Tue 220215 予備校文化の営業マン/シェイクスピアとは何者か/修正を重ねる 4168回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 220215 予備校文化の営業マン/シェイクスピアとは何者か/修正を重ねる 4168回

 もう40年以上前のことだというのだから、時の経過の速さにびっくりするが、東大文学部のある有名教授が「自分はシェイクスピアのセールスマンだと思っている」と発言した。当時の超人気劇作家との対談の場だったが、すると劇作家は「それならボクは演劇のセールスマンです」と笑って応じた。

 

 誤解を恐れずに言えば、ワタクシは「予備校文化のセールスマン」を自ら任じている。セールスマンという言葉が死語になりつつあるとすれば、予備校文化の営業マンであり、広告マンであって、例えば「教育者」とか「英語教育の改革者」とか、その種のオゴリとはもはや完全に無縁である。

(晴天の富士。マコトにおめでたい。2月2日、お仕事で兵庫県豊岡に向かった)

 

 もちろん世の中には皮肉な人もたくさんいて、「オマエなんかが営業マンじゃ、予備校文化の屋台骨が傾くはずだよ」とか「セールスマン失格♡」とか、その手のことを言ってニンマリ、嘲笑・失笑・冷笑の対象になさるかもしれない。

 

 若い頃は、とかく自分の授業だけのセールスマンになりがちだし、中堅になれば所属する予備校ばかりを応援する。「ボクの授業は素晴らしい」「自分は英語の神なんだ」「天才なんだ」「ボクだけが知っている」で始まって、やがて「ウチは他校よりこんなに優れているよ」というわけである。それはそれで立派なこと。決して悪くない。

 

 しかしワタクシは、今や予備校文化全体のセールスマンとしてのキョージに生きている。自分だけとか、ある特定の予備校だけ、例えばどうすんだい?やPretty塾や束進の営業マンなのではなくて、予備校世界全体の楽しを多くの人に分かってもらうために、その営業&広告をサトイモの双肩に担っているつもりなのだ。

(福知山城。明智光秀で盛り上がったのは一昨年のことだった)

 

 その東大教授がセールスマンを買ってでた「シェイクスピア」というのも、実は16世紀には「演劇のセールスマン」を自ら任じていたんじゃないか。

 

「演劇ってのはこんなに面白いんだぜ」「どんどん劇場に足を運んで、オカネを落としていってくれたまえ」と、演劇界全体を好況&絶好調にしようと、懸命に努力した男だった気がする。

 

 男? シェイクスピアの性別は、一応「男」だったことになっている。しかし実際にはシェイクスピアの素性は謎が多くて、ホントに「彼」が37編の戯曲を全て書いたのかどうか、資料も史料も証拠も絶対的に不足する。

 

 ストラットフォード・アポン・エイボン(ワタクシが訪ねたのは、もう4年も前の冬だった)という田舎町で、18歳で結婚。大学教育は受けていない。奥方は8歳年上の26歳。20歳でコドモが3人も生まれている。やがて1人でロンドンに出奔、20年かそこらの間に、あんなにたくさんの名作をズラズラ書きまくったことになっている。

(福知山を出て、豊岡に向かう。「和田山」付近から雪が深くなって、風景はもう完全に雪国だ)

 

 別にワタクシは、男だったか女だったか、性別なんかを気にしているのではない。むしろ、シェイクスピアは個人だったのか、いや実際には集団だったのではないか、5人、10人、いやもっとたくさんの演劇集団ないしグループが、長年かけてパッチワークかキルトのように、少しずつ積み上げていった作品群ではないかと思うのだ。

 

 近代以降、書く側にはオリジナリティについての意識が高まり、読む方にも「著作権」の発想が定着して、誰かが書いたオリジナルに他の人間が手を加えたり、付け加えたり削ったり変更したり、その種のことへの拒否と拒絶が当然のこととなるが、それはあくまで近代以降のことだ。

 

 しかし中世や近世なら、発想は全く違う。誰かが書いたオリジナルに他者が手を加え、組み合わせ、修正し、いつの間にかオリジナルの影も形もなくなって、50年も100年もかけて1つの定番として定着する。そういうプロセスほうが普通だったのではないか。

(八鹿と書いて「ようか」と読む。お蕎麦で有名な出石(いづし)に近い)

 

 そういう事情は、日本の能でも浄瑠璃でも似たようなものだったと思う。一応は「近松門左衛門が書いた」「世阿弥が書いた」ということになっていても、例えば権力も能力もある有力な能役者が「ここはこう変えた方がいいんじゃないか」と発言すれば、「そうですよね」「さすが」「そう変えてみましょう」と、周囲は衆議一決するだろう。

 

 江戸時代の歌舞伎だって、例えば団十郎・菊五郎・三津五郎クラスの大役者が「こう変更しましょう」「このセリフは言いにくいから、こんなふうに変えたらどうでしょう」と提案したら、やすやすと彼の提案を拒絶できるものではなかっただろう。

 

 人形浄瑠璃なんかになったら、オリジナル作者の影はさらに薄くなる。何しろ①三味線担当と、②義太夫担当と、③人形担当に、それぞれ人間国宝級の大立者が何人もズラリと揃い、それぞれの立場からオリジナルの不備を指摘して、稽古場は常にスッタモンダの大激論になっていたはずだ。

(兵庫県豊岡に到着。うっすら雪が積もっていた。夏は酷暑で有名な町だ)

 

 シェイクスピアの芝居についても、現場にスッタモンダが存在しなかったはずがない。ハムレット役者が「こんなセリフじゃ言いにくい」と駄々をこね、ジュリエット役の少年(近世までは女子の役を少年が演じた)が「こんな愛の告白は現実離れだ」「時代錯誤だ」と腹を立て、「ここは書き換えましょう」「ここも変更すべきだろう」と、原作にどんどん赤を入れていっただろう。

 

 中には、演出者や制作責任者に金品・お中元・お歳暮を贈って「オレの出番をもっと増やしてくれ」「アタシのセリフが短すぎるわよ」「もっとカッコよく書き換えてくれ」「もっと可憐な美少女をやらせなさいよ」と、強硬に変更を迫る俳優も少なくなかったはずだ。

 

 そうやって50年も100年も続けていけば、大昔に書かれたオリジナルなんか、ほとんど跡形も残らない。それが「いけないことだ」というのは、近代から現代にかけての新しい発想なので、中世&近世までは「もっといいものにしたい」「とにかく一歩でも前進したい」という熱い思いが、オリジナル重視より優先したんじゃないか。

 

 パッチワークでもキルトでも、色や布を重ねれば重ねるほど、味わいは豊かに奥深くなる(んでしょ?)。こうして100年、150年、200年、シェイクスピアも近松も世阿弥も、たくさんの時代の名優や名演奏者の意見やら変更やらを積み重ね、ついに今の定番の形に落ち着いた。

 

 ワタクシなんかは、そう考えるのが正しいんじゃないかとずっと考えてきた。1人の作者の名前をバーンと大きく表紙に印刷して、以後は一切の変更も修正もガンコに拒否、拒絶どころか倫理的にも法律的にも許しがたい行為としてしまう狭量さ、それが近&現代を特徴づけている気がしてならない。

(日本海岸、カニで有名な「浜坂」ゆき。愛称「カニかにエクスプレス」の勇姿)

 

 しかし諸君、ワタクシが今やっているのはシェイクスピアのセールスマンでもなければ、演劇界の営業マンでもない。予備校の授業の魅力を社会全体に分かってもらうのが目標だ。

 

 しかも修正の手を加えるのは、かつて自分自身で書いたオリジナルの台本だ。自分の書いたものに自分で修正を重ねていくなら、もちろん何の問題もないだろう。

 

 人は誰でも社会に出るときは、自分自身のセールスマンをやらざるを得ない。シューカツ面接で最初に要求されるのは「自己PR」であり、「あなたのセールスポイントは何ですか?」と問いかけられて「うっ」と言葉に詰まるようではお話にならない。

 

 今井君もずいぶん長い間、自己PRの巧妙さを武器に戦ってきた。「どうすんだい?」で新進超人気♡講師を務めていた頃までは、ホントにホントに自己PRの鬼と言ってよくて、あまりの巧妙さに自己嫌悪に陥りそうだった。

 

 1997年に代ゼミに移籍すると諸君、周囲にはもっともっと遥かに自己PRに長けた人々が揃っていて、しかも例外なくイケメン。若いだけのイケメンに、中年過ぎだがいかにも「イケナイ人」タイプの危険なイケメン、ズラリと揃ったその中で、焦ったサトイモの自己PRは、地味で目立たないぶん攻撃性ばかり前面に出てしまった。

 

 ギュッと深い反省を強いられた今井君は、「授業の質をたゆまず向上させる」と言ふ古色蒼然とした努力に切り替えた。あそこからすでに20年以上、ワタクシは地味なで小さな改善を営々と積み重ねてきた。

(ホテルのチェックインまで時間があったので、駅ビル内「花ふじ」でランチしていくことにする)

 

 イメージは、数百年むかしのシェイクスピア劇団。たくさんの俳優と演出家の激しい討論を経て、もちろん観客の意見や好みも取り入れながら、オリジナル台本を少しずつ少しずつ書き換えていったプロセスである。

 

 もし「予備校の授業のセールスマン」を自ら任じるなら、自分が売り歩いている商品の長所を知り尽くし、どれほど楽しくどれほど効果があるものなのかを、受け手側の人々に分かりやすく伝達できなければならない。

 

 だから今井の公開授業は、毎年一度必ずテキスト原稿を修正するのである。そういうイメージだから、大幅な修正はしない。あくまで微調整の繰り返し、変えたんだか変えてないんだか、不注意な人は気づかない。

 

 しかし注意深く見つめている人も少なくなくて、「先生、昨年とあそことあそこが変わりましたね」とニヤリ、お互いに肩をたたき合って「気づきましたか?」「気づきましたよ♡」と呵々大笑、それがイベント後の懇親会ないし祝勝会の最大の楽しみだった。

 

 今はコロナのせいで祝勝会も懇親会もお食事会もないが、あの呵々大笑を味わえないのが、残念でならない。何しろそうやって修正を重ねて17年。おお、2005年に東進に移籍して、もう18年目に突入しようとしているわけだが、17年前の公開授業とは、ほぼ完全に違う中身に入れ替わっている。

(豊岡駅ビルの「カツ丼&うどんセット」。こりゃ炭水化物エキスプレスだ)

 

 17回の微修正とは、それほど大きなチリツモなのだ。シェイクスピアや近松を持ち出してマコトに申し訳ないが、シェイクスピアが書いたマクベス、近松が書いた曽根崎心中、もしかしたらオリジナルは全く別のストーリー展開で、全く別の結末に至っていたのかもしれない。

 

 ただし、今年のテキスト修正の成否はまだ分からない。大キライな「共通テスト」を使用したバージョンについては、まだ「大成功」と断言する自信がないのだ。芝居の成否はもちろん台本のクオリティで決まるが、公開授業の成否は使用するテキストのクオリティが決める。

 

 命運を握るその「テキスト」に、あの共通テストの問題を使用して、授業のクオリティが確保できる自信はない。何度も書くが、あれは「大意の把握」が目標のホンモノの読解力を試す出題ではない。試されるのは「細部点検能力」と「校閲能力」、いや「イライラ抑制能力」と言ってもいい。

 

 そんな素材を使用した台本で、生徒諸君のココロをつかむのはマコトに難しい。校舎サイドで別の素材を選んでくれればいいが(何しろテキストは9種類もあるのだ)、さすがに国家が威信と莫大な経費をかけて若者に強制する試験問題だ。ワタクシの立場から「台本に選んでくれるな」とは、とても発言できないじゃないか。

 

1E(Cd) David SanbornLOVE SONGS

2E(Cd) David SanbornHIDEAWAY

3E(Cd) Jaco PastoriosWORD OF MOUTH

4E(Cd) Anita BakerRAPTURE

7D(DMv) LYING AND STEALING

10D(DMv) THE EXPATRIATE

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