Thu 210506 世界って、∞じゃないか/ブラチスラバヘ(ウィーン滞在記12)4047回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 210506 世界って、∞じゃないか/ブラチスラバヘ(ウィーン滞在記12)4047回

「なんだ、世界って1つじゃないか」。10年ほど前、ANAのホームページを開くたびに、この広告コピーに出くわした。旅の途中の日本の若者が、アフリカの学校の子どもたちを前に、深い笑顔でそう実感している、そういう文脈だった。

 

「世界は1つ」。ワタクシの世代はずっとそう教えられてきた。「小さな地球の上で1つにつながっているんだから、当然みんなが仲良くすべきだ」そういう文脈である。その文脈自体は、今ももちろん変わらない。

 

 しかしだからと言って、文化や思考や発想まで「1つ」にまとめられては困る。「英語がコミュニケーションの全て」という英語帝国主義的な発想は、ワタクシとしては嫌悪の対象でしかない。


 外交交渉や国際経済どころか、日常生活や旅先や商店でのやり取り、学校や職場での友情や愛情でさえ、人間関係の全てが英語国民優先になるのでは、非英語国民があまりにも不利、負担を強制されすぎるじゃないか。強制された不利や負担を、無条件かつ無批判に受け入れることには、ぜひ大きな不合理を感じるべきだ。

 

 ホントにスミマセン、今井君は「1つ」であるより「∞」が好き。「なんだ、世界って無限大じゃないか」「多様性が無限大じゃないか」の立場であり、21世紀の世界に生き残った全ての言語を、心から愛してやまないのである。

(2019年12月24日午後3時、ウィーン・シュテファン寺院裏の老舗レストランに到着)

 

 というか、世界の言語を1つにまとめちゃうのは、∞の世界をたった1つまとめてしまうこと。生物多様性も人間の多様性も無視しきった暴挙、そうとしか思えない。脱炭素の方向性と同様に、今こそ言語多様性を取り戻す努力が必要なんじゃないか。

 

 ワタクシが授業の対象とするのは、16歳から18歳の日本の青年諸君。いまだに英語を「カッケー」と感じ、何でもかんでも英語で語り合いたがる世代であるが、今井君は「なんだ、世界って無限大じゃないか」の立場であり、この場面で「なんだ、世界って1つじゃないか」と言わせるわけにはいかないのだ。

 

 1はキライ、∞が好き。諸君、ドイツ語もイタリア語もフランス語もスペイン語も、ヨーロッパ言語はどれもこれも極めて美しい言語体系を持っている。アジア言語もアフリカ言語も、全て「スーパー♡世界文化遺産」と認めるべきものばかりで、無慈悲な英語帝国主義に踏みにじらせるわけにはいかない。

 

 旅は、「世界は1つ」のキレイゴトに終始するより、果てしない多様性や∞感を満喫することに妙味がある。「世界がたった1つ」だなんて、そんな狭っ苦しいことを実感したが最後、閉所恐怖症に似た恐怖に苛まれるのがオチだ。残されているのは、あの真っ暗で空気も吸えない「宇宙」しかないということになっちゃうじゃないか。

(ウィーン老舗レストランの1皿目。オイシューございました)

 

 しかし諸君、今や世界中どこに行っても、ママゴトみたいな英語4技能教育が跋扈して、「世界は1つ」と連呼&絶叫しつづけている。せっかくクリスマスイブのウィーンの老舗レストランに入っても、共通語はあくまで英語。ドイツ語の片鱗さえも感じられない。

 

 それではそこに「世界って1つじゃないか」という世界平等の愛情が横溢しているかといえば、「アジア人はこっちの部屋」「ヨーロッパ人はあっちの部屋」「アメリカからの人はこっち」、いやはや、民族やら国籍によって部屋やテーブルをしっかりギュッと分けてくださる。

 

「世界って、まだバラバラ」。旅をしていると、それを痛感させられる。あんなに21世紀的と日本のマスコミに賞賛されている北欧の国々だって、旅をしてみれば「アジア人はあっちにまとまって♨」という冷酷無惨な態度にビックリさせられる。「1つ」などとキレイゴトに終始するより、今は現実の「多様性∞」を満喫する方が圧倒的に楽しいのだ。

(ウィーン老舗レストランの2皿目。見た目はどうあれ、オイシューございました)

 

 我々はすでに1年半、「移動の自由」を放棄させられている。外国への移動はもちろん、国内の移動の自由もまだこれから1ヶ月近く、放棄せざるを得ない。

 

 しかし古代ローマ帝国以来、移動の自由こそ自由の根幹を成してきたものであって、逆に「移動の自由の制限」は、歴史上ほぼ全ての刑法の基本だった。

 

 古代日本の律令制でも、犯罪者に対する刑罰は、軽い方から重い方への順番で「笞・杖・徒・流・死」。ムチやら棍棒やらで思い切り殴りまくられる「笞」「杖」よりも、もっと重い刑罰が「徒」「流」であって、要するに移動の自由の剥奪。それ以上に厳しいのは、もはや死罪しかなかった。

 

 21世紀の今になっても、その構造は変わらない。いちばん軽くて罰金、いちばん厳しいのが死刑、その中間に位置する全ての刑罰が「禁固」ないし「懲役」、ローヤに閉じ込めてどこにも行かせない、要するに移動の自由の剥奪である。

 

 禁固を自ら積極的に選んだ姿を、ほんの少しプラスに表現すれば「籠城」。今井君の過去3週間を「籠城」と書いたのは(スミマセン、前回の続きです)、要するに移動の自由を積極的に放棄した自分への言い訳に過ぎない。

(2019年12月24日、ウィーンのホテルからプレゼントのクッキーが届いていた)

 

 すでに3週間に至るワタクシの「対コロナ籠城戦」でも、常にそのことを考えている。もともとのコロナウィルスが弓と刀でしか武装していなかったとすれば、変異コロナ軍は拳銃や自動小銃で重武装している。かつてあんなに軽薄に行動していたワタクシが、今これほど籠城にこだわるのは、敵の重武装を認識しているからだ。

 

 しかし我々の籠城は、すでに1年半に及ぶ。自らに移動の自由の制限を課して500日。こんな経験は、むかしむかしの封建社会以来、おそらく例を見ないのである。

 

 もちろん、ここでもまたキレイゴトは生きている。「今こそ書物を開け、文学&哲学の世界を渉猟せよ」。国語のセンセも、世界史や日本史のセンセも、いや数学史や美術史のセンセだって、同様のことをおっしゃるのである。

 

 すると我々は、夏目漱石のロンドンも、森鴎外のライプツィヒも、泉鏡花の金沢も追体験できる。画集を開けば、中世ヨーロッパの教会のステンドグラスも、ゴーギャンのタヒチも眺めて歩くことができる。アダム・スミスもマルクスも、遥か歴史の彼方をしみじみ眺めさせてくれる。しかし諸君、やっぱりこれもキレイゴト感覚を免れない。

(ウィーン・オペラ座前の「アイーダ」で、さらにケーキを追加する)

 

 古代ローマ帝国を高く評価するとき、何と言ってもプラス評価の根拠になるのが、それ以前に例を見ないほどの移動の自由である。イベリア半島から黒海沿岸まで、北アフリカからブリタニアまで、ローマ帝国の民はマコトに自由に移動できた。

 

 ライン河とドナウ河を結ぶ線の南までは、移動はほぼ自由。それ以北はゲルマン支配地域だから、ライン-ドナウの線を超えてはならない。決めたのはアウグストゥス、この線を超えて北進したのが5賢帝の1人・トラヤヌス。300年にわたってそんな広大な地域で移動の自由を保障したからこそ、この帝国はいまだに偉大なのである。

 

 ワタクシは昨日の記事で「刀折れ、矢尽きた」「もうタマがない」と書いた。掲載すべく残された写真は、201912月のウィーンの旅の写真のみ。旅の終わりは1229日、すでに旅の写真は24日の午後まで来てしまった。

 

 その時ふと、「自分はドナウ河まで来ている」と気づいた。ドナウはラインとともに、近代の国際法が生まれるモトとなった大河である。古代ローマから延々2000年、移動の自由の発想を支えて流れ続けた。ウィーンからはブダペストとベオグラードを経て黒海に至る。

 

 実は一昨年1225日、ワタクシはふと思い立って、ウィーンから船で隣国スロバキアのブラチスラバに向かった。

 

 時はまさに、世界がコロナの大軍に襲われる1ヶ月前。かつての東欧への重苦しい国境を軽々とひとまたぎ、冬の強風が吹き荒れるドナウを東進した今井君の姿に、今いくらかでもカッケーものを感じてほしいのである。

 

1E(Cd) THE BEST OF ERIC CLAPTON

2E(Cd) Luther VandrossLUTHER VANDROSS

3E(Cd) Anita BakerTHE SONGSTRESS

4E(Cd) Anita BakerRHYTHM OF LOVE

7D(DMv) ASSASSINÉE

10D(DMv) THE GREAT ESCAPE

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