Wed 230614 地名の中の梅と栗/古地図を調べよ/久里浜とフェリーと赤フン騒動 4386回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 230614 地名の中の梅と栗/古地図を調べよ/久里浜とフェリーと赤フン騒動 4386回

 先週だったか先々週だったか、ワタクシはあいにく視聴のチャンスがなかったが、NHK「ブラタモリ」のサブタイトルは「梅田に梅はなかった」だったらしい。

 

 そういう話をテレビなんかで放送したら、「地価が下がったらどうしてくれるんや?」と、不動産会社や地権者からの苦情が殺到するんじゃないか。ワタクシは心配でならないが、そのサブタイトルから判断するに「梅田の『うめ』は、もともと『埋め』だった」という中身だったに違いない。

 

 むかしからよく話題になることだし、そのテーマで単行本や新書なんかもいろいろ出版されているから、今さら今井なんかが何か書いても、風評被害の類いの問題も起こらないだろう。全国に点在する「うめ」、さらにそこから発生した「うめ」のつく苗字、どうやらやっぱり元々は「埋め」のようである。

 

 もちろん例外も少なくないので、例えば東京都世田谷区の「梅ヶ丘」なんかは、ホントに梅の木がナンボでも生えた元気な丘なんだから、そこから梅ヶ丘、それで何の疑問も生まれてこない。

 

 しかし梅の木なんか後からそれこそナンボでも植えられるから、元の地形の「埋め」の字を人々の目から隠す意図があって、梅の木をたくさん植えつけるということだって、十分に考えられる。

(京急久里浜駅から、フェリー乗り場の久里浜港に向かうと、中間地点で「尻こすり坂通り」に遭遇する)

 

 水害の起こりがちな場所、例えば川と川の合流点、低湿地、沼沢地、大規模河川の蛇行から生まれた三日月湖、そういうところを埋め立てて人工的に作った土地に「埋め」の文字が付随し、後から人々が「埋め」を「梅」の文字に変えて過去の記録を消去してしまう。そういうことが特に近世と近代において少なくなかったとは言えないだろう。

 

 思えば、梅田・梅島・梅沢・梅沼・梅浜、どうしてそんな水の出そうなところに梅の木が関連するんだ? その梅を「埋め」の字に取り替えて、埋田・埋島・埋沢・埋沼・埋浜、そう書き並べてみれば、「なるほど、近世近代の人が埋め立てて造成したところなんじゃないか」と、やっぱり納得してしまうのである。

 

 そういう例は「梅」に限ったことじゃないので、地名の「栗」にも似たような事例が多い。栗田・栗沢・栗浜・栗谷、そういう地名や苗字について、栗の田んぼ・栗の生えた沢地・栗の鬱蒼と生い茂るは浜辺や谷間、そういうものがそんなにたくさんあるとは思えない。

 

 そこで「栗」の字を「刳る」という漢字に替えてみると、ふと納得がいく。「刳る」と書いて「くる」と読み、国語辞典によれば「刃物などをグサリと差し込んで穴をあけること」「えぐり、穴をうがつ」の意。例えば低湿地を加工して人工的に姿を変えてしまうのが「刳る」である。

 

 そういう何らかの大工事の後にできた土地に「刳りぬく」から「栗」の字が与えられた事例は、学者たちの調査で日本全国に多数発見されているとのこと。それこそ「※要出典」の世界だが、「梅」「栗」でググッてもらえれば、それこそ「ブラタモリ」的な単行本やら新書版やらがいろいろ出版されているのが分かる。

(久里浜港。付近には昭和のカホリの宿屋や小さな居酒屋がいくつか残っている)

 

「梅」「栗」の他にも、例えば「蛇」「谷」「苔」「淵」の字がつく土地にはそういう歴史があるとか、もっと大まかに「サンズイのついている土地は水害の恐れがある」とか、もうそんなこと言ってたら日本中「大丈夫!!」と胸を張れる土地なんか、あまり多くはないはずだ。

 

 ワタクシは渋谷区の住民であるが、「渋」には見事にサンズイがついているし、しかも「谷」である。お隣の世田谷は、分からないように「世田谷」としていても、セタとは要するに「瀬田」であって、「瀬」は見事にサンズイ、しかもその後は「田」で「谷」でもある。

 

 こうなるともう東京で水害の心配のない街なんか「ほぼ皆無」というか、中央線に沿って御茶ノ水・水道橋・市ヶ谷・四谷・千駄ヶ谷、地図を眺めているだけで、梅雨時の恐ろしさは梅田ないし埋め田以上のものがある。

 

 しかし、そうやって近世近代の地名を残しているところはまだ良心的なので、「○○台」「○○ヶ丘」「中央X丁目」みたいに、もう誰にも見当がつかないぐらい地名を変更してしまっている場所はもっとずっと厄介だ。

 

 かつて20歳台後半の今井君は、千葉県松戸市某所の「テラスエルム」というアパートで暮らしていたが、アパートの西側は江戸川に沿った水田地帯で、しかも田んぼは江戸川の流れよりも低いところにあった。ちょっと上流で雨が降ると、すぐにあたりは水浸しになった。

 

 心配になって地元の不動産屋のオジーチャンに聞いたら、「ああ、あの辺はもともと『大谷口新田』と言ってね、見わたすかぎりアシやヨシの生えた湿地帯。のどかでいいところでしたよ」とニヤリ、金歯を数本むき出しにして笑ったものだった。さすが地元の古老はよく知っている。

(久里浜から房総半島・浜金谷に向かう東京湾フェリー。客席には、十数名の客がいるばかりである)

 

 それよりずっと前、今井君がまだ小学校5年の夏に、40歳代になった父と母が「そろそろウチも国鉄の職員宿舎を出て、新しく家を建てよう」と、土地を物色し始めた。ちょうどいいタイミングで秋田市だか秋田県だかが造成した分譲地で「YM団地」(仮名)というのが売り出された。

 

 公権力に弱い父が早速とびついて、100坪で100万円だったか、今思えば驚くべき低価格、「さすが公的物件」とばかり信用しきって、父は「仕事があるから」と言い訳して契約の場にさえ行かず、長男の今井君が母に付き添ってハンコを押しに行った。

 

 そして見事に売買契約成立。さすが今井君、地元民がみんな認める超優等生ヒロシ君は、キチンと母のサポート役を務めたのである。その数年後、満を持して新築のオウチを立て始め、丘の麓の新築家屋は今井君中3の秋に完成。高校入試の3ヶ月前に引っ越しも完了した。おおワタクシ、高校入試はあの時代にふさわしく「余裕のヨッチャン♡」だったわけである。

 

 ところが諸君、実際に住み始めてみると、どうも周囲の水はけが悪い。雨が降ると、水が流れない。雪が融けると、あたり一面泥だらけになって、なかなか乾かない。どこもかしこも水たまりだらけだった。

 

 高校の入学式にも、泥だらけの長靴で出かけなければならない始末。初夏、新築わずか数カ月の家が、何だか傾いてきたような気がして、ピンポン球を廊下に置いたらコロコロ勢いよく転がっていく。障子やフスマと柱との間にスキマが生じ、ぴったり閉まらなくなった。

 

 あの時の父のムクれようといったら、いま思い出してみても可哀想でならない。販売先を相手どって集団で訴訟もいくつか起こったはずだ。だって諸君、登記簿謄本だったか古地図だったか、売りだされた土地の昔の住所を調べると、「苔良谷地」と書いて「こけらやち」。苔が良く生える谷地だったのである。

 

「谷地」とか「谷津」「谷戸」みたいな土地の名を見れば、そりゃ誰だって二の足を踏む。昭和の終わりから平成にかけて、「土地を購入する前には古地図や大昔の史料をよく調べて、安価だからと言って地盤の悪い土地に大金を出すようなヘマをしないように」と諭す本も多く出版された。

   (東京湾フェリーから、千葉方面の工業地帯を望む)

 

 そういう苦い思い出があるから、ワタクシなんかは日本中を旅しながら、ついつい「この地名にはどんな過去があるのか」を考えてしまう癖がある。

 

 そりゃ「ブラタモリ」のディレクターほど詳細にいろいろ調査するほどではないが、例えば5月31日の「東京湾1周」で三浦半島の先端の久里浜に到着すると、「久里浜」の「久里」にどんな過去が潜んでいるか、やっぱり考えないわけにはいかない。

 

 海の向こうの房総半島には「九十九里浜」があって、さすがにあれほど長い砂浜が続く地形なら「100里まではいかないが、きっと99里はあるだろう」という昔の人のオシャレ感覚は分かる。

 

 しかしここは、岩がちな三浦半島だ。鎌倉も逗子も横須賀も、岩だらけ&トンネルだらけの切り通しが連続する地帯であって、久里浜という響きからすぐに「9里も続く長いビーチ」をイメージするのは難しい。

 

 するとどうしてもさっきの「刳る」「刳り」「栗」から「刳り浜」、岩だらけの厳しい海岸をくり抜いて出来た小さな浜辺を連想せざるを得ない。いやはや、どこまでも小難しい今井君なのである。

  (穏やかな東京湾。行き交う船もほとんど存在しない)

 

 横須賀から乗った京急線を久里浜の駅で降りて、東京湾フェリーの出る久里浜港まで、徒歩30分ぐらい。駅前のアーケード街は、半分ぐらいがシャッターを下ろした典型的シャッター街になりかけていて、元気に絶賛営業中の店舗も散見されるが、やっぱり昭和の賑わいからは遠い。

 

 ワタクシは大学学部生の時、体育の授業で「水泳合宿」という恐ろしいものを選択してしまった。普通の体育科目は毎週1回ずつ・年30回ぐらい通えば単位が取得できたのだが、18歳を過ぎた学生ともあろうものが、体育着なんかをカバンに詰めて体育授業に毎週毎週コツコツ通うなんて、バカバカしいじゃないか。

 

 もちろんマジメな友人たちは、「バドミントン」「ソフトボール」「卓球」「バスケ」「ボウリング」から、強烈なのは「相撲」「レスリング」「ボクシング」なんてのを選択して、毎週の体育授業に耐えていた。

 

 しかしやっぱりフマジメ極まりない今井君は、「毎週1回の体育なんか、絶対ガマンできない」「1発で体育の単位が取れる裏ワザはないか」と物色し、見つけたのが「合宿」だった。合宿なら、1年でたった5日の合宿に耐えさえすれば、単位は易々と手に入るのだった。

 

 問題は、その合宿の科目だ。一番人気だったのは「スキー」。そりゃいいや、1年に5日のスキー合宿で、毎週1回の相撲やレスリングの代わりに単位が取れるなら、そりゃサイコーじゃないか。「スケート」「自動車」なんてのもあった。中には「女子学生と仲良くなれそう」という甘い期待を居抱く者も少なくなかった。

(東京湾フェリーより。浜金谷が接近すると、正面に鋸山の威容がせまる)

 

 ところが諸君、今井君に回ってきた合宿授業は「千葉県館山での水泳合宿」。おお、目の前があっという間に真っ暗だ。「下手すれば、赤フン全員強制だぜ」と脅かす悪いヤツまでいた。

 

「赤フン」とは、もちろん「赤いフンドシ」であって、何しろ昭和の日本だ、「男子全員が赤フンドシで海中水泳の特訓を受ける」という恐怖のどん底で、若き今井君は久里浜にやってきた。4kmだか5kmだか、恐ろしい「遠泳」の課せられる日もあるのだった。

 

「久里浜から浜金谷まで、東京湾フェリーで来てください」

「浜金谷から館山まで、各自で列車移動、館山・北条海岸の寮に、7月20日に集合のこと」

 

 大学からの案内は、何だか地獄落ちの宣告のようだったが、何とか「赤フン」だけは免れた。ごく短い競泳用のパンツを全員はかされて5日の合宿生活。しかしいやはや、今井君が人生で最も頑張った5日だったかもしれない。

 

 久里浜も、東京湾フェリーも、浜金谷も、あの遥かな水泳合宿以来である。あの時、久里浜の町がこんなに寂しいアーケード街だったか、東京湾を横切る東京湾フェリーがこんなにガラガラだったか、ワタクシとしては珍しいことに全く記憶がない。

 

 というか、「世界に冠たる東京湾」である。群馬県の超名門・前橋高校からやってきたアライ君というクラスメイトに「カンタル君」というアダ名がついたことは、確かこのブログでも書いたことがあるが、その「世界に冠たる」東京湾は、あの時もっともっと船の往来の激烈な海路だったような気がする。

(マコトに寂しい浜金谷の駅。ここから内房線を君津・木更津・千葉方面に北上する)

 

 しかし、マコトにのんびりと対岸の房総半島を目指す我が東京湾フェリー「金谷号」は、すれ違う船も、追い抜く船も、交差してすれすれを行く船も一切なし。瀬戸内海や、ラプラタ河の河口地帯や、ダブリンとリバプールの海峡や、今までワタクシが経験したどんな海路よりも、ずっと穏やかで呑気で退屈な航海なのだった。

 

 ただし、船内は遠足だか修学旅行生だかの男子集団が激烈な勢いで駆け回り、たいへんな騒々しさである。思えば「赤フンかも」「赤フンだったらどうすんだ?」「赤フンだったら全員で逃げ出そうぜ」と大声でワメきちらしていた学部生時代、ワタクシもああいう元気な男子集団の一員だったのかもしれない。

 

1E(Cd) Ashkenazy(p) Müller & Berlin:SCRIABIN SYMPHONIES 1/3

2E(Cd) King’s College Choir:ABIDE WITH ME(50 Favorite Hymns) 2/2

3E(Cd) Bobby Caldwell:AUGUAST MOON

6D(DMv) WITNESS

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