Mon 220523 函館本線の廃止を憂う/義経の説話/世代間共通の教養が不可欠だ 4223回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 220523 函館本線の廃止を憂う/義経の説話/世代間共通の教養が不可欠だ 4223回

 長万部から、倶知安・余市・小樽を通って札幌まで。北海道で一番古い鉄道であるが、北海道新幹線の開通を待って、バス路線に転換されてしまうらしい。

 

 すると当然のように「乗り鉄」の皆さまが集結なさって、長万部発 → 倶知安ゆきの各駅停車は満員。4月20日、ワタクシが長万部駅前の名店「グラス」で無水カレーを貪っているうちに、乗り場には長蛇の列ができていた。

 

 事前の情報では、「客車は全部7人がけの横向きだぜ」ということだったが、乗り込んでみると、おおよかった、4人がけのボックスタイプに空席が見つかった。長蛇の列に最後に加わった割に、確かに後ろ向きではあるが、4人がけの窓際の席を確保できた。

 

 横向きの席で、60歳代後半と思われる老夫婦が、長万部の名物駅弁「かにめし」をムシャムシャやっていらっしゃる。ついさっきワタクシも駅前の売店で購入しかけた。無粋な自動販売機の存在を知って、それでヤメにしたのだが、山手線タイプの横向きのシートで駅弁って、さすがに何だか可哀想だ。

(函館本線・長万部駅にて。これから「山線」経由で倶知安・小樽・札幌を目指す 1)

 

 出発する前に、長万部駅の写真を何枚か撮影した。「新幹線がやってくる」というただそれだけの理由で、明治から続く伝統の駅舎がみんなピッカピカの新築にされてしまう。サビついた線路も、ペンキの剥がれた風情ある跨線橋も、今や風前のトモシビだ。

 

 この駅は、函館と札幌を結ぶ「海線」と「山線」の分岐点。函館から北上してきた列車は、ここから室蘭本線と千歳線を経由して海岸伝いに札幌に向かう「海線」と、急勾配を一気に登り降りしながら日本海側を目指す「山線」に分かれた。

(函館本線・長万部駅にて。これから「山線」経由で倶知安・小樽・札幌を目指す 1)

 

 ワタクシは車窓を目いっぱい満喫するタイプだから、むかしから「山線」のファン。「海線」なら確かに海の風景は楽しめるが、前回の記事の写真で分かる通り、噴火湾の海岸線はマコトに平坦なので、例えば五能線の海岸線みたいなワクワク感はない。

 

 かつては函館 ⇆ 札幌を往復する特急列車にも、山線経由の「北海」と海線経由の「北斗」があって、むかしの今井君はもちろん「北海」びいき。何を隠そう若き今井君は「スキー上級者」を自任していて、膝上までの深雪で有名だったニセコの山を縦横無尽に滑りまくっていた。

(函館本線・長万部駅にて。これから「山線」経由で倶知安・小樽・札幌を目指す 3)

 

「滑りまくる」というその姿勢が、東京大学入試にまで続いてしまったのがマコトに情けないが、高校生のワタクシが秋田からニセコに向かおうとすれば、経路は秋田 → 青森 → 函館 → 長万部 → 「山線」で倶知安 → ニセコしかない。新千歳からバスだのクルマだの、かつてはそんな贅沢はありえなかった。

 

 高1とか高2とか、そういう大切な時期にニセコで深雪を滑りまくっていたりすれば、そりゃ諸君、東大入試でも滑りまくる。いやはや、数学は明らかに0点だった。

 

 部分点だって、おそらく0。第2問・第3問・第4問、力ずくの微分&積分で計算用紙を真っ黒にすれば確実に解ける問題が並んでいたのに、ワタクシはオシャレな第1問をオシャレに解こうとして、そこで完全にスタックした。それもこれも、みんなニセコで滑りまくったせいかもしれない。

     (沿線風景は間もなく残雪にかわった)

 

 この「山線」を、明治の時代には蒸気機関車のヒーローやヒロインがたくさん駆け巡った。「義経」「弁慶」「しずか」「比羅夫」「光圀」「信広」、明治の時代は蒸気機関車にもなかなか奥ゆかしい愛称をつけた。「信広」って、なあに?

 

 2022大河ドラマでは、義経も弁慶も「ほぼナレ死」の形で終わってしまったが、はるかなむかし今の尾上菊五郎がまだ尾上菊之助を名乗っていた時代の「源義経」では、平泉で目いっぱいの孤軍奮闘、血まみれの大活躍45分を経て、白黒テレビの白い炎の中で死を遂げた。

 

 さあ諸君、記憶力の鬼♡今井の本領を発揮しようじゃないか。義経・尾上菊之助、弁慶・緒形拳、静御前・藤純子、常陸坊海尊・内藤武敏、片岡八郎・草野大悟、藤原秀衡・滝沢修、源頼朝・芥川比呂志、平知盛・市村竹之丞、能登守教経・山口崇、金売吉次・加東大介。もし疑念があれば、ググって確認してくれたまえ。

         (残雪の中の二俣駅)


 それだけじゃない、今井君はいろんなシーンも明確に思い出せる。2022年大河のテーマはあくまで鎌倉だから徹底的に省略されているが、もし本来の源平の戦いを描こうとするなら、歌舞伎や人形浄瑠璃で有名なシーンはキチンと入れなきゃいけない。

 

 壇ノ浦の闘いで市村竹之丞の平知盛が、大錨を頭上に差し上げて「見るべきほどのものは見つ」と絶叫するシーン。「海の下にも都はございます」と、幼いミカドに言い聞かせるシーン。能登守教経の天下無双の弓に狙われた義経の前に、すっくと立ちはだかる佐藤継信。嵐の大物浦に出現する平家の亡霊たち。残念ながら、全てが「省略」の憂き目を見た。

 

 ボクなんかは、三谷サンの意図はカンペキに理解できるのだが、義経説話の数々は、歌舞伎や浄瑠璃や能の伝統を次世代に繋ぐ、かけがいのないものだ。ジーチャン&バーチャン、みんな激怒してテレビを消しちゃったかもしれない。

 

 熊谷直実の苦悩、梶原景季と傾城♡梅ヶ枝の悲恋、狐忠信と静御前の「道行初音旅」、若い世代が「何それ?」と呆然とする事態にならないように、「ああそれ、大河で見たことある!!」と、世代を超えてニッコリできる、そんな大河ドラマも必要なんじゃないか。

 (残雪の中の熱郛駅。「熱郛」と書いて「ねっぷ」と読む)

 

 平泉の高館にこもる一騎当千の義経配下。何しろ「一騎当千」なんだから、雲霞のごとく押し寄せる藤原泰衡軍も、遠巻きに矢を射かけるばかり。しかし1人討ち死、また1人討ち死、義経&弁慶は数千の軍勢を相手に奮闘するが、ついに丘の上の高館に追い込まれる。

 

 松尾芭蕉は平泉への旅でその義経説話を思い出し、「衣川は和泉ケ城をめぐりて、高館の元にて大河に陥る」と、思わず絶句&感涙する。

 

泰衡らが旧跡は、衣関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のクサムラとなる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ」というわけだ。

 

 逃れられぬ運命を察したあたりでふと、すぐ近くに長い薙刀を杖に立つ弁慶の姿を発見。「弁慶、弁慶、弁慶」と歩み寄る義経。しかし弁慶はすでに全身に無数の矢を浴びて、立ち尽くしたままコト切れている。「弁慶の立ち往生」の説話を、かつての大河は忠実に描いていた。

         (残雪の目名駅 1)

 

「史実に忠実」ではなくて、「説話に忠実」。人形浄瑠璃&歌舞伎を眺めて数十年の今井君は、どうもその姿勢の方が好きなのだ。感激した義経は「死んでもなお、我を守るか」と慨嘆、ついに高館にこもって、忠臣・片岡八郎に「火をつけよ」と命じる。草野大悟が演じる片岡が、号泣しながら高館に火を放った。

 

 義経憤死の後、兄・頼朝が感慨深げに一言、「九郎は、三十一であったな」。それがドラマの最後のセリフになった。演じた名優・芥川比呂志は、芥川龍之介の長男。作曲家・芥川也寸志の兄である。まあよかったら、ググって見てくれたまえ、そのイケメンぶりに驚嘆する。

 

 友人に、加藤周一・中村真一郎・福永武彦・福田恆存・白井健三郎・仲谷昇・岸田今日子・小池朝雄・神山繁。いやはや諸君、こう並べられちゃうと、むしろ「頼朝なんかよりずっとスゲーじゃん」。たいへんな文化人が頼朝を演じたのであった。

         (残雪の目名駅 2)

 

 諸君、いかんいかん、ついつい話が函館本線から離れてしまった。こうして長万部を発車した2両編成のディーゼル列車は、マコトに長い歴史を誇る「山線」急勾配の連続を、二股 → 黒松内 → 熱郛 → 目名 → 蘭越 → 昆布 → ニセコ → 比羅夫 → 倶知安と進んでいく。

 

 黒松内を通過したあたりから、4月中旬の沿線風景は残雪に変わった。気温が上昇して一気に融雪が始まり、沿線は水浸しであるが、その水浸しの山の遥か向こうに、羊蹄山の勇姿が見え隠れする。

         (残雪の昆布駅 1)

 

 駅は全て、明治時代からの長い歴史を誇る。黒松内、明治36年。蘭越、明治37年。昆布、明治37年。鉄道も駅も、全て貴重な文化遺産であり、歴史遺産である。「新幹線が来る」「採算が取れない」の理由で、これほどの遺産をあっさりと廃止にすることに、ワタクシは大反対なのだ。

 

 全く同様に、芥川龍之介・中島敦・森鴎外・石川啄木・安岡章太郎が高校現代文の教科書から消えていくこと、義経・弁慶・平知盛・金売吉次・常陸坊海尊の説話が大河ドラマの世界から消滅していくこと、要するに両親や祖父母との共通であるべき教養が、21世紀世代の教養から抹殺されること、ワタクシはそれが悲しいのだ。

         (残雪の昆布駅 2)

 

 教育の目的の1つの中に、「世代と世代をつなぐ」「異なる世代間で熱く話が通じ合う共通の教養の継続」があるはずだ。ジーチャン&バーチャンと若いマゴたちが、同じ経験や文学や説話や鉄道の話で盛り上がれる&繋がりあえるのが、深く豊かな国の文化なんじゃないか。

 

「役に立つ人間の育成」という古色蒼然とした富国強兵の発想のせいで、世代と世代の経験がかけ離れ、日々の会話でお互いに「何それ?」「そんなの知らないよ」「オマエたち、何にも知らないんだな」と冷笑しあうようになったんじゃ、「論理的思考力」も「使える英語」も「理系アタマ」も、ちっとも国民の真の幸福に繋がらないと思うのだ。

 

1E(Cd) HarnoncourtBEETHOVENOVERTURES

2E(Cd) Solti & ChicagoBEETHOVENSYMPHONIES 1/6

3E(Cd) Solti & ChicagoBEETHOVENSYMPHONIES 2/6

4E(Cd) Solti & ChicagoBEETHOVENSYMPHONIES 3/6

5E(Cd) Solti & ChicagoBEETHOVENSYMPHONIES4/6

total m159 y514  dd27542