Sun 200426 プルーストごっこ/写真のみロスキレ探訪(デンマーク紀行10)3928回
姉ネコのニャゴロワが天国に旅立ったのは、昨年10月16日の夕刻である。「ネコ属にもコロナウィルスがうつるんじゃないか」という情報が流れるたびに、「あれが半年前で、むしろよかったのかもしれないな」とボンヤリ考える。
動物病院の待合室は、どこもかしこも「3密」そのものである。妹ネコのなでしこが最後までお世話になった病院は世田谷区、ニャゴロワがお世話になったのは新宿区であるが、どちらもネコが「密」である以上に飼い主の人間が「密」であって、状況がこんなふうになれば、「来ないでください」と言われかねない。
ワタクシはもうすっかりションボリしょげかえってしまって、とてもブログ更新に励む気力がない。「せめて4000回達成までは頑張ろう」「あと70回ちょっとで4000回じゃないか」と自らに言い聞かせるのだが、純白とシマシマ、あの2匹のネコがいないオウチで茫然とするばかりである。
(自粛生活に疲労困憊、4月26日午前4時のサトイモ。床屋さんにも2ヶ月ご無沙汰して、すっかり洞窟の遭難者状態だ)
だって諸君、自治体の首長たちが「こっちに来ないでください」と絶叫する事態である。状況がどんなに厳しくても、「ヨソの県にはお互い出かけないように」に留めておくべきなのではないか。「こっち来んなよ!!」とお互いがお互いに冷酷に言い放つ日々に、人はどのぐらい耐えられるのか。
メディアはもはや、罵り合いの様相が濃い。誰が何を言っても、強烈に叱られる。「苦言」「疑問」「チクリ」は、やがて「バッサリ」「一蹴」「痛烈批判」「激怒」に変わり、誰が何を言っても「炎上」ないし「大炎上」であって、「県外ナンバーのクルマに10円パンチ」なんてのまで誘発する。
「バラの花を全部切っちゃいました」「ユリの花を残らず切ってしまいました」というニュースも入る。「そうしないと人が集まっちゃうから」と言われれば確かにやむを得ないが、花があんまり可哀そうで、サトイモのお目目に熱い涙が溢れてくる。
(2019年8月2日、コペンハーゲンから30分のロスキレを訪問)
高校総体も、中止の可能性が高くなってきたそうな。すると夏の甲子園も、おそらくそういう方向性で議論が進んでしまう。最終学年、やっとのことでレギュラーの座を掴んだのに、1試合も出来ずに卒業していくことになる。その悔しさと無念、想像するに余りある。
一方、ちらほら言われるようになった「9月新学期」論、こうなると思わず賛成したくなるのも無理はない。自粛が5月末までに変わり、やがて「やっぱり6月まで」という方向で長引けば、その先には7月&8月の長い夏休みの季節が待っている。
(世界遺産、ロスキレ大聖堂。1170年代に建造 1)
この際、「学校は9月スタート」ということになれば、19世紀・明治に始まった日本の学制に大変革が訪れる。明治日本に登場して100年、すでに世界遺産に登録されていいほど古色蒼然とした「4月新学期」という珍しい制度が、根本的に変わる可能性がある。
9月スタートなら、まさに世界基準じゃないか。留学を本格化するにも、海外の大学院に進むにも、いや学部入学の段階から海外を目指すにも、今までの障害が一気に解消できる。
「ピンチをチャンスに」という言葉とつかうには、まだ事態があまりに深刻すぎるけれども、世論は盛り上がるかもしれない。言葉尻を捉えて罵り合いに終始している人々を尻目に、古色蒼然とした日本独特の学制を、一気に改革の方向に進めたらどうなんだ?
(世界遺産、ロスキレ大聖堂。1170年代に建造 2)
もしそうなれば、大学入試も高校入試も6月。高校総体は1月か2月に開催することになる。甲子園も「冬の甲子園」として春と夏を一本化、日程に余裕ができて、「アメリカなら虐待」とまで言われた投手の連投も可能になる。「球数制限」などという不公平な制度も導入しないで済む。
20世紀から21世紀にかけて、高校生のスポーツにまでメディアの商業主義がはびこりすぎて、実態を考えれば眉をひそめざるを得ない。サッカーは日テレ、ラグビーはTBS、バレーはフジ系。セミプロ化した高校生や留学生ばかりが大活躍する現状には、改善の余地があるだろう。
(さすがデンマーク、8月にアジサイが真っ盛りだった)
「古色蒼然」という言葉がそれ以上にふさわしいのは、「75年前の戦勝国によって定められた国際秩序」である。だって諸君、ホントに75年前のこと。始まったのは80年も前のことだ。
戦争当事者は、ジーチャンどころかヒージーチャンの世代。以来、しばしば制度が変更され、組み替えられ、バージョンアップされて来たとはいえ、その金属疲労には目を瞑れない。
75年前の戦勝国が、営々と反省の努力を続けて来た国々に対して「自国の分をわきまえよ」と発言するに至っては、制度の根本的見直しを考える時が来ていると感じざるを得ない。これまた十分に世界文化遺産の対象になりうる古すぎる国際制度と言っていい。
だって諸君、昨日も世界で6000人以上の命が奪われた。ここまで「累計20万人の死者」という大災禍を、情報隠蔽から引き起こした国の責任は、単に「巨額の賠償金を請求」というカネの話で済まされるようなことではない。むしろ国際機構内での役割変更を、国際世論として論ずるべき時だと感じる。
(世界遺産、ロスキレ大聖堂。1170年代に建造 3)
ま、無知蒙昧・無智無学・無知愚昧な愚者の感情的な妄論だ。そりゃ、ignorantであり、uneducatedであり、unenlightenedだ。相手にする人も皆無だろう。しかし1日6000人とは、911のNYで犠牲になった人の2倍より多い。それほどの犠牲者が、来る日も来る日も来世に旅立っている。
途上国での蔓延が進めば、犠牲者の数はヒト桁増えるのを免れない。その時、情報隠蔽の当事国が75年前の戦勝を理由に、地球安全保障の中枢の席を占拠しつづける制度の硬直を放置していいのか。国際世論はそれを平然とカネだけの問題に帰して、22世紀や23世紀の子孫に禍根を残すのか。
というか、そんな困難な道のりを論ずるより、9ヶ月後の春節、1年半後や2年半後の春節に、中国人観光客の流入をOKするのかどうか、その程度のことでもいい。日本はどうなのか、欧米はどうするか、東南アジアはどう考えるか。
国民感情としては、「来ないでくれ」「来ないでください」という、今の自治体首長の絶叫に全てが示されるのではないか。さらに10年スパン、20年スパンではどうか。そのころ40歳代を迎える若い諸君には、この沈黙の日々に、その辺のことをしっかり考えておくべきだと考えるのである。
(聖ジョセフ学校。雰囲気のいい学校だった)
付言すれば、このわずか3ヶ月を経て、明らかに行きすぎた形にせよ、世界は静寂を取り戻したのである。3ヶ月前まで、世界は言わば激しいシャックリの発作に襲われていた。あれから3ヶ月、世界はギュッと息を止めて、しゃっくりが収まるのをジッと耐えているのかもしれない。
しゃっくりとは、もちろん「不都合な真実」のことであり、グレタ嬢が「How dare you?」と激烈な怒りを表現した経済活動の加熱であり、オーバーツーリズムであった。
ヴェネツィアでは、地元民の生活がすでに成り立たない混雑と混沌に見舞われていた。運河を進む船は、中国人の団体観光客で常に超満員。3隻も4隻もむなしく見送って、それでも乗れない混乱に業を煮やした地元の人々は、10年も前から「来ないでくれ」を叫び始めていた。
その状況は、パリでも京都でも、バルセロナでも大阪でも、シドニーでもミラノでも、要するに世界中で共通の事象。しかし今や、ヴェネツィアの水は美しく澄み、京都の竹林ではタケノコが芽を出す土の音さえ聞こえる静寂が復活し、福岡の空気から(黄砂は別として)PM2.5が消えた。
(ロスキレはフィヨルドの町。11世紀にはヴァイキングが活躍した)
神がなさることだ。ここまで18万人が犠牲になる人間世界の悲劇や嘆きを、神は考慮なさらない。しかし地球が激しいしゃっくりの発作に悩まされていること、その資格のない者がリーダーの席を占拠していること、結果として人類がはるかに大きい絶滅の危機にさらされていることを、おそらく神は感知なさったのである。
神の与える試練について、愚痴を言うのは人間の分を逸脱している。そう考えて、悲しい沈黙の春を深く沈黙して過ごす以外に道はない。無知蒙昧の徒としては、この際「そろそろ薬師如来サマが、左手に万能の薬ツボを乗っけて、その仏々しい姿を現さないかな?」と甘く期待しながら、天を仰ぐしかない。
薬師如来の左手のツボに、アビガンが入っているか、まだ見ぬワクチンが入っているか、それはまだ誰にも分からない。オカネのある人は、せめてそのオカネで製薬会社の株でも買って、もしも儲かったらその儲けをどんどん貧しい人のための寄付に回したまえ。
(ヴァイキング博物館周辺で、1000年前のヴァイキング船の復元作業が今も続いている)
オカネのない我々は、自宅にじっと留まって、「デカメロンごっこ」ないし「カンタベリー物語ごっこ」でもやってみるしかない。もっとも、ボッカッチョのデカメロンには少なからず猥雑なオハナシも含まれるから、清純で純潔な精神の今井里芋左衛門としては、むしろ「プルーストごっこ」を推奨する。
だって、読書は雑念に遮られて進まず、せっかくのベルリオーズは「緊急事態宣言」の防災無線にかき消され(渋谷区では英語バージョンも入る)、オンラインの映画や芝居にも集中できずに、4月はもう8割が過ぎ去った。
(ロスキレ大聖堂前のカフェにて。午後3時でこの閑散ぶり、まもなく閉店になっちゃった 1)
すると諸君、ワタクシは「一人プルースト」を楽しむのである。プルーストの超大作のきっかけは、ご存知「マドレーヌと紅茶」であるが、彼に類似した「無意志的記憶」「眠りと覚醒の間の夢想状態」を展開するには、新たまねぎステーキでも、カレースパゲッティでも、白身カリカリ目玉焼きでも同じことである。
「失われた時を求めて」は、日本語訳で400万字、15年をかけて完成。おお、その点だけなら今井君のブログも負けていない。ここまで13年かけて、単純計算だが4000万字を書き終えた。プルーストの10倍も書いちゃった。
(ロスキレ大聖堂前のカフェにて。午後3時でこの閑散ぶり、まもなく閉店になっちゃった 2)
そういうツマラン男だから、今井の記憶力は強烈である。今でも例えば小4の頃のクラス全員の名前と顔が一致するばかりか、一人一人の声やクセや特技や表情まで思い出せる。中2のクラスで、内気な今井君が一度も話しかけられなかった同級生の、日々の表情や発言まで詳細に記憶に残っている。
そういうのは、高2のクラスでも、大学1年の語学クラスの人々でも一緒、駿台予備校お茶の水本部校舎の講師室で一緒だった講師メンバーの、席順もお弁当の中身も、お弁当の中の里芋の煮っころがしを口に放り込む姿も、みんな思い出せる。
それはそのまま駿台福岡・河合塾池袋・代ゼミ代々木本部校まで同じことだから、正直言って諸君、「プルーストごっこ」が始まった途端、4日間でも5日間でも、テーブルに肘をついて赤ワインなり日本酒なりをちびちびやりながら、ごっこ遊びはとどまるところをしらない。
(コペンハーゲン到着以来の高熱に悩んでいたが、8月2日、そろそろ復活して、冷たいビアが旨かった。ロスキレ、ヴァイキング博物館脇のカフェにて)
こうしてブログ更新はますます頻度が下がり、5日に1回どころか1週間に1回、このペースだと4000回達成はいつのことになるのか見当もつかない。一度は「2020年6月26日、ワタクシの誕生日にしようかな」と考えたが、そのチャンスはとっくに「come & gone」ということになった。
まあ許してくれたまえ。当分のあいだ、沈黙の自粛は続くのである。万が一「9月新学期」なんてのが実現するとすれば、まだまだ「来ないでくれ」が続いてしまう。ならば諸君、諸君も「来し方行く末」を日々思い続けて、プルーストごっこを満喫してもらいたい。それは必ず将来のためにプラスに働くはずである。
1E(Cd) Akiko Suwanai:DVOŘÁK VIOLIN CONCERTO & SARASATE
4D(DMv) JOHN WICK
7D(DMv) JOHN WICK CHAPTER 2
17A(α) A TREASURY OF WORLD LITERATURE 36:RILKE:中央公論社
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