Fri 220325 千鳥ヶ淵の桜/再び「3月が苦手」/就職前の6日間/松ヶ崎大黒天 4179回
3月6日の記事に「どうも3月が苦手だ」と告白しておいた(Sun 220306 どうも3月が苦手/秋田犬の悲嘆/悲しきヘイト/説得に必要なこと 4174回)。ウソでも何でもない、何度考えてみても、ワタクシにとってイヤなことは、みんな3月に集中している。
大地震も大津波も3月、パンデミックの本格化も3月、地下鉄サリン事件も3月、戦争と侵略の泥沼化も3月。東京大空襲も3月なら、いきなりやたらプライベートになるが、18歳の時に東大に嫌われたのも3月だ。
(3月25日、皇居の桜。3分から5分咲きという所だった 1)
中でも最もイヤだった3月は、学部を卒業して電通への就職を控えた3月だ。学部の卒業式が3月25日、その日はさすがに仲間たちと、深夜まで大宴会の連続。2次会、3次会と続いて、そのまま夜明けまで飲み歩いたが、いけなかったのはその後3月31日までの6日間だ。
日々、ひたすらテレビを眺めて過ごした。21世紀の諸君ならテレビより圧倒的にYouTubeだろうけれども、20世紀のワタクシに残された慰めは、結局テレビだけだった。
(3月25日、皇居の桜。3分から5分咲きという所だった 2)
ワタクシは学部時代、テレビなしの日々を愛していた。最後の最後まで下宿の部屋にテレビを置かず、卒業式の前の前の日に、大学の生協で初めてテレビを購入した。14インチの赤い小型テレビを、1万円で手に入れた。部屋にはアンテナさえなかったから、ポータブルの室内アンテナで済ますことにした。
そのテレビで、3月26日から31日まで、ひたすらセンバツ高校野球と時代劇を、口を開けてボンヤリ眺めていた。深夜になるとテレビ東京(当時は「東京12チャンネル」という局名だった)では、古い時代劇がタレ流されていて、三船敏郎の「荒野の素浪人」やら、大出俊が演じる「6連発の旦那」やら、とにかく就職のことだけは考えたくなかった。
(3月25日、北の丸公園を通って千鳥ヶ淵へ。まだ1分から2分咲きだった)
そもそも入学当初の今井君は、学部生でいるうちに作家になる馬鹿げた計画でいて、驚いたことにそれを仲間たちに堂々と公言していた。就職して上司や同僚と毎日楽しく40年も50年も勤め上げるだなんてのは、ギリギリまで全く考えていなかった。
こうして呆然と6日間が過ぎて3月31日、忘れもしない生ぬるい雨の午後に、千葉県松戸駅前のイトーヨーカドーに不承不承の買い物に出かけた。少なくとも、翌日から会社に着ていく白いワイシャツが5枚は必要だった。
購入したのは、1500円の白いワイシャツ5枚。1500円のネクタイ1本。3000円の茶色い縦長カバン1つ。5足で500円の黒い靴下を1セット。それだけだった。
(千鳥ヶ淵ではモクレンが満開だった 1)
どれほどやる気がなかったか、思い出しても悲しくなるばかりであるが、スーツと靴その他は、前年10月の短いシューカツで使用した安物でしばらくゴマかすことにした。
だって諸君、今回は諦めて就職しても、7月か9月ぐらいにはまだ作家になるチャンスがあって、いま高いスーツなんか買っても、無駄になるかもしれないじゃないか。いやはやマコトに馬鹿げた男子だった。
こういうふうで、ワタクシの3月にこびりついた記憶は、ことごとく&例外なくdevastatingなのである。実現可能性の全くない気楽な将来展望が、次々と崩壊&崩落していく怠惰な日々。3月31日の夕暮れから深夜にかけては、10秒に1回のペースで深い溜め息をつきながら、自らの無力を呪って過ごした。
(千鳥ヶ淵ではモクレンが満開だった 2)
予備校講師に転身してからも、3月はやっぱり大の苦手。2005年春に東進に移籍するまでは、在籍した河合塾・駿台・代々木ゼミナールの全てが浪人生主体の予備校だったから、3月には目の前からほぼ全ての生徒が消えてしまう。
2月中旬に「さらば♡」と手を振って前年の生徒たちを送り出してしまえば、4月中旬に「ようこそ」と、皮肉ともとれる挨拶で新しい浪人生を歓迎するまで、約2ヶ月の不気味な真空期間が続く。
(2月15日、京都北山・松ヶ崎大黒天の加持大祭をみる 1)
ワタクシが河合塾・駿台・代ゼミで過ごした15年間は、予備校バブル崩壊の15年。少子化や価値観の変化で、浪人生主体の予備校経営が急激に傾いていった時期である。2ヶ月の真空期間には、予備校の事務方から「新年度も生徒が激減しそうです」という情報ばかりが入ってきた。
毎年10%減が続くような状況。マイナス10%が10年続けばどんな有様になるか。0.9の10乗を計算してみてくれたまえ。10年前の3割しかいない、2割しかいない、そういう校舎がボコボコ発生する。
ということは、10年前の大教室では300人ギューヅメだったのに、10年後には同じ教室に50人もいない、そういう計算だ。ガーラガラの悪夢が、当時の3月の予備校講師たちを襲い続けた。
(2月15日、京都北山・松ヶ崎大黒天の加持大祭をみる 2)
「いや、3月には春期講習があるじゃないか」とおっしゃるかもしれない。しかしその「春期講習」こそが、まさにガーラガラの鬼門なのだ。
当時の予備校は、夏期と冬期と直前講習がクライマックス。200人教室も、300人教室も、400人教室もことごとく満員になった。
馴染みの生徒たちもたくさんいて、頻繁に講師室を訪れては雑談に興じたり、真剣に質問を重ねたり、厳しく叱られたり、和やかに笑いさざめいたり、講師にとっても生徒にとっても理想郷のような雰囲気。その温かな波がスーッと引いて、ウソのように静まりかえるのが新年度の春期講習だった。
(2月15日、京都北山・松ヶ崎大黒天の加持大祭をみる 3)
もう馴染みの生徒はいない。たまにいても「受験した大学が全部ダメだったので、もう1年お願いします」とペコリ、かなり微妙な雰囲気の苦笑が、冷たい静けさをさらに際立たせる。あとは新顔のツラそうな浪人生と、疑わしげな視線を向ける高3生が、忍び足で歩き回るのみだった。
それが、あの頃の春期講習。ホンの1ヶ月前まで、300人400人超満員で盛り上がっていたのに、今は同じ場所に30人、いや20人、いやヒトケタの生徒しかいない。これで寂しさに苛まれなかったら、かえってどうかしているんじゃないか。
(2月15日、京都北山・松ヶ崎大黒天の加持大祭をみる 4)
代ゼミに移籍直後の今井君も、その寂寥感を味わった。前月まで駿台の教室は超満員。しかし移籍した先の代ゼミ春期講習では、代々木本校ではさすがに300人教室で満員締め切りも出ていたが、埼玉県の大宮校で担当した「一橋大英語」は、何と生徒が4人しかいなかった。
200名収容の大教室に4人、しかもその4人が、教室の4隅の四つ角にキレイに分かれて着席していた。1997年3月末のことである。今日まで予備校講師として30年を過ごした歴史の中で、おそらくあれが最大の屈辱であり、最も苦しい寂寥の世界だった。
(2月15日、京都北山・松ヶ崎大黒天の加持大祭をみる 5)
しかも我々にとって「春期講習」とは最大の営業活動の場であって、1人ぼっちで広報宣伝活動に邁進しなければならない。自分の授業がどんな面でどれほど優れていて、だからこれからの1年を何としてでも自分に任せてほしい。それを目の前の数少ない生徒たちに納得させるべく、熱弁の限りをつくすわけだ。
東進には春期講習というものがないから、何となく不毛なそういう努力を今は免除されているわけだが、ちょうど今の時期、駿台や河合塾の30歳代40歳代の講師たちが、孤独な自身の営業活動や広報宣伝活動に懸命になっていらっしゃるのを思うと、ベテラン里芋は胸がつまる思いがする。
(五山の送り火、妙法の「法」の山。うっすらと「法」が見分けられる)
なお、本日の写真の後半6枚は、京都北山・松ヶ崎大黒天でのもの。2月15日、みやこ七福神の1つ・松ヶ崎大黒天では「加持大祭」が行われ、百ケ日の過酷な荒行を終えた修行僧が天下泰平と無病息災を祈願する。
いやはや何とも激しいご祈祷で、見ていただけのワタクシなんかも、心身がすっかり清められた思いだった。日蓮宗の力が強い地域なのか、すぐ近くに「五山の送り火」のうち「妙法」のお山が間近に迫っている。
五山の送り火の夜になったら、このあたりまで足を伸ばして、焚き木がはぜる激しい音を聞き、焚き木の燃える生々しいカホリを経験しにくるのも、いい経験なんじゃあるまいか。
1E(Cd) Tomomi Nishimoto:TCHAIKOVSKY/THE NUTCRACKER(1)
2E(Cd) Tomomi Nishimoto:TCHAIKOVSKY/THE NUTCRACKER(2)
3E(Cd) Pešek & Czech:SCRIABIN/LE POÈME DE L’EXTASE + PIANO CONCERTO
4E(Cd) Ashkenazy(p) Maazel & London:SCRIABIN/PROMETHEUS + PIANO CONCERTO
5E(Cd) Ashkenazy(p) Müller & Berlin:SCRIABIN SYMPHONIES 1/3
total m56 y227 dd27255