Fri 200522 賭け麻雀/まだ紺碧の空/古都レッチェ (アドリア海岸探検記6)3935回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 200522 賭け麻雀/まだ紺碧の空/古都レッチェ (アドリア海岸探検記6)3935回

 若い世代は急速にマージャン離れを起こし、21世紀の大学生で「マージャンで身を持ち崩した」などというヒトはほぼ皆無なんじゃないかと思う。

 

 そもそも「マージャンが出来るヒト」自体が希少価値だ。「マージャン出来ます」という新入社員が入ってくれば、課長はおろか部長レベルまでのオジサマたちが、「おお、いいね」と勇み立つぐらいである。

 

「カモっちゃおうぜ」「イイネェ」「でも新人をカモっちゃ可哀想ですよ」「そうだな、手加減するか」。午後5時ごろのオジサマたちは、タバコの煙がもうもうと上がる雀荘の夜を夢見て、「よーし、8時には雀荘に突入だ」「それまで最後のひと頑張り♡」と、書類片手に電話営業に励んだものである。

(コロナ自粛でも、遠い過去の自炊生活は生きる。目玉焼き2個にハンバーグにカレースパゲティ、今井自作の豪華夕食を見よ。特に目玉焼きは、「白身はカリカリ、黄身はとろーり」の絶品だ)

 

 大昔、私大文系の大学生なんてのは、勉強しに大学に来たのか、バイトのために生きてるのか、それとも雀荘生活が人生の目的なのか、よく分からないオカタも少なくなかった。学部の4年間ずっと雀荘に入り浸り、呼吸する空気には常に濃厚なタバコの煙が混じって、吐く息が紫色に見えるほどの男だっていた。

 

 通称「雀鬼」。当時、麻雀の鬼であることはむしろ誇りであって、昭和の昔は学生運動や若い世論のうねりも、マージャンのパイをかきまぜながら醸成されていった。夕食も夜食も雀荘、いやそれはまだ甘いので、朝食も雀荘、そのまま昼食も雀荘、そのまま再びマージャンで徹夜、いやはやマコトに不健康な青年時代を過ごした。

(5月のウォーキングは東大駒場一周が定番。閑散とした駒場を闊歩する日々である)

 

 もちろん諸君、別にこのワタクシがそうだったなどと言っているのではない。ワタクシの麻雀は、むしろ高校入学とともに幕を開け、高校卒業とともに幕を閉じた。数学と現代文と生物の時間にお弁当を貪りつつ、友人たちとトランプみたいな「紙マージャン」に励んだ。

 

 だから諸君、ワタクシの麻雀歴はマコトに健康に出来ていて、タバコとも縁がないし、酒を飲みながらの泥酔マージャンやら、夜明かし麻雀なんてのも一切記憶がない。

 

 そういうのはむしろ嫌悪の対象であって、だから学部時代にも雀荘に出入りしたことはないし、就職してから雀荘に連れて行かれた時なんかは、かたくなに仲間入りを拒絶、そのせいで変人扱いされた。「麻雀はキライですから」と発言すると、中年の先輩に「オマエはホントに早稲田を出てるのかよ?」と小突かれた。

(ランチぐらいは、自粛しなくていいはずだ。駒場東大前の名店「ルーシー」でキーマカレーを満喫する)

 

 つまり昭和の時代、私大文系の大学生というのは、図書館に閉じこもって読書に励んだり、文献を読み込んでキチンと論文を書いたり、そういうのは「変わったヤツ」「つまらんヤツ」の烙印を押され、「タバコを吸いまくって雀荘に入り浸り、授業なんかには滅多に顔を出さない」という先輩が一般的ロールモデル。いやはや、たいへんな時代だった。

 

 そういうふうだから、芸能界まで巻き込んだ2020年の検察庁法改正案事件が「賭けマージャン事案」でマコトに情けない決着を見ようとすると、世論一般がいきなりションボリ冷え込んじゃった。「萎えちゃった」というか「しおれちゃった」というか、いきなり元気がなくなった。

(駒場東大前「ルーシー」、ランチのキーマカレー。油断も緩みもなしに、サッサと食べて退散した。たいへんおいしゅーございました)

 

 つまり、ここまで世論を引っ張ってきた元気な中年のヒトビトも、「賭けマージャン」という話になると、少なくない割合で「スネに傷を持つ身」「たたけばホコリの出る身体」「オマエだってむかしは」「他人のことをツベコベ言える柄かよ」という立場に追い込まれるんじゃないか。

 

 むかしむかしの日本社会では、マージャンにもゴルフにも、場合によっては将棋とか囲碁にも、「賭け」の要素が忍び込んでいた。「忍び込む」なんてのは表現が甘いので、ほとんど「セットメニュー」というか、「賭けないマージャンがありますか?」と開き直った小説だってナンボでもあった。

 

 あくまで小説やマンガの世界であるが、「帯封のついた百万円の札束を雀卓(これでジャンタクと読む)に積み上げてマージャン」という描写やらウワサやらは、今も実社会に残っていて、その風潮が新聞社員にも新聞記者にも検事長にも、もしかしたら清廉潔白なはずのテレビ局の人々にも蔓延していたのかもしれない。

(井の頭線・駒場東大前の名店「カレーハウス ルーシー」。マスターも久しぶりの客にビックリした様子だった)

 

 ゴルフの世界だって、「賭け」の要素が入り込んでいた形跡がなくもない。1992年、映画「ミンボーの女」で伊丹十三が描いた民事暴力の世界では、伊東四朗の演ずる反社会勢力の実力者が、賭けゴルフをきっかけに高級ホテルを窮地に追い込んでいく。

 

「1本で、どうですか?」。映画の中での伊東四朗のセリフである。それに応じてしまったホテル幹部の面々が、それをタネに揺すられるのであるが、その「1本」が10万円なのか100万円なのか、とにかくゴルフ場のエントランスで「1本」というセリフが、それなりに横行していたことをうかがわせる場面だ。

  (2018年8月、古都レッチェのサンタクローチェ教会)

 

 しかし諸君、世の中はマコトに急速に展開しているのであって、30年前の常識は完全に非常識ないし犯罪行為となり、20年前とか10年前に「当たり前」「そのぐらいいいじゃん」と思われていたことも、たちまち非難や軽蔑の対象になる。

 

 ゆく川の流れは絶えずして、流れに浮かぶうたかたなんか、どんどん瞬時にハジけてしまう。祇園精舎の鐘の声には諸行無常の響きがあり、ナントカの花の色だって、盛者必衰のコトワリをあらわしちゃう。

 

 奢れる者も、勇き者も、みんなあっという間に滅びちゃって、いやはやマコトに虚しい人生、風の前のチリみたいなものでござる。

  (紺碧の空、気温40℃。古都レッチェのドゥオモ 1)

 

 例えばお風呂の中で懐かしいヘッセの小説を読んでいるとする。ヘッセは、昭和の少年たちの必読書。図書館には必ずヘッセ「車輪の下」が必読書として備えられていた。

 

 中学や高校の教育が純粋な青少年の精神をどれほど台無しにするものか。「車輪の下」の中でヘッセはマコトに真剣にそれを描いてみせる。しかしその同じヘッセが、「車輪の下」に負けない名作と称えられた「デーミアン」では、いやはやこりゃ困った、恐るべき差別用語をわずか数行の間に迷いもなく連発するのである。

 

 差別用語の対象とされるのは、アフリカ系欧米人・出自に関して不当な差別を受ける人・精神や肉体に重い疾患を抱える人々。その直後には、日本人および東洋人全般の肉体的特質や皮膚の色までが次々と対象になって、かつての青少年の必読図書を前に、余りの古臭さに思わず苦い歎息を禁じ得ない。

  (紺碧の空、気温40℃。古都レッチェのドゥオモ 2)

 

 思えば今井君なんかは、マコトにマコトに明るい大学生時代に恵まれた。雀荘に入り浸ることもナシ、「1本」などというオゾマシイ言葉も映画を見て初めて知ったし、小児ぜんそくを患ったせいでタバコの煙とも無縁、そのまま驚くほど健康な中年サトイモが完成した。

 

 今やNHKの朝ドラを彩る「紺碧の空」が、健康サトイモの完成に素晴らしい役割を担ってくれたことは言うまでもない。激しい東大コンプレックスに襲われた18歳の5月の若き今井君を救ってくれたのが、他でもない古関裕而作曲「紺碧の空」だった。

 

 この数日、朝のNHKは早稲田出身キャスターの「紺碧の空」ストーリーで沸き立っている。15歳の年の差婚を見事に成就した元チアの女子アナも、今井君以上に眉毛の太い元グリークラブ男子アナも、ともに「紺碧の空」でウルッとなっちゃって、ウクレレ演奏やらダンスやら、いろいろ披露して盛り上がっていらっしゃる。

 

 それもそのはず。5月下旬は、まさに早稲田と慶応が神宮球場で対決し、どちらも授業そっちのけ、徹夜で酒を痛飲して早慶戦に殺到する。野球ばかりかラグビーでも何でも、1点取るたびに慶応は「若き血」、早稲田は「紺碧の空」を熱唱。そんな大学で4年過ごせば、友人たちと肩を組んで同じ歌を200回は熱唱するのである。

 

 たった1点取っただけのことで歓喜あふれて200回、「若き血」「紺碧の空」を歌うのだ。そりゃほとんどパブロフの犬の条件反射の世界、紺碧の空を歌うだけで全早大生がウルッと涙ぐみ、たった4年じゃ足りなくなって、思わず5年も6年も紺碧の空を歌い続ける。

(空があんまり紺碧なので、とにかく屋内で涼みたい。古都レッチェのドゥオモにて)

 

 卒業後30年に40年、50年に70年、もう墓やら棺桶やらに半分足を突っ込んでもまだ「紺碧の空」、いやいやそんな甘いもんじゃなくて、墓場の地下のベテランになってもまだ「紺碧の空」に「若き血」「駿河台」、東京やら関西やらの名門私立大とは、そのような世界である。

 

 ついでに「墓場にもマージャン牌」という根性はさすがであるが、ただしそこには決して「賭け」の文字を持ち込んではならない。彼ら彼女らに比べれば今井君はまだまだ若者の部類であって、カラオケに若き血と紺碧の空を持ち込んでいるレベルで止まっている。

 

 それにしても朝ドラ、2020年の春&夏は実に巧みに仕込んであったのだ。5月には早慶戦に合わせて「紺碧の空」、7月には「オリンピックマーチ」、8月には「ああ栄冠は君に輝く」。巧妙にストーリーに食い込んだ歓喜のスケジュールは、全てコロナどんによって崩壊してしまった。

(空が余りに紺碧すぎて、レッチェの白い教会も焦げつきそうだ)

 

 しかし諸君、だからと言ってそれでガッカリしているわけにもいかないだろう。せっかくママたちのお腹をいためて生まれてきた我々だ。半世紀むかしの小田実センセではないが、「何でも見てやろう」の熱い気概がなくては、生まれてきた甲斐がない。

 

 2019年8月、前日のビールとスイカでたっぷり水分を補給した中年サトイモは、これほど暑い南イタリアでも恐れることなく、さらに激しく南下を続けることにした。

 

 バーリから特急フレッチャ・アルジェントで2時間ほど、イタリアのブーツのカカトのあたりに位置するのが、古都レッチェである。到着した午前9時の段階で、すでに気温は40℃近い。さすが観光客の皆様もこの暑さには躊躇したらしい。町はひっそり静まり返り、駅から徒歩15分のドゥオモにも人はまばらである。

(ほんのわずかの日陰さえ、思わず奪い合いになる暑さだった)

 

 しかし諸君、「何でも見てやろう」と勇ましく宣言した以上、何でも見てやる精神を軽々しくないがしろにはできない。流れ落ちる汗があまりに大量なので、ハンカチも手ぬぐいも何の役にも立たないが、かっかっか、今井君はこの暑さに備えて文明の利器「携帯扇風機」を持参した。

 

 思えばこの携帯ファンは、6月下旬恒例の「岩手県・超難関大学チャレンジ講座」のために買ったものである。新花巻の会場で開催されるこのイベントはすでに6年目を迎え、担当講師である今井はクーラーのない講師控え室に辟易。「今年こそは」という思いの中で、携帯ファンをネットで購入した。

 

 それがまさか、アドリア海岸の古都レッチェでサトイモが煮えるのを防いでくれるとは。人生まさに塞翁が馬、至る所に青山あり。温暖化が急速に進行する21世紀の地球の旅には、携帯ファンとミネラルウォーターとスイカ、この3要素だけは何が何でも忘れてはならない。

(Cin Cin Barという名の店で、レモンのかき氷に命を救われる。猛暑があるレベルを超えると、この今井でも「ビールよりかき氷」と呻きだすようである)

 

 そして諸君、もう1つ「思い切って、躊躇なく、かき氷」という標語も心に刻みつけてくれたまえ。遠慮なしの直射日光と気温40℃の南イタリア世界では、体内から失われる水分量はもはやタダゴトではない。「やべ♨︎」「やばくない?」と思った瞬間、キミは直ちにかき氷屋に入って、心身を一気に冷やさなければならない。

 

 古都レッチェで、煮えかけたサトイモが選択したのは「Cin Cin Bar」。チンチンバーのレモンかき氷がもしもなかったら、アントキノサトイモは、アドリア海の猛烈に濃厚な水蒸気の中で、一皿の芋の煮っころがしに変じていただろうと、今もなお確信するのである。

 

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