Fri 201113 理系サマサマ/文系の自虐/倫理は論理の防波堤/磨くべきは発想力 3977回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 201113 理系サマサマ/文系の自虐/倫理は論理の防波堤/磨くべきは発想力 3977回

 マスメディアの皆様は、国立大理系に夢中のようであって、同じ国立大でも、文系のことはちっとも報道してくれない。ましてや今井君みたいな私大文系なんかは「ほぼ論外」の扱いであって、せいぜい相手にしてくれても、CMかインフォマーシャル程度である。

 

 例えば野球の早慶戦で早稲田が6大学リーグ優勝を果たしても、朝のニュースでの報道は皆無。夜の各局スポーツニュースを見ても、早慶戦の話題はピクリとも動かない。早稲田大の関係者は劇的な大逆転勝利に熱い感激の涙ウルウル、みんな抱き合って新宿歌舞伎町で狂乱の祝杯をあげたいところだった。

 

 しかしコロナ第3波の真っただ中、特に悪名高い歌舞伎町だ。まさか学生の身で「接待を伴う飲食店」には向かわないにしても、「歌舞伎町」と名がつくだけで、チェーンの居酒屋にも古びたロシア料理屋にも近づけない。

(11月、ウォーキングに東大駒場コースが復活。大学構内にもずいぶん人が増えた)

 

 しかも今年の1年生は、4月から11月までほぼ完璧にオンライン授業。せっかくあんなに難しい英語の長文問題を克服して難関合格を果たしたのに、マトモな友人さえまだほとんどいない。

 

 ましてや彼女作り&彼氏作りもナシ。昔から「イチョウの葉っぱが黄色くなる前に出来なければ、学部の4年間は彼氏も彼女もナシ」という都市伝説があって、あながち無意味な都市伝説とばかりは言い切れない。今年の新入生、彼氏とも彼女とも縁のない、暗いマコトに暗い学部の4年間が横たわっているのかもしれない。

 

 というか、その4年のうちすでに1年が過ぎ去ろうとしている。早稲田も慶応も可哀想だ。明治も立教も法政も可哀想だ。日東駒専も関関同立もあまりにも可哀想だ。それなのに、マスコミはみんなソッポを向き、脚光が当たるのは東大王というかクイズ王というか、その種の国立系&理科系ばっかりだ。

(広島に2泊して、初日も2日目も3日目も生牡蠣を貪る。2日も「かなわ」駅ビル店。10個プラス5個で合計15個。ここで驚くべき出会いがあった。詳細は次回)

 

 ラグビーでもサッカーでも、バレーでもバスケでも、私大の諸君だって日々大活躍を続けている。どうしてちっとも報道してくれないの? 今を去ることホンの30年前までは、野球の早慶戦は日本のスポーツを代表するメインイベントであって、NHKなんかプロ野球の日本シリーズを差し置いて早慶戦を実況中継したりした。

 

 それでも別に文句も出なかったし、日本国民の多くが「むしろ当然」という顔で、平然とテレビの早慶戦を眺めた。1970年代から80年代、早稲田には向田・北口・三谷の好投手が揃い、打線にも岡田だの金森だの、後にプロで大活躍する選手が並んで、それでも慶応が大奮闘、互角に試合が進むと、満員の神宮球場が揺れに揺れた。

(牡蠣の店で、大根の煮物を楽しむ。甘辛い肉味噌がうまかった)

 

 そろそろマジメに話をすれば、21世紀に入ってからのマスコミによる国立系&理科系への偏愛は、明らかに異常なのである。マスコミがあんまり理系サイドに偏るから、国民の意見も、省庁やら大学当局やらの予算配分も、みんな理系偏愛に流れ、今や「理系にあらずんば人にあらず」の様相を呈している。

 

 例えば諸君、東京大学本郷キャンパスや、あの広大な北海道大学構内を散策してみたまえ。目を見張るような豪壮で立派な建築物は、ほぼ例外なく理系学部に属するものであって、法学部や文学部みたいな文系の諸君は、みんなションボリ昭和中期の古ぼけたハコモノの中で授業を受けている。

  (2日目の〆は「かき雑炊」。おいしゅーございました)

 

 まあ諸君、身近な大学のキャンパスを見学に行きたまえ。阪大でも名大でも、京大でも神戸大でも九州大でも、金沢大でも筑波大でも千葉大でも、要するにどこでも構わない。

 

 理学部・工学部・医学部はマコトにご立派な21世紀的建築物。それに対して、いやはや文学部、いやはや法学部、「文系はみんなこんなおざなりな扱いでいいんですか?」と溜息が出る。

 

 経済学部と経営学部だけは、ホンの少しだけ理系の恩恵があって、小難しい数学のカホリをプンプン漂わせれば、マスコミのご意見は一気に好意的になるのである。ただしそれも国立大の場合だけ。私大の経済学部については、こりゃまた「いやはや」という嘆きの対象である。

 

 メディアが文系に好意的になるのは、「日本学術会議」のお話の時だけである。「推薦されたのにダメだった先生方はみんな文系だ」「文系に何か怪しい恨みでもあるんですか?」、そうおっしゃるのであるが、文系に怪しい恨みがあるのは、むしろメディアの側なんじゃないか。

(関西からの帰り、羽田空港のトンカツ屋で「丸太トンカツ定食」を満喫。ここでも「モト生徒」との出会いがあり、一緒に写真に収まった)

 

 そんなに「論理」「論理」と盛り上がったって、そもそも「論理」の定義すら、ほとんどの人は知らないのである。「筋道だった考え方」ないし「屁理屈」「魔法のように素早く正解に導く素敵なアタマ」、その程度のことである。

 

 我々を導いてくれるはずのセンセたちだって、1980年代まではマルクス経済学の信奉者だったのである。東大経済学部だって、かつてはマルクス経済学のメッカ。今の権威の皆さんの多くも、70年代から80年代にかけてマルクス経済学の専門家に師事した人々だ。

 

 しかしあのマルクス&エンゲルス、果たして論理的思考と呼べるんだろうか。学部1年生の頃に苦労して懸命に読み進めた「資本論」の記憶によれば、むしろあれは四則計算を縦横無尽に駆使した「不思議な算数」「不思議な算術」ないし「算術的妖術」の類いだった。

 

 というより、もっと正確にいえば「どうしても主張したい結論が先にあって、その結論に導くために無理やり後付けで算術を駆使したエッセイ」である。今の経済学から見れば、やっぱり一種の妖術、理論の錬金術のように見える。

(先週の日曜日は、またまた銀座「小尾羊」で羊の火鍋を食べまくった)

 

 今井君なんかは、「メディアの文系軽視は、むしろ文系の人々の自虐なんじゃないか」と睨んでいる。マスメディアで記事を書きまくっている人々は、ほとんどが文系の出身であって、かつて数学の不出来に悩んだ自らの過去を振り返りつつ、「文系なんか必要ない」「文系に税金を使うなんて無駄だ」と断じるのである。

 

「理系サマサマ、数学が得意で、いわゆる論理的思考がお得意で、文系の我々なんか足元にも及ばない」。居酒屋で気持ちよく酔っ払いつつ、私大文系出身の中年男たちの意見は実にカンタンにまとまっていく。

 

 諸君、この種の文系軽視は、マコトに危険な兆候だ。文系軽視は、必ず国難を招く。コロナ第1波の頃のメディアの論調、「首相がもっと強いリーダーシップを発揮してぇ」、あれを思い出してみたまえ。国家的危機の中で大統領や首相や国王や主席の皆様に強いリーダーシップを要求すれば、必ず悲惨な結末を辿るのを、歴史に学ぶことさえしない。

(銀座7丁目「小尾羊」の火鍋。手前左側で煮え繰り返っているのが、辛口の唐辛子スープ)

 

 論理的思考は、一般に直線的に進む。直線的思考は時に暴力的であって、そこに立ちふさがって食い止める何者かが存在しないと、悲惨な破滅にまで突き進む。立ちふさがる者を「倫理」と呼び、「論理」は理系のカテゴリー、「倫理」は文系のカテゴリーである。

 

 論理が直線的に進行するのは当然であって、曲線的論理とか楕円形の論理などというものは、本来あってはならない論理のすり替えに過ぎない。しかし直線的思考を無制限に放置すれば、フランケンシュタインが生まれ、大量虐殺兵器が生まれ、その使用を肯定する論理さえ発生して、その論理は虐殺兵器の使用から80年近く、実際にアメリカ社会では肯定されてきた。

 

 そこで、我ら文系の出番が来る。「倫理」は言わば論理の直線的進行をなだめすかす防波堤であって、暴発しがちな論理クンたちを外側から大きく優しく包み込み、悲劇的な決壊を決して許さない厳しさを堅持する。

 

 だからワタクシは、「知性には2つの種類があって」というハナシで毎年の講義を締めくくるのである。ナイフのように研ぎ澄まされた知性、これが理系。球形ないし楕円球のような優しい知性、これが文系。ナイフが直線的に傷つけまくるのを、楕円球は外から温かく包み込んで倫理の外へ飛び出すのを許さない。

(そうかと思えば新宿の中華料理屋でコマ団子を楽しむ。ゆでたまごの入れ物に収まった様子が可愛い)


 しかし諸君、メディアの論調は違うのである。「論理的思考力を育てないと、AIに負けてしまう」「理系を急いで充実させないと、中国や韓国に負けてしまう」。あたかも中国の人や韓国の人の能力をAIの能力と同一視しているかのような勢いだ。

 

 そもそも「論理的思考を育てないとAIに負けちゃう」などというバカなことを、いったい誰が考え出したんだ? 論理的思考という直線的な世界で、「AIに勝てる」と思考できる頭脳の存在が、ワタクシにはとても信じられない。

 

 諸君、論理的思考の追求や「千人計画」や、倫理を軽視した論理の野放しで得られるものは、立身出世と利潤、繁栄と栄耀栄華である。出世と繁栄と栄華は得られても、幸福と平安と豊饒は得られない。

 

 繁栄と栄華、幸福と豊饒、この2群は全くの別物であって、平家物語を読むまでもなく、繁栄と栄華はマコトに虚しい崖っぷちの存在。蟻の一穴から取り返しのつかない悲劇に陥る。幸福と豊饒は永遠のものであって、直線を永遠に辿ればほぼ瞬時に世界の果てに消滅するが、豊饒を優しい球形や楕円形の中に封じ込めれば、永遠に果てることがない。

(11月の公開授業は着々と進行。100名前後に限定して、三密を避ける。しかも座席は指定制。万が一の時、感染者の近くに座っていた生徒に連絡できる態勢。写真は広島県呉市での公開授業)

 

 ワタクシは、阿呆である。中3までは間違いなく神童と呼ばれ、恐るべきことに自らも「世界史的な人間」と考え、最低でもゲーテぐらいの名声が得られると信じていた。そういう阿呆の中の阿呆である。世界史的な阿呆である。呆れ果ててくれたまえ。

 

 それが高2の春に彼女が出来て、それで一気におかしくなった。「医師になる」「作家になる」と言いだし、医師は一生苦労しそうだからサッサとやめて、一番ラクに生きていけそうな作家がいいと思った。それを彼女に言っちゃったからさあ大変、数学や物理の時間まで小説を書き散らして、万年筆が擦り減るほどだった。

 

 それも諸君、「神話しか書かない」「新しくギリシャ神話を書く」「オレはホメロスを凌駕する」などというスーパー阿呆になって、いやはやマコトに恥ずかしい高校時代を駆け抜け、気がつくと論理的思考とは世界で一番かけ離れた間抜けな男になっていた。

(360名収容の大会場に180人。3密対策徹底、決して手を抜かない。11月公開授業の詳細は次回まとめて)

 

 しかしそれで不幸になったかといえば、そうでもないのである。21世紀の日本では甚だしく冷遇され続ける私大文系人間であっても、20世紀の真っただ中に生まれた日本人の中で、おそらく豊饒で幸福な方から1/10000ぐらいの中には入っている自信に満ちている。

 

AIに負けないように」というなら、必要なのは論理ではなくて発想力である。その発想が非論理的ならさらにいい。AIが驚嘆でひっくり返って「ワタシにはアナタが理解できません」「何をおっしゃっているのかわかりません」「さようなら、アナタには協力できません」と一言うめき声を発し、その場で崩壊してしまうような非論理的発想力を磨きたまえ。

 

 文系の諸君、メディアの論調に流されて、無理な理系志望に変更したりする必要は全くないのだ。文系上等。文系の学部に数学や統計学をたっぷり導入するというなら、理系の学部にも倫理や哲学をみっちり導入して、倫理と論理で切磋琢磨、「文系で磨くべきは発想力」と嘯いて、めったやたらに自信を持って生きていけばいいのだ。

 

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