいない。

(8月16日、五山の送り火のあとは、西賀茂「西方寺」で六斎念仏を眺める 3)

 

 違うのだ、ワタクシが目指すのは「西方寺」。有名な苔寺は「西芳寺」、「方」と「芳」の字が違うだけで発音は同じ、マコトに紛らわしいが、西賀茂の「西方寺」は、この夜の五山の送り火のうち「船形」を担当する。

 

 午後9時、船形にも点灯。前回の記事の中に船形の写真を2つ掲載しておいた。お盆にあの世から帰ってきた先祖の霊が、現世から再び冥府に帰っていく。

 

 船形は、先祖の精霊さんたちが乗り込む船の形。船の舳先は西方浄土の西を向き、西に向かってどんぶらこ、送り火に送られて悠然と漕ぎ出すわけである。もちろん「諸説あります」であって、灯籠流しの船が起源とする人も多くいらっしゃる。

 

 船形の始まりは平安初期の9世紀。天台宗の超偉いお坊さま・円仁どんが始めた(諸説あります)。円仁のライバルに円珍というお坊さまもいらっしゃって、なかなか紛らわしい。

 

 円仁は「慈覚大師」、天台宗山門派のトップ、著書に「入唐求法巡礼行記」。全4巻、7万字。838年から唐に約10年間留学した時の日記だ。東洋文庫か中公文庫でどうぞ。

 

 一方の円珍は「智証大師」、滋賀の園城寺(三井寺)を拠点に天台宗寺門派トップとなった。きっとこの辺でござるね、「記憶してもどうせ忘れる」「まるっと覚えて、まるっと忘れる」「そんなんじゃダメなんだ」「論理的思考力を身につけなきゃ」みたいな人々の盛り上がるあたり。

 

 しかし諸君、今井君みたいに「まるっと覚えて、みんな覚えている」というタイプの人間もいる。覚えていると、楽しいよ。胸がキリキリするほど楽しいよ。ヤサカの運転手さんとも、歴史の知識を駆使して大いに会話を楽しんだ。

(8月16日、五山の送り火のあとは、西賀茂「西方寺」で六斎念仏を眺める 4)

 

 西方寺は何しろ船形の担当だから、西方浄土を目指して灯籠流しの船が漕ぎ出した後も、それで終わりというわけにはいかない。船形の山を降りてきた人は、お寺の境内に集まって、まもなく「六斎念仏」が奉納される。

 

 寺の境内の暗がりに小さな火が焚かれ、若手の男たちがぐるりと火の回りに輪を作って並ぶ。手に手に小さな太鼓をもった彼らは、「若手」と言っても40歳代から50歳代ぐらい。その周囲では檀家の善男善女がにこやかに男たちを見守っている。

 

「今日はあんたたちの晴れ舞台なんやから」と静かな声がかかったりする。見ると、犬歯のあたりに金歯が光る和服のオバーチャンが上品に微笑していらっしゃる。

 

 間もなく、黒い紋付をビシッと着込んだオジーチャン3人が暗がりから登場。何の気負いもなく、まるでごく普通の日常の1コマのように、3人揃って鉦を叩き始める。鉦と太鼓と念仏のみの、マコトに地味で古風な六斎念仏の始まりだ。

 

「そーれ、ひーとーつ」「そーれ、ふーたーつ」「そーれ、みーっつ」「そーれ、よーっつ」「そーれ、いーつーつ」「そーれ、むーっつ」。3人のオジーチャンの鉦と念仏に合わせ、若手の男たちが1人ずつ、膝を軽く曲げる何となくコミカルな動きとともに、手にした太鼓を叩く。約20分、山裾の暗がりに鉦と太鼓と念仏が響き続ける。

(六斎念仏のあと、ホテルに帰って「まねきつね」をいただく。旨い日本酒だった)

 

 終わると、男たちも檀家の人々も三々五々家路につく。あっという間に人々はどこかに消えてしまい、京都北山の静かな夜の中に取り残される。「ここから1人で帰りなさい」と言われても、おそらく途方に暮れるばかりである。

 

 しかしこの夜のワタクシには強い味方があった。さっきの「ヤサカ」の若い運転手さんである。「私も一緒に六斎念仏を見ていいでしょうか」「勉強になりますから」「メーターは切っておきます」「帰りもホテルまでお送りします」とおっしゃるのである。

 

 勉強熱心な、素晴らしい運転手さんじゃないか。聞けば、修学旅行生の貸切もしょっちゅう引き受けているとのこと。ワタクシからも「ワンサと外国人の集まるメジャーなところばかりじゃなくて、是非こんな静かなお寺にも、中高生を案内してあげてください」とお願いしておいた。

 

 だから帰り道もたいへんスムーズ。北大路・北山・松ヶ崎を経由して宝ヶ池のプリンスホテルまで。まだ精霊さんたちの吐息が渦巻いている気配の残る京都の夏の暗がりを、何だかしんみり会話しながら、暑さも忘れて帰ってきた。

 

1E(Cd) Barenboim:MENDELSSOHN/LIEDER OHNE WORTE 2/2

2E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.3, No.5 & No.8 

3E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.9

6D(DMv) JACK RYAN:SHADOW RECRUIT

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