Tue 230606 明月院のハナショウブが美しい/今年も来年も大河ドラマが心配だ 4380回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 230606 明月院のハナショウブが美しい/今年も来年も大河ドラマが心配だ 4380回

 需要と供給の関係とはマコトに複雑&微妙なもので、需要側の要望を優先するのか、供給する側の欲望や制作意欲を優先するのか、そのへんのバランスこそが、人類の歴史と文明を操ってきたのだと言っても、決して言い過ぎにはならない。

 

 食べる側が「こういう果実を食べたいから、どうか作ってくださいませんか」「こういうサカナを欲しているので、どうか海に行って獲ってきてください」と要望を口にし、だから農家や漁業者が需要サイドの欲求に合わせて努力する。それを健全と考えるのか。

 

 いや、そうではなくて、供給サイドが「こういうものを作ってみたい」「こんなもんが出来ちゃいましたけど、食べてくれませんかね」という商品が存在し、需要サイドが「おや、そりゃ面白そうだね」と叫んで食いついてくる、そういう姿を健全とみるのか。

(北鎌倉・明月院のハナショウブ、5月30日。雨あがりの美しさが際立っていた 1)

 

 これはもう完全に好き嫌いの問題になると思うのだが、ワタクシなんかはどうしても後者に共鳴するので、特に小説とか芝居とか、映画とか絵画とか音楽とか、その種の世界では特に「こんなの作ってくださいませんか?」という要望よりも「こんなの出来ちゃいましたけど」を優先したいのである(この話、本日後半の大河ドラマの話題にまで続いていきます)。

 

 そういうヤツだから、自分でシロートなりに何か文章を書くとか、講師として授業を組み立てるとか、少しでもクリエイティブなことをしてみたくなると、「こんなの書いて欲しいんですけど」「こんな授業をしてください」みたいな要求は、何とも無礼なことに最初からほぼ無視してしまいたくなるのだ。

 

「こんなのを書いてみたんで、よかったら読んでください」「イヤなら無視してくださって結構です」というスタンス。さすがに予備校の授業では「イヤなら受講しないでください」とは言えないが、「こんな長文の読み方はどうですか?」「こんな学習法はどうですか?」と、こちらから先行して提案するスタイルを常に選択してきた。

(北鎌倉・明月院のハナショウブ、5月30日。雨あがりの美しさが際立っていた 2)

 

 だからこのブログでも、なかなか「こんなのが読みたいんですけど」という読者諸君の要求やら需要やらを考慮しようとしない。「こんなのが書きたくて、今日もまたこんなの書いちゃったんで、興味があったら読んでくれてもいいですが、関心ゼロなら無視して構いません」と、いつも平然としている。

 

 だから、「受験情報」「予備校講師たちのプライベート」「交友関係」「大学受験のテクニック」「英文を速読する方法」「共通テストを時間内に解く安易な方法」みたいな話は、滅多なことでは書いてあげない。

 

 そうものを求めて、クリックなりタップなり「ポチッと」なりしていらっしゃることは百も承知、というか万も億も兆も承知。しかしワタクシ自身がその類いのことに全く興味がないんだから、なかなかそのカテゴリーに足を踏み入れることはない。

 

 いやはや、「意地悪だ」「へそ曲がりだ」「もっともっと人気取りを心がけたほうがいい」、そういうご意見はこれまた百も万も億も承知の助。でも書きたくないものは書きたくない。

 

 第一、その程度の受験情報なら、この世界にアップアップするほど溢れかえっていて、何もこの今井にそんなものを求めなくても、目をつぶっていても石を投げればぶつかるぐらいだ。マコトに申し訳ないが、その類いの話なら、どこか別のところを当たってくれたまえ。

(北鎌倉・明月院のハナショウブ、5月30日。雨あがりの美しさが際立っていた 3)

 

 ま、それでも予備校講師としての日々や、「今日は○○で公開授業です」「みんなどんどん来てね」「待っててね、乞うご期待♡」「満員御礼、ありがとう」「また呼んでね」みたいな話を、熱く熱く期待してくれる皆さまは、スミマセン、あと10日ほど待ってくれませんか。

 

 3月中旬以来、いわゆる「花活」に夢中になり、来る日も来る日も熱烈な「花活おじさん」「高級♡花活オジサマ」として、「梅だ、桜だ、スミレだ、チューリップだ、いずれアヤメかカキツバタ?」の類いの記事ばかり書き続けてきたが、いよいよ「いかにも予備校講師」な日々が再開する。

 

 初夏の全国行脚が続くのは、6月中旬から7月いっぱい。1ヶ月ちょいの間に20数回の公開授業が集中するから、またまたこのブログは東奔西走&南船北馬の日々の記録に戻る。

 

 日本国中、ヒコーキで飛び回る。ヒコーキに新幹線にホテルの予約も全て今井自身で進めるのだが、まるで旅行代理店並みにテキパキ、沖縄に九州に中国四国に近畿、もちろん首都圏もみんな予約済み。それこそ「待っててね」「期待しててね」「乞う♡ご期待」なのである。

(北鎌倉・明月院のハナショウブ、5月30日。雨あがりの美しさが際立っていた 4)

 

 ところで諸君、5月30日の今井君はまたまた北鎌倉「明月院」を訪問した。昨日の写真も明月院5月30日の写真であるが、アジサイはまだ半分しか色づいておらず、1週間前の5月24日と比較して、さほどの変化は見られなかった。

 

 しかし、その後たった1週間で明月院を再訪したワタクシの目当ては、あくまで満開を迎えたハナショウブ君たちである。1週間前にはオタマジャクシだった4分音符軍団も、いまや立派な大人のカエルに成長して、明月院の広い庭園はケロケロ&ケロケロ、激しいカエルの声に満たされていた。

 

 今日の写真8枚は、全て明月院のハナショウブ、その遠景の特集である。明日の写真の予告をするなら、明日もまた明月院のハナショウブ、1つ1つの花に接近しての「接写特集」とする。

 

 こんなに美しい紫の共演を見ると、ワタクシは来年のNHK大河ドラマが心配になってくる。紫式部が主人公の「光る君へ」なのだそうだが、何だか「東京オリムピック噺〜いだてん」以来のサンザンな有様にならないか、心配で心配でならない。

 

 いや、もちろん「視聴率なんかどうだっていいんだ」というご意見もあるだろう。しかし毎回毎回ヒト桁どころか5%+α、最低の時には何と3.7%だったか、そんな記録に残る歴史的惨敗を、紫式部の美しい紫に重ねてほしくないのだ。

(北鎌倉・明月院のハナショウブ、5月30日。雨あがりの美しさが際立っていた 5)

 

 大河ドラマは、源平か戦国か幕末か、いつまでもその3択でいいのだ。川中島か、壇ノ浦か、本能寺か、新撰組か、あえて3択を外すとしても、松の廊下と赤穂浪士、柳沢吉保と吉良邸討ち入り、その辺で凝り固まっていてくれれば、笑点 → まる子ちゃん → サザエさん → 大河、ゆったり安心して月曜日へのカウントダウンを迎えられる。

 

 この半世紀、いったい何人の織田信長が桶狭間で雄叫びをあげ、何人の明智光秀が「敵は本能寺にあり」と絶叫し、何人の坂本龍馬が血まみれで暗殺され、何人の平清盛が高熱に浮かされながら息絶えたか。それを「マンネリ」と批判したり反省したりする必要は皆無なのだ。

 

「いだてん」は諸君、ヒーローがマラソンランナー♡金栗四三だった。それでも丸1年もたなくなって、途中から主人公が朝日新聞記者に交代した。常に絶叫し、常に奇抜な行動に訴え、周囲に迷惑ばかりかけている新聞記者を主人公にしなきゃ、ストーリーが続かなくなる惨劇。あれはむしろ、朝ドラ向きのストーリーだった。

(北鎌倉・明月院のハナショウブ、5月30日。雨あがりの美しさが際立っていた 6)

 

 大河ドラマは、セオリー通りが一番なのだ。源平・戦国・幕末のマンネリを打破する必要なんか全くない。時代設定を昭和とか飛鳥とか、白鳳&天平とか平安とか、そのあたりの珍しいところに持っていっても、話題になるのは最初の数回だけだろう。

 

 子役の可愛らしさで、最初の1月は乗り切れる。2月はその貯金というか、思い出シーンに登場する子役の記憶で乗り切れる。しかし3月になっていよいよ本物のストーリーが始まる頃から、低視聴率のニュースがチラホラ、5月から先は目も当てられない。そういう歴史が何度も繰り返されているじゃないか。

 

 平安時代中期が舞台になるのは、ほぼ半世紀ぶりなんだそうだ。48年前のタイトルは「風と雲と虹と」、平将門と藤原純友、いわゆる「承平天慶の乱」を描いた。加藤剛・露口茂・緒形拳・山口崇・草刈正雄・太地喜和子・真野響子・宍戸錠、主役を張ってもおかしくない昭和の名優がズラリと顔を揃えた。

 

 それでもやはり、平将門に俵藤太に平貞盛が主人公じゃ、大河ドラマを眺める人々にとっては馴染みが薄すぎた。「川中島はどうした?」「人生50年はどうした?」「真田幸村は出てこないのか?」。人々は、遠すぎる時代設定に途中でウンザリしてしまった。

(北鎌倉・明月院のハナショウブ、5月30日。雨あがりの美しさが際立っていた 7)

 

 あと、何と言っても心配なのは、21世紀になって定着した「原作ナシ」「脚本家に100%おまかせ」のスタイルである。

 

 日本中の日曜日が大河ドラマに沸き返り、翌日の職場や学校でも「昨日の大河、凄かったな」とみんなが息を弾ませた時代は、すでに定評ある原作の小説が必ず存在していたのだ。

 

 何と言っても司馬遼太郎であり、海音寺潮五郎であり、そうでなければ永井路子や子母澤寛や山岡壮八であり、大佛次郎に舟橋聖一に吉川英治に村上元三だった。しかし21世紀、国民的大作家による原作小説をモトとすることは、ほぼゼロになった。

 

 いまやトレンドは、脚本家によるオリジナル。書きながら収録を進め、反響や評判を見極めつつ、ストーリー展開や俳優の配置にも、微妙な修正やら大胆な変更やらが加えられる。

 

 おそらく、視聴者や経営サイドからの要望&要求も取り入れるだろうし、無視できない局内の力関係なんかも働くだろう。

 

 すると諸君、今日の最初のテーマに戻るが、作る側の「こんなん作っちゃいました」より、見る側の「こういうふうに作ってくれませんか」が優先される。

 

 もちろんそれ自体は必ずしも悪いことではないのだが、作るサイドに「ブレ」が生じれば、見ている方も少なからずその「ブレ」に悩まされる結果を招く。

 

 人物像にブレが生まれ、時代の描き方にもブレが生じて、見ている者は、明確に言葉では言い表せないにしても、「何だか違う」「終始一貫してないんじゃないか」という違和感に苦しみ、次第にドラマに集中できなくなっていく。

 

 ドラマのスタートラインで、太く高く揺るがしがたい原作の幹ないし骨格があって、基本となる原作のシバリから大きく離れることが出来ない状況なら、1年約50回の連続ドラマを、それこそ「貫く棒のごときもの」が存在し、太い棒にぎゅっと貫かれているぶん、ドラマへの違和感も失望も感じにくいのである。

 

 そのへん、2023年の「どうする家康」はどうなのか、今日はもう長く書きすぎたから、明日は「ハナショウブ♡接写バージョン」とともに、その考察からまた書き出したいと考える。

 

1E(Cd) Menuhin:SCHUBERT/SYMPHONY No.1 & No.4

2E(Cd) King’s College Choir:ABIDE WITH ME(50 Favorite Hymns) 1/2

3E(Cd) King’s College Choir:ABIDE WITH ME(50 Favorite Hymns) 2/2

6D(DMv) THE INFORMER

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