Thu 201210 京都でイノシシ/今井四郎兼平/琵琶湖でウナギ/京都で大熱演 3983回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 201210 京都でイノシシ/今井四郎兼平/琵琶湖でウナギ/京都で大熱演 3983回

 2〜3日前に札幌から稚内まで、北海道を一気に北上したかと思ったら、11月下旬の今井は一転して京都にその勇姿を現した。もちろん京都で仕事があったのだが、せっかく紅葉の京都を訪れたら、仕事以外にもいろんなことを楽しみたい。

 

「いろんなこと その1」は、平野屋のイノシシ鍋である。マコトに野蛮な今井君は、11月に入ってからその野蛮さを思い切り発揮。広島で牡蠣80個を貪ったと思ったら、大阪ではクマ、札幌ではヒツジ、そして京都ではイノシシと、自然界を震撼させるその食欲には、およそ限度というものが感じられない。

(京都鳥居本「平野屋」のイノシシ。「脂身の少ないところ」「赤身の多いところ」と事前にお願いしておいた)

 

 平野屋は、化野念仏寺からさらに徒歩10分ほど坂道を上ったあたり、「鳥居本」という地名どおり、大きな赤い鳥居があって、その鳥居の下の苔のむした大きな茅葺き屋根が目印である。

 

 もともとは鮎の名店であって、看板にも暖簾にも「あゆよろし」の文字がある。数年前の6月に鮎を食べに入ったのが初めてで、「あゆのせごし」はたいへん新鮮で旨かったが、このごろのワタクシはどうしたものか生の魚がうまく喉を通らない。

    (前菜に、マコトに素朴な味わいの山菜が出る)

 

 普通の人間なら、若い頃は肉、それも脂身たっぷりの肉が好きだが、歳をとるに従って「肉より魚がいいですな」と優しくニコニコするものだ。しかしワタクシはどういうわけか正反対、歳をとるに従って「魚より肉がいいですな」のニンマリ顔、その極めて野蛮な食欲は徹底して肉に向かうのである。

 

 そこで平野屋を訪れるのも、自然に夏より冬になる。冬に鮎は食べないので、平野屋では鮎の代わりにイノシシ鍋を出してくれる。「あゆよろし」の看板を「いのししよろし」に書き換えたりはしなくても、冬の山を眺め、川の音を聞き、暖かいコタツでぬくぬくしながらイノシシを食らえば、こんな幸福は他になかなか思い当たらない。

    (イノシシ鍋は、野菜やキノコもテンコ盛りだ)

 

 2年に1回ぐらいの頻度でしか訪れないが、店の人はみんなワタクシを記憶してくれている。記憶しやすい楕円な外見もそうだが、会話とか態度とか、食べ方とか話し方とかが独特なせいである。

 

 ダジャレの頻度も歳をとるにつれて格段に上がり、かつダジャレの精度がかつてのイチロー選手の打率並みに高い。常に店の人たちとガハガハ笑い続けていれば、そりゃ記憶にも残るだろう。覚えてもらえば、もちろんサービスも温かくなって、結局みんなが幸せになれる。横柄な態度でツンツンしていても、いいことなんか1つもないのである。

 (仕事のない1日、温かい日本酒もたっぷりいただく)

 

 というわけで、この日のイノシシ鍋もまたテンコ盛り。こんなにたくさんイノシシ肉を噛みしめれば、顎の肉も骨もクタクタに疲れるけれども、そういう苦労ならワタクシは買ってでもしたいのである。

 

 野菜やキノコ類もやっぱりテンコ盛りで、仕事のない日だったから、もちろんお酒もテンコ盛り。日本酒を4合も5合も痛飲して、さすがの今井も腹がパンパンに膨れ上がった。というか、もともと膨れ上がっている出腹の中身がギュッと充実したのである。ゲバラ日記ならぬ「デバラ日記」はますます好調だ。

      (イノシシ鍋、いよいよ佳境に入る)

 

「いろいろなこと その2」は、琵琶湖南岸の散策である。京都地下鉄の東西線を東に進み、「びわこ浜大津」の駅で京阪線に乗り換える。くねくね&にょろにょろ、ウナギよろしく曲がりくねって進む京阪電車は、つい数日前に公開授業を行った膳所の駅を過ぎ、目ざす石山寺まで30分ほどかかる。

 

 途中「粟津」という駅を通過する。英雄・木曽義仲が命を失った「粟津の松原」のあたりである。何を隠そうワタクシは「平家物語」の大ファン。昔は参考書のプロフィールに「バッハと平家物語と秋田の酒『飛良泉』が好き」などと書いたものだったが、最近は恥ずかしいのでヤメにした。

 

 その「平家物語」の中でも、ワタクシが愛してやまないのが「木曽の最期」の場面である。陰険な源頼朝はキライ、平凡な範頼もキライ、ヒーロー義経はもっとキライだから、その反動で木曽義仲と今井四郎兼平の最期が好きになっちゃうわけである。

 

 義経がキライなのは、壇ノ浦の戦いの中盤、劣勢を強引に覆すために、当時の言わば国際法を無残に踏みにじる命令を出したから。「カコ&カンドリを斬れ」がそれであるが、当時は非戦闘員である水夫&船乗りにはヤイバを向けない不文律があった。「何をしても、勝てばいい」という戦法には美学も何もないじゃないか。

(滋賀・石山寺にて。11月下旬、紅葉がわずかに残っていた)

 

 それにひきかえ義仲と今井兼平の最期は美しい。諸君も「木曽の最期」、ググればすぐに読めるから、ぜひ原文を音読してみたまえ。6000もの敵兵の中を、残った味方300騎で縦横無尽に駆け巡る。さらに新しい敵2000に遭遇し、やがて300騎は50騎に減り、50騎は5騎になる。

 

 最後の5騎にまで残った妻・巴御前を説得して落ちのびさせ、手塚太郎も討ち死に、手塚別当は落ちていった。ついに親友・今井兼平と主従2騎だけになり、さすがの木曽義仲も弱気になって「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」とポツリ、さすがの旭将軍もションボリうなだれてしまう。

 

 そこで我が今井四郎兼平どんは、主人に向かい毅然として自害を勧めるのである。「粟津の松原」を指差し、敵に討ち取られるより潔く自害すべきだと説き、自らは主のために時を稼ごうと、敵50騎のただ中に駆け込んで、獅子奮迅の働きを見せる。敵軍の前で兼平、大音声で以下のように言い放つ。

 

「日頃は音にも聞きつらん、今は目にも見給え。木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものありとは、鎌倉殿までも知ろしめされたるらむぞ。兼平討って、見参に入れよ」。いやはや、カッケー。高校1年の夏休み、好きな場面をいろいろ、それぞれ50回以上も音読したせいで、今でもほとんど暗記している。

      (石山寺は、紫式部のお寺である)

 

 というわけで、京阪電車の今井君は粟津の駅を通過しただけで感激。「ここだ♡」「ここだ♡」とつぶやきながら、遥かな高1時代を回顧し、古文の高久先生の穏やかな笑顔を思い出すのだった。高久先生は今井君が高2の春に定年退職された。

 

 それにしても今井兼平、この場面でわずか33歳なのである。しかも「数え年」だから、満年齢は31歳か32歳。そんな若さで、よくもこれほどの強靭な精神力を発揮できたものでござるね。木曽の主従と同じようにイノシシやクマ、野獣の肉をいくら貪っても、ワタクシの精神力は一向に成長してくれない。

 

 そこでワタクシは、京阪電車の終点の1駅前、「唐橋」という駅で下車して、うなぎを食べにいくことにした。野獣の肉で精神力が育たないなら、ここは一番にょろにょろ君に頼ってみるのも一計である。瀬田の唐橋をわたって向こう側、琵琶湖うなぎの名店「山重」を目指した。

(瀬田の唐橋付近、うなぎの名店「山重」にて。香ばしいうなぎだった)

  

「瀬田の唐橋」には、有名な俚謡もある。「瀬田の唐橋、唐金 擬宝珠、水に映るは膳所の城」。唐金 擬宝珠と書いて「からかね ぎぼし」と読む。橋は75年の歴史を誇る「びわ湖毎日マラソン」のコースになっていて、昔はテレビ中継のたびに実況アナがこの俚謡を紹介したものだった。

 

 かつて壬申の乱の終盤、大海人皇子と大友皇子の決戦場になったのもここ。764年、恵美押勝こと藤原仲麻呂の敗走が始まったのもここ。「蜻蛉日記」の作者・藤原道綱母や、「更級日記」の作者・菅原孝標のムスメもこの橋に言及し、承久の乱の舞台にもなり、明智光秀に織田信長に、この橋はつねに歴史の転換点に立っていた。

(瀬田の唐橋。「唐金擬宝珠」とは、上に載っかっているタマネギ坊主みたいなヤツのことである)

 

 まあ諸君、そういうたいへんな場所で「山重」の香ばしく焼き上げられたうなぎを貪り、京都大学ボート部のボート小屋を眺めつつ、30分ほど川沿いを歩いて石山寺に向かった。紫式部どんが源氏物語を執筆したという有名なお寺であるが、悔しいことに諸君、今年の紅葉は例年になく早く、ワタクシが訪ねた日にはもう大半が散り紅葉となっていた。

 

 11月27日、京都でのお仕事は、京都駅前メルパルク内で。定員200名ほどの大会議室であるが、「キャパの1/2ルール」がますます厳格になりはじめた頃のことで、出席者は100名に限定した。

 

 それでも今井君はクマとイノシシとウナギに助けられた精神力で90分、思い切りの大熱演を演じた。19時半開始、21時終了。夜9時の段階で、京都駅前はもう奇跡のように静まり返っていた。

 

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