Tue 200623 分かりやすさの運命/ポリニャーノ(アドリア海岸探険記17)3948回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 200623 分かりやすさの運命/ポリニャーノ(アドリア海岸探険記17)3948回

 諸君、これは別に自慢するわけであるが、今井の書く文章は異様に分かりやすい♡。  どんなに難しいことを書いても、ブログの読者に「難しい」「分かりにくい」と思わせたことは一度もないはずだ。

 

 毎回「読みごたえがある」と唸らせても、「いったいコイツ何を書いてるんだ?」とメンドーに思わせたことはホントにないと確信している。これほど自信過剰なヤツ、地獄の底まで探したって、滅多に見つかるものではない。

 

 理由その①は、その辺の皮肉屋なら誰でも思いつきそうなことであって「だってもともと大して難しいこと書いてないじゃないか」と失笑されれば、それはもちろん一言もない。

 

 コドモのころから友人たちにも指摘された器用貧乏。何をやらせても器用にこなすけれども、誰にも負けない専門分野というものが一切ない。「大したこと」なんてのを書く人間の深みが全くないのである。

(2019年9月4日、バーリ近郊ポリニャーノ・ア・マーレにて)

 

 しかし諸君、関係代名詞と関連した「理由その②」だけは、ぜひ大切に読んでいただきたい(スミマセン、実は前回の続きです)。中3の秋に初めて関係代名詞を勉強した時、器用貧乏な今井君の頭に強烈な衝撃が走ったのだ。いわゆる「これだ!!」という叫びであった。

 

 それまでの今井君も、作文上手として校内でも地域でも有名。作文コンクールや小論文コンテストみたいなものがあれば、短時間で軽く書き流しても、金賞だの優秀賞だのを必ず獲得した。

 

 そのまま進んで、「模擬試験の小論文で満点」などという奇跡的な事件も起こった。若き怠惰な今井君が受けた模擬試験の数は、人生全体で5回か6回。小論文の模試は1回か2回だから、その打率はイチローどんをはるかに凌ぐ大記録。この満点打率を凌ぐヒト科の生物は、今後も数万年にわたって出現しないんじゃないか。

(ポリニャーノ・ア・マーレにて。日本の超有名な女子シンガーが、ここで結婚式をなさったのだそうな)

 

 しかし諸君、英語で関係代名詞を習うまでの今井君は、日本語独特の「修飾語メッチャ盛り」の文章を書いていた(繰り返します。スミマセン、前回の続きなんです)。

 

 今も変わらぬ日本の伝統であるが、プロの作家たちも、論壇や新聞&雑誌の論客も、「修飾語テンコ盛り」のマコトに読みにくい重厚な文章を基本としていらっしゃる。

 

 あんまり修飾語をマルマル&モリモリ盛り過ぎるから、その文体はみんな強烈に重苦しい。いやはや、「わざとやってるの?」と溜め息が出るほど読みにくい。

 

 センテンスを一度で理解するのが困難なので、ワタクシは日常の読書でも1センテンスを2度ずつ読んで確認せざるを得ないほど。あんなに複雑な修飾関係を一度で理解して「私は速読の達人です」などと豪語する人がいると、ビックリして腰を抜かし、再び立ち上がるのに苦労する。

(ポリニャーノ・ア・マーレの絶景。波の激しいビーチが、今では懐かしい「密」を形成していた 1)

 

「文章の達人」と自画自賛する人さえ、その種の複雑怪奇なセンテンスを連ねるから、日本の国語教育には「文節わけ」とか「単語ごとに切り刻む」という摩訶不思議な作業があって、どの形容詞がどの名詞を修飾するのか、どの副詞がどの動詞を修飾するのか、高校受験生が悪戦苦闘したりする。

 

 思えばそれはまさに本末転倒なので、理解困難なセンテンスで青少年の大切な時間を浪費させるヒマがあったら、その悪文の筆者の責任を追及すべきなのである。生意気ながら、ワタクシが国語教師なら「書いた人が悪い」と言い放つ。

 

 噛んでも噛みきれない食品があったら、それは作った人が悪い。咀嚼&嚥下しても消化できない食料品があっても、目を白黒させている哀れな消費者が悪いのではなくて、作った人と流通させた人が責められるべきである。

(ポリニャーノ・ア・マーレの絶景。波の激しいビーチが、今では懐かしい「密」を形成していた 2)

 

 ところが、昔々の大昔から、日本という国はつくづく難しく出来ている。「修飾語テンコ盛り」の難解な文体を「重厚」と勘違いし、日本語の文章はどんどん頭が重たく分かりにくくなって、読者はみんな2度読みするか、または理解度100%を諦めて「半分わかればいいや」「やっぱり速読だ!!」みたいに、要するに劣化してしまったわけである。

 

 10歳代中頃の今井君も、自らの「重厚な文体」を国語の先生や採点者に褒められて、ダラしない自己満足にニタニタ、しかし実際は、理解困難なセンテンスを連ねる手法に自ら辟易していた。

 

「日本語って、もっと何とかならないものかね?」と、反省の日々だったのである。そこへ諸君、英語で関係代名詞を習った。「うぉ、修飾語はどんどん後回し。準センテンスの形式に変換して、後ろからくっつけていけば、全てのセンテンスは単純明快に変わる」。ワタクシの人生が大きく変わった瞬間である。

(ビーチを見下ろす断崖の上のレストランに入る。イカスミとアサリのラザニアと、赤ワインを1本)

 

  ただしそういう人生の分岐点について、「好転した」「重苦しい雲が消え去った」と表現するのを、今も躊躇するのである。というか、ハッキリ「他者の評価が一気に低下した」と申し上げた方が正直だろう。

 

「分かりやすい」という状況を、多くの日本人は高く評価しないのだ。全く同じ内容のパッセージを書いても、一度でスカッと理解できてしまうと、「ははあーん」「なるほど」と一瞬ニヤッと微笑んで、次の瞬間にはもう中身を忘れてしまう。

 

 それに対して「修飾語テンコ盛り」「2度読みしてもまだ分からない」→「よっしゃ、文節に分けてみよう」「単語に分解してみよう」みたいな悪文を提示されると、かえって「重厚」を感じ、「マジメな読書をした」「充電ができた」とホクホク満足し、分かりやすいほうを「軽薄」と断じてポイ捨ての対象と考える。

 

 日本語のセンテンスに関係代名詞節や関係副詞節を導入して、自らのパッセージを数段も十数段も理解しやすくしたのは、高3の11月である。医学部志望を諦めて文転したのとほぼ同時期であるが、諸君おどろくなかれ、それまで今井の文章を褒めちぎっていた現代文の先生に、「オマエ、いきなりナンパになったな」と指摘された。

   (フリット・ミストで赤ワインはカラッポになった)

 

 うにゃにゃ、驚いた。もちろん「うにゃにゃ」とか「サトイモ」とか「楕円人間」とか、その種のコトバを連発すればナンパ扱いされても致し方ないが、当時の若き今井君の書く文章には、もちろんそんなコトバは一切なし。形而上の小難しい思索やら哲学用語やらを目いっぱい展開して、中身はそれまで以上に高尚なものにしてあった。

 

 同じようなことは他にナンボでもあるので、諸君、その後のワタクシは形而上の世界から、とうとう予備校英語の世界にまで降りてきて、痛いほどそれを思い知らされた。

 

 全く同じ教材で同じ内容の授業をしても、分かりやすく&分かりやすく、どこまでも分かりやすさを心がけて授業を行うと、カンタンに分かっちゃった生徒諸君の評判はむしろグングン低下する。

 

 それに対して、分かりにくく&分かりにくく、大学入試英語のレベルのカンタン至極なお話をどこまでも分かりにくく教えると、評判はグイグイ上昇する。「すげー難しかった」というのが、むしろ褒め言葉になるような世界が、この世の中には存在するのだ。

(南イタリアのデザートは、意地でもアングリア。徹底してスイカを貪りまくる)

 

 それこそ「ホレーショーよ」であるが、この世の中には哲学なんかが解き明かせない難しいことがナンボでもあるのだ。「この世の中」を「この日本には」に変換すれば、哲学の解明できない問題の密度はもっともっと高くなり、「分かりやすい」と「軽薄」がほぼ同義語として通用するのかもしれない。

 

 1997年から2005年までの8年間、ワタクシはその現象に激しく苦しみ、辛酸なめ子をはるかに凌ぐ辛酸なめ男として苦悩の日々を送った。分かりにくいと賞賛され、分かりやすいと軽薄として冷笑される世界を、とにかく何とか生き抜いて今に至る。

(バーリから帰った夜は、閉店直前のこんな店でチキンの丸焼きを購入。こういう旅の方が印象深い)

 

 しかし諸君、ここでもやっぱり「ホレーショーよ」なのであって、嘆いてばかりはいられない。よく考えてみれば、自分自身にもその性向は厳然として存在するのだ。

 

 例えば外国の旅を頻繁に繰りかえしても、「スイスイ気楽に事が運ぶとつまらない」「正反対に、危険とか危機とかに見舞われて、危機一髪で切り抜けた経験のほうが圧倒的に印象に残る」なんてのは珍しくない。

 

 だから諸君、日々旅にして旅を住処としたこの20年の中で、ワタクシが好きになったのはパリではなくてマルセイユであり、サンフランシスコよりもサンパウロとブエノスアイレスとハバナであり、ウィーンよりもイスタンブールとブダペストである。

 

 同じマルセイユでも、2014年のマルセイユでなくて、2005年のマルセイユのほうが好きだった。今やマルセイユはすっかり治安が整ってスイスイ安心しきって歩き回れるが、2005年のマルセイユは、映画やドラマでもありとあらゆるコワいイメージがテンコ盛り。駅からタクシーでホテルにたどり着くまでに、もうとっくに震え上がっていたものだ。

 

  (チキン丸焼きの風景。旅は、こうじゃなくちゃいかん)

 

 今回のバーリ滞在でも、実は最も印象に残るのがターラントの旧市街である。ターラントの思い出については前々回の記事を参照していただくしかないが、明るい新市街から海にかかる橋をわたって旧市街に入ると、その緊張感は全身に鳥肌が立つほどであった

 

 リオでもブロンクスでも、ハバナでもサンパウロでも、一度も経験した記憶のない暗い恐怖感。ただでさえ恐ろしい雰囲気の横溢する旧市街を激しい雷鳴とともに夕立が襲い、ますます重い空気が立ち込める旧市街で、あえてドゥオモを訪問した。

 

 ドゥオモ内部も、ほぼ暗闇である。人工的な明かりというものがないのだ。小銭を投入してやっと5分だけ仄かな照明がつく。他人が投入した小銭のおかげで、やっと美しい象眼細工の祭壇を眺めることができる。

 

 その照明の温かな雰囲気にホッとする間もなく、ドゥオモを出ると再びあの旧市街を駆け抜けなければならない。たくさんの赤ん坊が盛んに泣く声、青少年の集団が低く談笑する響き、怪しいオジサマたちがそこいら中の暗がりから暗い視線でこちらを覗き、南イタリアのマンマやバアバが金切り声をあげて、誰かをキツく叱る声が響き渡る。

(ターラント 旧市街の薄暗いドゥオモ。小銭1個で5分だけ明かりがつく 1)

 

 ターラントからバーリへの帰還は午後9時に近かった。スーパーでビールを購入、ついでにすぐ近くの丸焼きチキン屋で、旨そうに焦げた1羽を購入。ホテルの部屋に戻って、ビールとチキンの夕食を満喫した。

 

 しかし諸君、こんな暗い旅の方が、なぜか翌日のポリニャーノ・ア・マーレでの晴れた1日より、はるかに深い印象として残っている。旅も文章も授業も、困難を伴えば伴うほど、深く印象に残るものなのかもしれない。

 

 ならばむしろ人生の戦略として、自ら困難を求めてそのぶん快楽を増幅し、他者にも困難を通じて返って快楽を提供する、そういうドMでドSな道もアリということである。

(ターラント 旧市街の薄暗いドゥオモ。小銭1個で5分だけ明かりがつく 2)

 

 ワタクシがいつまでもこんなシロートの長文ブログに固執しているのも、こっとその道の一種なのだ。ホントなら、2行か3行のツイートなりインスタなりで「バエ」たり、ユーチューブに短い動画を載せたり、そっちの方がずっとお気楽極楽なのに、相変わらず90分もかけて長文ブログを続行している。

 

 まあ諸君、「よくやるよね」と呆れながらでもいい、イマイは以上のような考えで、まだもう少しだけブログの世界に固執するつもりだ。思えば、「10年連続、合計3652回の更新を達成!!」の日から、ほぼ2年が経過した。2年前に「ここからは2次会です」と宣言してからでも、更新は約300回を数える。

 

 今や、人々はこぞって気楽な世界へ一斉移動。これは、小学生のころの今井君の体験とそっくりだ。友人たちはみんな「8時だヨ、全員集合!!」「巨泉 × 前武のゲバゲバ90分」「スターどっきり」、またはコント55号の「なんでそうなるの?」「とびます、とびます」で気楽に笑う日々。今井君だけこっそり、図書館で借りた本を「つくづくツマンネ」と思いながら密かに読みまくった。

 

 ま、別にそれも構わない。せめてあと50回はこれを書き続けて、「ついに合計4000回達成!!」と絶叫するところまでは、何とかたどり着きたいのである。ポリニャーノ・ア・マーレについては後日また詳述することにして、今日は陽光に満ちた前半の写真数枚を眺めて満足してくれたまえ。

 

1E(Cd) The BeatlesRUBBER SOUL

2E(Cd) The BeatlesREVOLVER

5D(DMv) DOCTOR ZHIVAGO

8D(DMv) BATTLE OF THE BULGE

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