Sun 200614 塾と教会/洗脳されるぞ/サンニコラ聖堂(アドリア海岸探険記14)3944回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 200614 塾と教会/洗脳されるぞ/サンニコラ聖堂(アドリア海岸探険記14)3944回

 今や日本の中堅都市は、どこに行っても塾だらけ。「この街には塾以外に何があるの?」と、溜め息をつくしかないことも少なくない。

 

 首都圏なら、立川・津田沼・町田・春日部・藤沢・柏・松戸。関西圏でも、西宮北口・堺東・茨木・高槻・大和八木。ほぼ同じような状況が名古屋圏にも福岡圏にも札幌圏にもあり、仙台圏や広島圏や新潟圏にさえ拡散しつつある。

 

 塾の隣が塾、塾の向かいが塾、塾の裏が塾。これほどジュクジュクした状況を、もう30年も前に朝日新聞は「飽塾」という大きな見出しで大げさに嘆いて見せた。

 

 そりゃ優等生集団=Morning Sunだ。塾なんかに頼らず、公教育だけで高校にも大学にも進めるのが、彼ら彼女らの理想なのだ。しかも宿題なし、中間テストなし、期末テストもなし。そうじゃなきゃ、彼らの理想からは遠い。

 

 全社をあげて大好きな「大学ランキング」「高校ランキング」みたいな記事でも、いまだに「飽塾」の状況を大袈裟に嘆いていらっしゃる。まさかマスコミ就職塾の出身だなんて、そんな人間はタテマエ上1人もいない。賭けマージャンなんて、聞いたこともないはずだ。

   (バーリ、サン・ニコラ聖堂のサン・ニコラ像 )

 

 確かに諸君、100年前の青年がもしもタイムスリップして、今の藤沢や町田や西宮北口の駅前を眺めたら、あまりのことに「こりゃ何かの新興宗教の来襲か?」と、思わず身構えるかもしれない。

 

 ホンの30年前、同じ駅前は当時の「サラ金」ことサラリーマン金融の店舗で溢れかえっていた。「ヤタガイ」「ふくぶくローンの本田ちよ」「武富士」「アイク」「ディック」「ポケットバンク」「アイフル」「アコム」「プロミス」、それぞれに新進女優をつかって盛んにテレビCMに励んだ。

 

 しかもそのCMから、思えば多くの人気女性タレントが生まれた。誰が誰だったか、いちいち記憶しているのはワタクシぐらいだろうが、アコムにディックにポケットバンク、「まさかこんなに人気が出るとは」と、CM制作の担当者だってビックリしたにちがいない。

 

 そりゃそうだ。あれほど頻繁に画面に登場すれば、認知度の広がりはたいへんなもの。やがて「消費者金融」という名に変われば、朝ドラに主演した女優まで投入された。

(バーリ、サン・ニコラ聖堂前のサン・ニコラ像。左手の3個のタマは、貧しい3姉妹に与えた金貨を示す)

 

 業界は全く違うが、状況は「ビズリーチ美女」と同じことである。タクシーに乗るたびに、座席の目の前で「ビスリーチ♡」とニッコリされれば、酔っ払った深夜のビジネスマンの脳裏に、彼女の自信に満ちた笑顔が刻み込まれるのは当たり前だ。

 

 そういうふうで、「サラ金やら消費者金融の看板と店舗のせいで、街の景観が破壊される」と、良識あふれるMorning Sun読者の皆さまから怒りの声が上がったことがある。

(21世紀、出番を待ち受けるサン・サトイモ。このヒゲを手入れしないほうが勇ましかった気がする)

 

 同様の声は、まさにMorning Sun読者の1人が投書欄「声」に投稿された「街の顔、塾でよいのか?」に象徴されていた。新幹線が名古屋の駅に到着する直前、あるいは新幹線が名古屋を出た直後、乗客の目に映るのはひたすら「河合塾」の看板。それしか見えないというのだった。

 

 日本を代表する名古屋ともあろう大都市の看板が、「河合塾」「河合塾」「河合塾」。エビフリャーでも「矢場とん」でも、ウイローでも名古屋コーチンでもドラゴンズでもなく、ひたすら河合塾。「そんなことでいいんだろうか」という投書が、Morning Sunの優等生読者の心を揺さぶった。

 

 今や拉致被害者の弟さん2人から厳しい調子で「何もしなかったクセに批判ばかりして卑怯だ」と、「ほぼ名指し」されたMS紙であるが、自社への批判は見事に知らん顔スルー、一向に反応を示さない。

 

 賭博マージャンは馘首に値する大罪だが、それに参加した自社職員はそんなに悪くない。「読者はみんな無条件で書き写しなさい」とおっしゃるご自慢のコラムに、「自宅の菜園のトマトが実をつけました」。そういう新聞である。

  (アドリア海岸、サン・ニコラ聖堂。1087年建設開始)

 

 街の景観を壊すのは、サラ金であり、消費者金融であり、塾の看板である。景観を壊せば、もちろん街の品格も壊れるから、サラ金や消費者金融の勢いが消えた後、「悪いのはみんな塾だ」と言うのである。

 

 ただし、河合塾とはずいぶん仲直りをしたらしくて、最近は共同調査やら共同研究やらをいろいろなさっている。大学受験関係の記事を書くときには、何が何でも冒頭に「河合塾によると」と、マクラコトバかテンプレートみたいな1行が踊る。街や駅前の見映えなんかは、もうどうでもよくなったらしい。

 (アドリア海岸、サン・ニコラ聖堂。アーチが美しい 1)

 

 しかし諸君、21世紀の中年男が何かの間違いでイタリアのアドリア海岸なんかをホッツキ回っていると、21世紀の日本とほぼ同様の光景を見出して、唖然とするのである。

 

 というか、「なんだ、そういうことか!!」と気がついて、思わず両膝をポン!!と打ち、「そういうことか」「そういうことか」と、5度か6度繰り返して絶叫したあげく、手近にあった教会に闖入し、教会の薄暗闇でいつまでもニヤニヤ笑い続けたりするのである。

 

 だって、そうじゃないか。バーリの狭い旧市街全体が、今の日本の駅前の塾ラッシュ同様、あっちを向いても教会、こっちを向いても教会、教会の隣りが教会、教会の向かいが教会、教会の裏がまた教会、「教会以外に何もない」、Morning Sunがもしも中世にあったら「飽・教会」という大見出しでも掲げかねない状況なのだ。

 (アドリア海岸、サン・ニコラ聖堂。アーチが美しい 2)

 

 バーリは、現在人口30万人あまり。街は碁盤の目のようにキレイに整備された「新市街」と、中世以来ほぼそのままに放置された小さな半島の「旧市街」に分かれる。路上でオレッキエッテを作っている逞しいマンマたちは、みんな旧市街の住民だ。

 

 この半島の旧市街、ホントに「あっちを見ても教会、こっちを見ても教会」であって、「無人教会」なんても少なくない。ギュッと鍵がかかっていて、その扉は押しても引いてもびくともしない。「日曜日以外は開いてません」「観光客は拒否します」というのである。今ならまさに「オンライン塾」の風情だ。

 

 21世紀の日本の飽塾状態とは、12世紀から19世紀までの南イタリアでの教会飽和状態と実はそっくりなんじゃないのか。小さな教会、小さな塾、どこも確かに規模は小さいが、「ウチは他に負けない」という気概はみんな共通、熱く燃えているのである。

(アドリア海岸、サン・ニコラ聖堂クリプタ。数々の聖遺物が残っている)

 

 そりゃ難しい教義の問題もいろいろあるだろうけれども、教える者も教えられる者もみんな真剣そのものであって、「絶対にお隣には負けませんよ」「お向かいに負けないメソッドがウチにはあります」「システムと必須アイテムが揃っています」と、力こぶを作ってみせたに違いない。

 

 どの教会に通うか。それを選択する側の人々にだって、いろんな基準があったはずなのだ。

「あっちのほうが、ずっと面倒見がいいのよ」

「ひとりひとりを大切にしてくれますよね」

「でも、こっちのお坊さまの声が素敵よ」

「ウットリしちゃうよね」

「でも、お説教が上手すぎて、かえってウサン臭くね?」

「歌も上手だけど、他にもいろいろ、お上手なんだって」

「あんらー、イヤらしい」

「ナニ想像してんのよ。そういうことじゃなくて..

「こら。不謹慎な話はヤメなさいって」

「キレイゴト言わないの。アンタだって、あそこのお坊さまとはいろいろ

ま、ボッカチオ「デカメロン」は、そういう話が満載だ。

 (バーリ旧市街。狭い半島のいたるところに教会が存在する)

 

 その種のボッカチオ型「自由な人間讃歌」がどのぐらいの頻度で発生していたかは分からないが、これほどの濃度&密度で教会が乱立している中、さすがに「サン・ニコラ聖堂」は別格だ。

 

 サン・ニコラは、サンタクロースのモデル。3世紀に小アジアで生まれ、司教を務めた。中東の生まれだから、我々がイメージする北欧系の色白サンタクロースとは違い、バーリのサン・ニコラのお顔は小麦色。カッコよく日焼けしていらっしゃる。

 

 こうして長く厳しい旅を続けて布教を試みた人は、みんな日焼けしてカッコいい。松尾芭蕉もたくさん旅をしたが、さぞかし日焼けしたことだろう。

 

 彼の旅は「ほぼ布教活動」だったらしい。旅の途中で逗留する町でも村でも、地方の俳人を集めて蕉風俳諧の普及に務めた。芭蕉の旅に曽良はじめ優秀な弟子がついていくのも、蕉風の普及が目的だったとも言われる。

(13連泊したアドリア海岸「Grande Arbergo della Nazioni」。その隣も教会だった)

 

 思えば21世紀の前期20年、今井サトイモ入道による日本全国行脚も、サトイモ風の普及が目的だったのかもしれない。毎年100回に及ぶ全国行脚が、今年のコロナ自粛の中、まもなく再開されようとしている。

 

 そんなに熱心だから、予備校業界のこの狭い世の中に「今井教」などという困ったコトバも発生する。その教義の「信者」を名乗る人も、少なからずいらっしゃるようである。しかし諸君、「今井教」などというものは、決して存在しないのだ。

 

 きっと「今井教」という言葉の発生自体、日々の授業に熱心すぎるワタクシに問題があるのだ。まず、このいかにもお坊さまみたいな外見がいけませんな。しかも20年昔には、かなり強烈な言葉をつかって若者たちに語りかけたから、前世紀末には「今井の授業に出ると、洗脳されるぜ」とまで恐れられた。

(バーリ、旧市街の昼下がり。今思い出しても強烈な暑さだった)

 

 別に「洗脳」などという強烈なことは一切していないので、「ボクは洗脳なんかしていません」と反論したら、その反論がいけなかったらしくて、またひどい反発を買った。

 

 激しく反発されて呆然としていたら、今井シンパのたくさんの生徒諸君から「先生、腹が立っても反論しちゃいけません」「何を言われても、相手にしちゃいけません」「黙ってれば、向こうもそのうち黙りますよ」とアドバイスされた。

 

 そこでそれに従ってじっと我慢して黙っていたら、「洗脳されるぜ」という声がますますボーボー燃え上がって、手がつけられなくなった。いやはや、いま思い返してもツラい日々だった。

 

 20年も昔のことだから、もうどうでもいいが、法然でも親鸞でも日蓮でも、「宗」とか「教」とか名前がついて「洗脳」などというウワサになったら、彼らでさえさぞかし厳しい人生を歩んだのだろうと、サトイモの目から熱い涙が溢れ出す。サン・ニコラだって、もちろん例外ではないのだ。

     (バーリ旧市街、ノルマンの城塞)

 

 サン・ニコラ聖堂の建設は1087年に開始。教皇ウルバヌス2世による第1次十字軍派遣の10年前だから、アドリア海の出口にあたる町のことだ、おそらく10年も前からローマ教皇庁の意向が働いていたのだろう。

 

 ウルバヌスの即位が1088年。サン・ニコラ聖堂建設はまさにそのちょうど1年前に始まっていたことになる。もし11世紀の時代に「週刊文春」があれば、どこかで政府筋と通じていた可能性のある巨大広告代理店の暗躍まで、スッパ抜いていたかもしれない。

(サン。ニコラ聖堂にて。聖遺物を積んだこの2頭の雄牛がここに立ち止まって、聖堂の建設が決まったという)

 

 アドリア海の一番奥には、チョーいけない巨大商社みたいな「アドリア海の女王」→ ヴェネツィア。アドリア海の出口には、バーリ。イタリア半島の反対側には、メッシーナ。この3点を巧みに押さえれば、十字軍遠征は確実に成功する。そういう戦略だ。

 

 伝説では、サン・ニコラの聖遺物を荷台に載せ、たくましい雄牛が2頭、バーリの旧市街を練り歩いた。やがて雄牛は、いま聖堂が存在するこの場所で立ち止まった。これを理由に、この場所に聖堂を建設することに決まった。おお、さすがに伝説だが、広告会社の既定路線に従った後がミエミエじゃないか。

(聖堂建設以来900年、雄牛2頭はここで人々を見守ってきた)

 

 その雄牛の石像が今も残っている。なんと11世紀、900年以上も前の石像である。風化のあとは否めないが、この誠実な顔つきを見たまえ。ワタクシはいつも変わらず、誠実な努力家が好き。ウシだってネコだって、秋田犬だって柴犬だって、誠実を貫くヤツが可愛いに決まっている。

 

 サン・ニコラ聖堂にはイタリア国外からもたくさんの巡礼者が訪れ、特にトルコやロシアやギリシャから参拝に訪れる人が多いんだそうな。確かに諸君、サンタクロースのモデルということになると、半年後のクリスマスがそろそろ楽しみになってくるじゃあーりませんか。

 

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