Thu 221006 我が二刀流の見果てぬ夢/遥かな将来、古文の講師をやってみたい 4276回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 221006 我が二刀流の見果てぬ夢/遥かな将来、古文の講師をやってみたい 4276回

 大谷選手のこれほど花やかな活躍を見せてもらえば、遥かな昔の野球少年として思わず「もう思い残すことはないな」と不注意な溜め息をつく。規定投球回数にも規定打数にも達して、防御率も奪三振数も、ホームランも打点も打率も盗塁数も、全て1つずつMVPにふさわしい数字になっちゃった。

 

 かつての日本の野球界にも、二刀流と言っても過言ではない選手は存在したのである。西鉄ライオンズの稲尾どんは、ワタクシよりずっと上の世代であるが、ジャイアンツ相手の日本シリーズで「投げては2連続完投、打ってはサヨナラ♡ホームラン」、神様とも仏様とも呼ばれたらしい。

 

 400勝投手の金田正一どんも、しょっちゅう野手の代打に起用されては見事に起用に応え、仲間たちに「あんまり代打で打つなよ」「オレたちの立場がないだろ?」とからかわれた。

 

 ジャイアンツ堀内恒夫投手は、まだハタチそこそこだった1967年10月10日、広島カープを相手にノーヒットノーランを演じ、まさにその試合で自ら3打席連続ホームランも記録。ジャイアンツV9時代の不動のエースになった。

 

「冬はスピードスケート、夏は自転車」という二刀流もあれば、「冬はスノボ、夏はスケボ、どちらも超一流」という選手もいる。アメリカなら、「夏は野球、冬はアメフト」とか「冬はバスケ」とか、そういうのも決して珍しくない。

 

 しかしやっぱりオオタニサンは、次元が違うのである。20世紀中頃の日本のプロ野球と、21世紀も中盤に差しかかる今の時代のメジャーリーグでは、まるきり世界が違うのは言うまでもない。しかもどうやら間違いなく、この二刀流の活躍は来年も再来年も5年後も、10年後まで途切れることはなさそうである。

(8月22日、猛暑の「六地蔵めぐり」が続く。山科から地下鉄で伏見地蔵「大善寺」へ。詳細は、次回)

 

 これほどの大活躍を眺めていると、ワタクシなんかも年甲斐もなく、かつての自分の二刀流の夢を思い起こすのである。まあ、ご自由に失笑でも憫笑でも嘲笑でもしてくれたまえ。コドモの頃の今井君は、二刀流どころか三刀流でも四刀流でも、自分には可能だと信じて疑わなかった。

 

「コドモ時代」をいつからいつまでと定義するかは諸君に任せるが、少なくとも小学校中学校までの今井君は「向かうところ敵ナシ」というか、「何をやっても一番」というか、しかもそれが当然だと鼻高々、マコトにイヤらしいコドモであった。

 

 学校の勉強だけではない。書道大会でも最優秀賞、読書感想文コンクールはもちろん特選、肖像画を描いても金賞、風景の版画を刷っても金賞、夏休みの自由研究に提出した「海藻の標本」ももちろん特選。別に自慢するわけではあるが、何をやらせても、まあ負けることはないとタカをくくっていた。

寺

(地下鉄・六地蔵駅から猛暑の中を徒歩20分、伏見地蔵「大善寺」に到着。詳細は次回)

 

 そのバケの皮がボロボロ崩れていったのが、16歳から18歳にかけてのことである。

 

 まず自分で自分のバケの皮に気づき始めた。自分の限界が、ある瞬間にみんなハッキリ見えてしまった。イチバンどころか、「全てにおいて2流」ないし「全てにおいて3流」の現実が見えた悲しみは大きかった。

 

 次にバケの皮を指摘したのは、父であり母であり姉上であって、さすがに家族と言ふものの認識力はマコトに鋭いものである。

 

 まもなく、最も親しい友人たちも「今井の限界」を暗い表情で指摘するようになった。

 

「今井は何でも上手にこなすけれども、それは『器用貧乏』と言ふものの典型ではないのか」

「そんなに何にでも興味を示すんじゃなくて、これから専門にする分野にもっと集中すべきなんじゃないか」

そう厳しく指摘してくれるヤツがいた。

(8月22日、ちょっとオバカな大冒険を経て、午後2時過ぎに鳥羽地蔵「浄禅寺」に到着。詳細は次回)

 

 それでもワタクシは典型的男子であるから、とにかく落ち着きがない。21世紀のジェンダーフリーの時代に、「男だから」「男らしく」「男のくせに」「男子というものは落ち着きがないから」みたいな発言は時代遅れかもしれないが、まあそこは大目に見て許してくれたまえ。

 

 母親や姉妹や同級生女子が、ホントに困った声で「男の子って、どうしてこうなの?」と困惑を露わにすることがあると思うが、今井君はまさにその典型。ここにも何度か書いたけれども、何しろ何をやってもそれなりに器用にこなせるから、「将来の専門」なんかには全く集中できない。

 

 まず、医師になりたい。しかし作家にもなりたいし、学者にもなりたい。チェーホフもカロッサも、我が森鴎外どんも「医師で作家」の二刀流だ。

 

 もし医学部志望の諸君がこれを読んでいたら、ドイツの作家カロッサ「美しき惑いの年」「ドクトル・ビュルゲルの運命」「ルーマニア日記」を読んでみてくれたまえ。医学部に進学したカロッサ自身の青年時代や、ルーマニアで第1次世界大戦に従軍した軍医としての日々、医学部に進むなら、ぜひ読んでおくべきだと思う。

(鳥羽地蔵「浄禅寺」。午後2時過ぎだが、まだ3つ目のお地蔵さま。何しろ「六地蔵めぐり」だから、これからまだ3箇所まわらなければならない)

 

 さて、こうして当時の今井君は、医師で作家で学者で画家で、出来れば音楽の方でも評価されたいみたいな、バカげた思いでパンパン。「二刀流どころか三刀流でも四刀流でも」と言ふバカげた自負と大風呂敷は、コドモ期から青年期に入って、バケの皮ボロボロの状態になっても変わらなかった。

 

 まあ諸君、その成れの果てが今のワタクシだ。せっかく電通みたいな大企業に入っても、そこにまるまる一生を捧げるなんてのは意地でもイヤ。医師も学者も画家もこの段階で夢はついえたが、まあ作家ぐらいなら何とか手が届きそうな気がした。 

 

 当時の電通の社員の中には、芥川賞受賞者やら有名ミュージシャンも複数存在したし、後に映画プロデューサーに転身した先輩だっていた。「こりゃオレも、指をくわえて眺めているわけにはいかないや」と、まだ二刀流の未練を捨てなかった。

(それでも鳥羽地蔵で3つ目の「お幡」をゲット。あと3枚ゲットすれば、六地蔵めぐりの完成形なる)

 

 しかし諸君、あの頃から長い長い年月が、虚しく流れていった。結局は二刀流どころか一刀流にも至らず、外国語講師としてのカタナも、決して天下の名刀の切れ味ではないし、妖刀の不気味な輝きもない。17歳の夏に「未来の専門に集中したほうがいいんじゃないか?」と苦笑した太古の友人の笑顔が懐かしい。

 

 もう6年近く前のこと、寿司屋だったか天ぷら屋だったかのカウンターで、中学受験に成功したばかりの3世代の祝賀会を目撃した。合格したばかりのニコニコ男子12歳、誇らしい表情のママ&パパ、ママのご両親らしいオジーサマ&オバーサマ。12歳男子はKO大(仮名)の系列中学に合格したらしかった。

 

 この際「天ぷら店」としてしまうが、何しろKO系列校だ、家族揃っての合格祝賀会もまた豪華で贅沢。職人が目の前で揚げてくれる天ぷらを次から次へと召し上がりつつ、これからKOでどんな勉強をするつもりか、男子はマコトに自慢げに語り続けた。

(もう夕暮れの雰囲気だが、午後3時、4つ目の桂地蔵「地蔵寺」に到着。桂離宮からも近い)

 

 しかしまさにこの時ママとバーチャン、信じがたいほど冷酷な話題に持っていったのである。「あなたは塾の勉強ばっかりしていてKOにギリギリ合格できたけど」とママは笑った。「でも芦田M菜ちゃんは、女優業もキチンとこなし、読書もたっぷりして、それでも超難関校2つラクラク合格しちゃったのよ」とおっしゃるのだ。

 

 いま合格したばかりのKO系列中での夢の日々を生き生きと語っていた男子は、二刀流というか2足のワラジというか、素晴らしい若き才女との比較対照をいきなり持ち出されて、完全にしょんぼり、未来の夢も研究への欲望も、天ぷら屋のカウンターで一気に萎れていくのが、目に見えるようだった。

 

 どうしてあの時、あのママとオバーチャンは、可愛い息子であり孫であるあの男子の高々と天に向いた天狗の鼻を、ボッキリへし折るような話題に持っていったのか。あんまり可哀想だったので、心優しき今井君は、思わず男子を手招きして「君は君の一刀流を貫きたまえ」と元気づけてやりそうになった。

(桂地蔵「地蔵寺」にて。夕暮れから豪雨の予想で、提灯もビニールで覆われていた。六地蔵めぐり完成まで、あと2箇所の残すのみとなった)

 

 そういう雑多な思ひ出を書き連ねながら、急激に気温の下がった2022年10月6日の東京のワタクシは、ふとまだ残っている二刀流の夢を思い出した。この年齢になっても、まだ二刀流の夢はかすかに残っているのである。

 

 諸君、何を隠そうワタクシは、はるかな将来の話ではあるが、外国語以外の教科を教えてみたいのである。

 

 今の予備校との契約では「同業他社の映像授業に出演すること」は絶対に禁止されているのであるから、もちろん今すぐは無理だ。しかし遠い将来、契約が満了して好きなことができるようになったら、ということは要するに「老後」という恐るべき段階であるが、ワタクシはどうしても他の教科のセンセをやってみたい。

 

 ま、どう考えても理科系は無理だ。高3までは理系&医系クラスに在籍したんだから、今でも出来ないことはないが、高校生時代から今井の数学は模範的優等生タイプではない。鮮やかだが、他の問題に応用できないような解法ばかりでは、「センセ」としては失格だろう。

 

 次に「現代文」が浮上してくるが、諸君、現代文はワタクシが予備校講師の道を選択した時に、まさに最初に自分にダメ出しした科目。「なぜ?」というに、現代文は自分が得意すぎて、別に何も考えなくても、正解が言わば透視できてしまう。

 

「考えなくても正解が一瞬で透視できる」とは、要するに「分からない人が何が分からないのか分からない」「生徒がどこでどう困っているのか理解できない」ということであって、それはセンセとして最大の弱点になる。「正解は③だ」と断定し、「他を選んだヤツは愚かだ」と発言する人に、講師の資格はない。

 

 日本史や世界史も浮上してくるが、この辺は「今井は雑談ばかりに夢中になりそう」という意味で無理。歴史上の人物のウラ話やら、事件の背後のコボレ話やらがあんまり面白いから、それだけでみんな夢中になっちゃって、センセの威厳が全く保てない。

   (桂「地蔵寺」にて。六地蔵めぐりの詳細は、次回)

 

 すると、残るのは古文である。そうだ、古文しかない。むかしむかし若かりし今井君は、「70歳ぐらいのオジーチャンになったら、古文の先生になるのも悪くないな」と考えた。16歳の時と、18歳の時である。

 

 そういう場面では、必ず大好きな先生がいるもので、16歳の時には秋田高校で古文を教わった高久(たかく)清先生。18歳の時は駿台の古文の名物講師・桑原岩男師である。お2人とも、あのころ定年退職間近。70歳ぐらいの枯れたオジーチャン先生の、誠実で心地よい名調子に酔った。

 

 もちろん、「自分が70歳過ぎたら」というんだから、はるか将来のことである。どんな種類のステージになるのか、まあヨウツベの類いだろうが、今はまだ全く見当もつかない。

 

 しかしもう何となく教材の準備さえ、心の中では進んでいる。ワタクシは、平安から鎌倉時代の文学を扱おうとは思わない。その時代の古文なら、予備校の世界にも素晴らしい先生がナンボでもいらっしゃって、今井なんかが出しゃばる余地は皆無である。

 

 ワタクシが扱いたいのは、室町から江戸中期&後期、さらに明治初期までである。まあ読者諸君も、こんなに文楽やら歌舞伎やら能狂言に入り浸っている今井の生活を、ブログで読んで知っていてくれるはずだ。

 

 浄瑠璃に謡曲、近松に西鶴に鶴屋南北、従来の古文の授業ではないがしろにされてきたその辺の時代の文学を、ごくごく分かりやすく解説して差し上げられることには、それなりの自信がござる。「C組」の英文法や「B組」の長文読解、あのレベルの強烈な分かりやすさを保証できるつもりでいる。

 

 いや、これはもちろん「70歳過ぎのオジーチャンになったら」という前提のオトギバナシに過ぎない。ここまでの長い人生で、一度も二刀流の夢を達成できなかった凡人の、愚にもつかぬタワゴトだと思ってくれていい。

 

1E(Cd) Joe Sample:RAINBOW SEEKER

2E(Cd) Joe Sample & Lalah Hathaway:THE SONG LIVES ON

3E(Cd) Marc Antoine:MADRID

4E(Cd) Ornette Coleman:NEW YORK IS NOW!

7D(DPl) 文楽:仮名手本忠臣蔵①(2) 

三段目「下馬先進物の段」竹本三輪太夫 「腰元おかる文使いの段」竹本津駒太夫 「殿中刃傷の段」先代 豊竹呂太夫 「裏門の段」竹本千歳太夫 

四段目「花籠の段」先代 豊竹呂太夫 「塩谷判官切腹の段」竹本越路太夫 「城明渡しの段」

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