Thu 210513 外国語はアクセサリー/寺男/ブルーチャーチ(ウィーン滞在記17)4052回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 210513 外国語はアクセサリー/寺男/ブルーチャーチ(ウィーン滞在記17)4052回

 外国語教育とは、もともと贅沢品なのだ。「アメリカ人なのに、フランス語も話せる」。「イギリス人だけど、ロシア語を駆使できる」。「フランス人ですが、英語のバイリンガルでございます」。

 

 贅沢品というより、相手へのマウントに近い。こんな立派なジュエリーをつけている、こんな高価な時計を身につけている。要するに外国語は超高級アクセサリーなのであって、「こんなカッケー彼氏がいます」「こんな高級カノジョと一緒です」、アメリカで「フランス語が話せます」と言ふのは、その類いのアクセサリーとおんなじだ。

 

 一方で20世紀の非・英語国民には、第2言語としての英語の習得が義務化された。これは明らかにスーパー不公平な制度であって、英語国民の中等教育ではアクセサリーに過ぎない外国語が、非・英語国民の中等教育では週4時間から5時間、年間で200時間近くが英語の習得に向けられざるを得なかった。

 

 もしもその200時間を数学や理科に振り向けることができれば、三角関数も指数&対数も、数列もベクトルも、みんな中学校の段階で修了できる計算になる。

 

 高1で基本的な微分積分が終わり、高校卒業の段階で今の大学教養課程の数学や物理を習得させられるはず。メディアが大騒ぎする「理系脳」の育成には、まさにもってこいじゃないか。

 (ブラチスラバ、12月の雨に濡れる「ブルーチャーチ」 1)

 

 諸君、考えてみれば我々は、こんな不公平な負担に不平も不満も言わずに耐えてきたのである。そりゃワクチン開発でも英米が先行して当たり前。東大の何とかゼミがいくら努力したって、中等教育の段階で年間200時間も外国語習得に時間を割かれたんじゃ、どう考えてもかないっこない。

 

 中1から中3まで、合計で600時間。中1から高3までなら、合計で1200時間。その教育を、英語じゃなくて数学&理科に割り当てられたら、我々の理系教育ははるかに先に行っているはず。こんな負担、こんな不公平に、いつまで我々は耐えていくんだ?

 

 しかもその英語教育というのが、今や完全に国辱モノだ。諸君、一度でいいから冷静になって、2021年の「共通テスト」英語の問題を見つめてみたまえ。この内容が、18歳の日本国民に準・強制的に課される外国語のレベルに達していると思うかね。

 (ブラチスラバ、12月の雨に濡れる「ブルーチャーチ」 2)

 

 しかも、モトモトはこの共通テストに「民間テスト」まで強制される予定だったのだ。いやはや諸君、とにかく冷静なアタマで、雨後のタケノコみたいな種々の「民間テスト」なるものの問題を見つめなおしてくれたまえ。

 

 大学受験のスーパー大ベテラン今井の目から見るに、これはやっぱり「国辱モノ」。高校入試レベルの思考力しか試せない問題を大量に積み上げてスピード勝負に置き換え、「深く緻密な思考はできないが、乱暴で非論理的な判断なら躊躇なく下せる粗雑な判断力」だけをプラス評価する試験ばかりと言わざるを得ない。

 

「英語ぐらい出来なきゃダメ」。中高年世代の粗雑な見栄から始まったことである。英語国民の圧倒的な有利を無条件に肯定し、非・英語国民が自らの伝統と文化を無反省に放棄することに、不公平も矛盾も認めなかった。「古文も漢文も完全に無駄」「そのヒマに英会話をやった方がいい」、その種の暴論さえ出現する。

 

 AIによる瞬間的な同時通訳の出現で、マコトに軽薄な「ペラペラ英会話系」の教師は、みんな消滅の危機にある。非・英語国民に自国の文化伝統を犠牲にして「意地でも英語を話せ」という同調圧力は、今や一気に弱まりつつある。

 

 デレデレ無反省に英語にすりよって、母語による思考を安易に放棄するヒトビトには、キチンと反省を促したほうがいい。文化の多様性は、決して放棄されるべきではない。文化の多様性を放棄することと「グローバル」という単語は、完全に背反するはずである。

 (ブラチスラバ、12月の雨に濡れる「ブルーチャーチ」 3)

 

 英語国民の思考は、例えばフランス語国民の思考とは異質であり、スペイン語国民の思考とも、あるいは日本語国民の思考とも異質なのであって、一方が他方に無条件で譲歩することを是とする同調圧力に屈するのは、決して許されることではない。

 

 アメリカ人にとってのフランス語能力が、近現代200年にわたってほぼ高級アクセサリーに過ぎなかったのと同じように、日本人にとっての英語能力も、AIによる同時通訳の出現で、間違いなく「単なるアクセサリー」に変貌する。

 

 これは必然的な要請であって、一方が他方に不公平な負担を当然とみなす時代は、間もなく終わりを告げる。というか、終わりを告げてくれないかぎり、英語帝国主義が終焉を迎えてくれないかぎり、人間どうしの完全な平等なんかあり得ない。

(東大駒場キャンパスから徒歩15分、東北沢付近の教会で。バラが綺麗に咲いていた 1)

 

「予備校」というマコトに中途半端な舞台で、すでに四半世紀にもわたって若者たちに英語を教え続けているのであるが、だからこそワタクシは「ペラペラ英会話系」に属したことは一度もない。

 

 外国語はあくまで高級アクセサリーに過ぎないので、チャラチャラしたければAIに頼るのが一番いい。アメリカ人全般にとってのフランス語会話がそうであるように、高級外車、高級腕時計、ド派手なブランド彼女に、超イケメン高学歴の彼氏、その程度のものだと、早く世界中の人々が覚醒してほしい。

 

 しかし諸君、テレビの世界は絶対にそうはいかない。昨日も書いたが、今ワタクシがどうしても心配でならないのは「ドラゴン桜」。来週、いや、再来週、まず間違いなく登場する「英語の型破りセンセ」が、音楽に合わせて踊り出す。しかも生徒たちが、その古臭い陳腐な型破りに唖然&呆然としてみせる。

 

 50年も前から存在するそのタイプを、「型破り」と称して盛り上がるメディア。諸君、諸君の親の世代も、カーペンターズだのビートルズだのを録音した「ラジカセ」に合わせて歌を歌わされ、英語という科目の軽薄さにウンザリして英語を放棄した歴史が厳然として存在するのだ。

 

「歴史学習を通して教訓を得る」のが、もしも歴史学習の根本にあるというなら、「歌を歌って英語を身につける」「英語エアロビで肉体から英語学習」の類いを、全面否定してほしいのだ。それをしないかぎり、AI全盛時代の日本からは、英語をアクセサリーにしたいという若者さえ消滅する。

(東大駒場キャンパスから徒歩15分、東北沢付近の教会で。バラが綺麗に咲いていた 2)

 

 対コロナの籠城生活から半月ぶりに外に出た今井君は、連日「駒場コース」のウォーキングに夢中。スロバキアのブルー・チャーチの思い出に浸りながら、駒場コースに点在する小さなキリスト教会を眺めてホレボレ、「年をとったらこういう教会の寺男になりたいな」と溜め息をついている。

 

「寺男」と書いて「てらおとこ」、「てらお」でも「じだん」でもない。英語 なら「sexton」であって、辞書には「寺や教会の雑用をこなす下男」とある。ヨーロッパの古い小説には、耳も口も不自由なフリをして、誰とも話をせずに黙々と働く寺男が頻繁に登場する。

 

 きっと彼らは、ペラペラ英会話系の軽薄な人生が大キライになって、あくまで寡黙に、勤勉に、重厚に、残る人生をギュッと濃厚&濃密に過ごしたくなった人々である。おそらく彼らこそ、本物の人生に気づいた賢者なのだ。

 

 男子なら寺男。女子なら、どこまでも控えめなシスター。花壇の世話と、祭壇の清掃と、図書室に並ぶ古い書物の整理や修復に静かな日々を過ごす。教会堂の床を掃き、床を拭き、床を磨いて、次の日曜日に敬虔なジーチャンやバーチャンが集まってくるのを待ち受ける。

 

 遠い将来ではあるが、例えば75歳を過ぎてしまったら、さすがの今井君だって、軽薄なペラペラ系国際人でいることには耐えられないだろう。寡黙な寺男タイプの働きかたを粛々と続ける、真の国際人になりたいと念ずるのである。

 

1E(Cd) Tomomi NishimotoTCHAIKOVSKYTHE NUTCRACKER(1)

2E(Cd) Tomomi NishimotoTCHAIKOVSKYTHE NUTCRACKER(2)

3E(Cd) Haydon Trio EisenstadtJOSEPH HAYDNSCOTTISH SONGS 7/18

4E(Cd) Haydon Trio EisenstadtJOSEPH HAYDNSCOTTISH SONGS 8/18

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