Sun 230611 横須賀ストーリーさまざま/百閒と芥川/山口百恵/そんなヒロシに 4384回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 230611 横須賀ストーリーさまざま/百閒と芥川/山口百恵/そんなヒロシに 4384回

 5月31日、以前にもちょっとだけ書いたが「今日は東京湾を一周してこよう」と思い立ち、朝の東京駅に向かった。

 

 天気予報では「雨が降ります」「雨が降ります」と、みんなでずいぶん脅かしていたけれども、初夏の雨の日、傘を持たずに小旅行に出かけるのも、また大人っぽくていいものじゃないか。

 

「雨が降ります 雨が降る。遊びに行きたし 傘はなし。紅緒のお下駄も 緒が切れた」。1919年、北原白秋がそういう詩を書いた時、彼の頭にあったのは何歳ぐらいの幼女だっただろうか。

 

 なお、「ええっ?『紅緒のお下駄』じゃないでしょ、『紅緒の木履(かっこ)』も緒が切れた、でしょ」、とおっしゃるアナタ。北原白秋の原作では「お下駄」。後に「かっこ」に修正して、誰でも知っている童謡になった。

 

 北原白秋の作詩が1919年。その前年の1918年には、ワタクシの大好きな内田百閒が、横須賀・海軍機関学校の教官になっている。同じ学校ですでに教官になっていた芥川龍之介の紹介だった。

 

 何しろ百閒先生は、東京帝国大学独文科の出身だ。海軍機関学校でももちろんドイツ語を担当。第1次世界大戦で敗れたとはいえ、なお当時のドイツ軍は「精強」のイメージが強い。ドイツ語は英語と並んで海軍の主要外国語だった。

 

 その2年後の1920年、百閒先生は法政大学のドイツ語教授に就任。「百鬼園」を名乗って盛んに随筆の執筆を始めていたが、どうですか皆さま、100年前の日本って、北原白秋に芥川龍之介に内田百閒、羨ましくなるほどの文学隆盛期を迎えていたのである。

(5月31日、東京湾一周コースのワタクシは、生まれて初めて横須賀を訪れた 1)

 

 ワタクシは22歳から30歳までの8年間、就活やらサラリーマン経験やらで非常識なほど忙しくなり、確かに就活は1週間もかからなかったにしても、とにかくサラリーマン生活の精神的&肉体的重圧が重たくて重たくて、とても読書どころではなかったが、それでも何とか内田百閒の全作品を読み切るぐらいのことはした。

 

 何より羨ましかったのは、若き百閒先生が毎週1回横須賀線に乗って、横須賀の海軍機関学校に通う場面の描写である。最初のうちは、芥川龍之介と一緒に汽車に乗り込んだ。芥川は芥川で、この通勤の1コマを題材にして佳品「蜜柑」を書いている。

 

 横須賀線が横須賀まで開通したのは1889年。電車による運行は1930年に開始。したがって芥川も百閒も海軍機関学校には、蒸気機関車が牽引するいわゆる「汽車」で、あのトンネルの多い路線を黒い煙まみれになって往復したことになる。

 

「汽車に乗るのが何より好き」という、乗り鉄の元祖みたいな百閒先生が、横須賀線の座席に収まって満面の笑みで横須賀を目指す様子が、眼に浮かぶようである。

 

 よほどハシャいだのだろう。親しい友人である芥川龍之介に向かって「君の顔は長い」と断言したのは、その汽車の中だったかそうではなかったのか、そこんところは忘れてしまったが、とにかく「顔が長すぎるんないか」と心配している友人に、面と向かって「君の顔は長い」と断言してしまったのだから始末が悪い。

(5月31日、東京湾一周コースのワタクシは、生まれて初めて横須賀を訪れた 2)

 

 ワタクシは秋田の港町の出身だから、横須賀にはコドモの頃から憧れがあって、確かに秋田市土崎の港にも巡視船「みくら」がいつでも停泊していたけれども、さすがに舞鶴や呉や横須賀とはランクが違いすぎる。いつかは横須賀の港まで、内田百閒と同じ列車に乗って行ってみたいものだと、その憧れは消えなかった。

 

 しかし実際には、なかなか横須賀に出かけるチャンスが訪れない。横浜に住む何人かの友人が学部時代に出来たが、彼らに連れられて横浜の街を徘徊するようになっても、「では横須賀に行こうか」という話にはなかなかならなかった。

 

 予備校講師になってからも、河合塾でも駿台でも代ゼミでも、やっぱりどうしても横浜校どまり。「週に1回、横浜校に出講」というパターンは15年も続いたけれども、内田百閒の真似をして「週に1回、横須賀へ」みたいなワガママはありえなかった。

 

 横浜の友人たちは、ちゃんと「横須賀線」と発音せずに、盛んに「スカ線」「スカ線」とかっこよく短縮してみせた。今もそうなのか、今でも通称は「スカ線」なのか、その辺のことは分からない。「今でもスカ線って言うんでスカ?」みたいなバカなことしか言えないのが悲しい。

 

 それでも、学部時代はマコトに暇だったので、その「スカ線」というオシャレな電車に1時間揺られ、鎌倉の街まではよく出かけたものである。鶴岡八幡宮のそばに「神奈川県立美術館」というシックな美術館があって、青森の木造(きづくり)町から上京してきた友人・菊池君と何度か訪問した。

(横須賀は、カレーの街。JR横須賀駅を出ると、すぐにカレーのマスコット「スカレー君」の姿があった)

 

 その菊池君が、学部4年の5月26日、突然この世を去ってしまった。若き今井君はその前日5月25日の午後3時ごろまで、何ということもなしに菊池君と大学構内をぶらついていて、それこそ「次の鎌倉訪問はいつにしようか?」みたいなことを語り合っていたに違いない。

 

 それなのに5月26日の深夜、「菊池君が亡くなった」という電話連絡を受けた。例の「松和荘」201号室、本棚6つの4畳間と、ほぼフトン敷きっぱなしの「寝室」4畳半、汲み取り式トイレのプンプン臭うボロアパートの暗闇で、生まれて初めて「友人が他界した」という知らせを受けた。

 

 なお、つい最近の記事で「本棚8つ」と勘違いして書いてしまったが、正しくは「本棚6つ」でした。お詫びして訂正いたします。

 

 以上いろんなことがあって、横須賀線というのはワタクシにとって今も特別な電車である。東京駅を10時に出る電車に乗りこんで、横浜・大船・北鎌倉を過ぎ、車窓には大きな岩山を荒削りにうがった切り通しとトンネルが目立ちはじめ、すると間もなく逗子の駅に着いた。

 

 ここで、4両編成の短い電車に乗り換える。逗子までの横須賀線は長い長い16両編成だから、逗子からの「たった4両」は異様に短く見える。ついこの間までは、スカ線の終点・久里浜まで直通の電車がもっとたくさん走っていたように思うのだが、どうしたんでスカね。

(5月31日、東京湾一周コースのワタクシは、生まれて初めて横須賀を訪れた 3)

 

 横須賀と言えば、ボクらの世代としてはどうしても「山口百恵」という人について触れないわけにはいかない。

 

 ワタクシはどうもコドモのころから、山口百恵さんというシンガーというか女優というか、何となく暗い陰影を漂わせたあのキャラクターが苦手で、あんまりよくは知らないのである。

 

 男子よりも、むしろ女子たちが熱くキャーキャー盛り上がっていたような気がする。中3の頃から「青春ドラマ」のジャンルをほぼ席巻し、「余命あと何年」、いや「余命数ヶ月」の悲劇のヒロインが、叶わぬ(ないし「道ならぬ」の可能性さえ漂う)悲恋に、絶叫するのではなく、静かで穏やかで熱い涙を流すストーリー展開だ。

 

 十数シリーズだったか、もっとだったか、悲恋&青春ドラマの1つ1つのシリーズに、必ずヒット曲がヒモヅケされる。主題歌とかテーマ曲とか挿入歌とか、とにかく叶わぬ or 道ならぬ悲恋にヒモヅケになっているから、発売前から大ヒットは確実だ。

 

 ついでに、文芸大作映画にも次々に出演する。三島由紀夫「潮騒」、谷崎潤一郎「春琴抄」、川端康成「伊豆の踊り子」に「古都」と続いた。

 

 15歳でデビューして、21歳で引退というハイスピードぶりもスゴいが、足掛け7年の間にこれほど文芸大作に出ずっぱりだったのはまさに驚異のマト。あの吉永小百合どんだって、さすがにこれにはかなわないんじゃないか。

(JR横須賀駅前「ヴェルニー公園」。ヴェルニーの故事来歴は、諸君で調べてくれたまえ。静かで清潔な素晴らしい公園だった)

 

 そして諸君、大ヒット曲「横須賀ストーリー」である。確か彼女のママが横須賀の人、作詞の阿木燿子サンも実家が横須賀だったりして、1976年「横須賀ストーリー」の発表もまた必然の成り行き。その年の「紅白歌合戦」にも「横須賀ストーリー」で出場している。

 

 当時の今井君は、歌謡曲番組みたいなものは1年に1回、「紅白歌合戦」を見るだけだったが、タイトルが「横須賀ストーリー」なのか「横須賀ストリート」なのか、その辺もハッキリしないうちに、例の「これっきり これっきり もう これっきりですかぁ」というサビだけは、あっという間に脳味噌に摺り込まれてしまった。

 

 だって諸君、わずか3分のこの曲の中で「これっきり これっきり もう これっきりですかぁ」が、8回も繰り返される。そりゃ覚えるに決まってる。そして各コーラスの最後に「ここは 横須賀ぁ」、これも3回繰り返される。

 

「ここは 横須賀ぁ」のちょっとドスの効いたセリフと同時に、潤んだ彼女のオメメが斜め下からグイッと引き上げられ、極めて濃厚なカメラ目線になる。

 

 きっとその辺も強烈な魅力だったんだろう。平岡正明というライターさんが「山口百恵は菩薩である」という評論を出版したのは、1979年のことだった。

 

 どうもあの頃から、横須賀には濃厚なイメージが絡みついてきた。どう濃厚なのか分からないが、「ワタクシには苦手な街なんじゃないか」という一種の誤解である。宇崎竜童&阿木燿子のコンビで「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」なんてのもあった。

 (曇天の横須賀港。勇ましいお船もいろいろ停泊中だった)

 

「そんなヒロシに騙されて」もあった。こちらの作詞は、もちろんサザンの桑田さんであるが、ワタクシだって「ヒロシ」ではないが「宏」ではある。素朴でダサくて優しい宏と、女の子をコロッと騙すワルなヒロシがいるなら、「横須賀はヒロシの街、宏君には向いていない」、そういう気持ちになっていった。

 

 だって諸君、ヒロシに騙された彼女は、最後にこう歌う。「だから彼氏に伝えて 口づけだけを待っている サイケな夏を横須賀で」。「サイケな夏」の横須賀ですぞ。こりゃワタクシには絶対に無理だ。

 

 しかも諸君、「踊りが上手でウブなフリ」「そんなヒロシが得意な8ビートのダンス」「だからお前は素敵さ」「愛が消えてく 横須賀に」とくると、さすがに素朴な宏君の足は、ズンズン横須賀から遠のいてしまった。

 

  というわけで、2023年5月31日、ついにワタクシは横須賀を生まれて初めて訪問することになった。世界250都市をのし歩いた今井が、実は今まで横須賀を訪ねたことがなかったのだ。ヒロシ軍団の根城に、宏大将がいよいよ攻撃をかける時が来た。

 

 東京湾一周コースは、こうしてまず東京 → 鎌倉 → 横須賀と、大好きな汽車に乗り込んで芥川をイジる百閒先生を思いつつ、ひたすら南下することから始まった。

 

「ここは 横須賀ぁ」みたいなサイケな女の子たちをコロリと騙しちゃう、踊りのうまいヒロシ軍団が待ちうける(であろう)初夏の横須賀へ。それこそ「いざ出陣じゃぁ」と小声で呟く若き日の徳川家康のような、そういう気の弱さなのだった。

 

1E(Cd) Boz Scaggs:BOZ THE BALLADE

2E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 1/4

3E(Cd) Richter:BACH/WELL-TEMPERED CLAVIER 2/4

6D(DMv) ANTEBELLUM

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