Tue 200407 日本史を目撃/トマス・マンの故郷へ(デンマーク紀行6)3924回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 200407 日本史を目撃/トマス・マンの故郷へ(デンマーク紀行6)3924回

 とうとう出てしまったと言うか、我々はあまりに生々しい歴史の目撃者となってしまった。昭和1612月8日の「戦闘状態に入れり」、昭和20年8月15日の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」、20世紀のこの2日に匹敵するほどのたいへんな1日を経験したことになるかもしれない。

 

 政治向きのことをイチ予備校講師が書いても、一顧だにされない可能性が高いし、書いても書いても1日1日どんどん陳腐化して虚しいことこの上ないが、とにかく今から30年後、間違いなく日本史の教科書の1ページを占める大事な1日だ。受験生や大学生の世代もこの経験をよーく噛みしめ、しっかり記憶にとどめるべきだ。

(2019年7月、リューベック。聖ペトリ教会の鐘楼からホルステン門と塩倉庫を望む)

 

 いま高2生の諸君は、30年後には46歳か47歳の立派なオジサマ&オバサマだ。父として母として、息子や娘にこの日本史の1ページを、直接体験した者として語らなければならない。

 

 もちろん今から30年後に「日本史」という科目が残っていればの話だが、たとえ日本史は消えても「世界史」は残る。その頃16歳になった息子&娘に「ママは実際にあの日を体験したのよ」と、遠い目で語り始める瞬間を思いながら、これからの1ヶ月を過ごさなければいけない。

 

 昭和40年代生まれの人にとっての「30年前」は、226事件から敗戦までの昭和10年代。1980年代生まれの人にとっての30年前は、朝鮮戦争から高度成長開始までの1950年代。30年とは、そのぐらいのインパクトをもった長い時間なのである。

      (リューベック、ホルステン門 1)

 

 しかし諸君、マスメディアを通じて聞こえてくる世間の対応は、「軽薄」の感を免れない。批判派はこぞって「遅きに失した」「遅すぎ」「遅っ!!」の一点張りであるが、その根拠といえば「欧米では」「中国では」「韓国では」の「ではでは攻撃」、海外が羨ましい出羽守だらけで、要するに「隣の芝生は青い」「他人の花は赤い」の発想にすぎない。

 

 しかもその「では」「では」「では」の出羽守、キチンと海外の様子を報道しているとは思えない。「パリでは」と言う割に、画面はエッフェル塔ばかり。「ミラノでは」と聞いて画面に注目すると、この1ヶ月延々と、閑散としたドゥオモ付近の映像ばかりである。

 

 状況はみんなおんなじであって、「NYでは」ならタイムズスクエア、「ベルギーでは」ならブリュッセルのグランプラス、「スペインでは」も、そのセリフに対応するのはマドリードのプラサ・マッジョーレかプラド美術館付近。超有名観光地以外の映像を、画面に映した民放テレビ局が存在しただろうか。

 

 なぜパリ郊外やブリュッセル郊外の移民密集地区にカメラが入らない? ミラノ近郊やベルリン郊外に密集して生活する貧しい移民の状況を報道しない? NYだって、どうしてブルックリンやハーレムやブロンクスに取材に行かないんだ? 有名観光地ばかり映し出して、それで報道の名に値するんだろうか。

      (リューベック、ホルステン門 2)

 

 首相の記者会見についても、メディアの記者の皆様の「質問」に苦笑せざるを得ない。つい1ヶ月前、「質問打ち切りに記者席から怒号も」という報道さえあった割には、本日の質問の惨状には呆れ返るばかりだった。

 

 ワタクシは日頃から「質問の難しさ」について、この場で語り続けている。良質な質問は至難のワザであって、「いい仕事してますね♡」という感嘆は素晴らしいことだが、「いい質問ですねぇ♡」という決まり文句を連発して、安易な質問者を安易におだてあげるのは大キライだ。

 

 1ヶ月前、「小中高の一斉休校」を政府が要請した時に、メディアは「あまりにも急すぎる」「過剰反応だ」「今すぐ休校はヤメるべき」と、目いっぱい批判したのではなかったか。

 

 2ヶ月半前、中国からの春節観光客が大量流入し続けたことについても、メディアは「中国人観光客を止めたら、観光業に大打撃になるだけだ」と報じていたのではなかったか。

(リューベックのライオンさんは気持ちよくお昼寝中。コロナに感染しちゃったNYのトラさんが可哀想でならない)

 

 そういうメディアの「怒号」に留意し、今夜の会見では超多忙でヘトヘトのはずの専門家に1人同席していただいて、記者の皆様の質問を受け付けた。

 

 ところが諸君、せっかくスーパー専門家がいらっしゃるのに、最後まで質問は首相に集中、専門家が対応した1件の質問だって、首相から「そのことについては尾身先生から…」と促されたものだった。

 

 一番ガッカリしたのは「中日新聞の◯◯と申します」と前置きして質問に立ったオカタ。西日本新聞・北海道新聞・河北新報と並ぶ大ブロック紙を代表しての質問と思われる。

 

 ならばなぜ「名古屋とばし」「愛知とばし」について聞かなかったんだ? 「怒号」をあげてまでしなければならない質問だとするなら、

「名古屋を中心とする『中京圏』について、緊急事態の追加発動はお考えですか」

「札幌圏・仙台圏・広島圏など地方中核都市ついて、追加発動を検討するとしたら、いつ、どういう形になりますか」

などの質問を最優先すべきではなかったのか。

 

 京都が抜けている件についても質問が必要だが、もっとハッキリ「なぜ都道府県単位の発令にこだわったのか?」「京都府は京都市のみ、岐阜県も岐阜市のみ、広島県も広島市のみ、そういう柔軟かつ臨機応変の対応は、今後もお考えにならないのか?」と質問すべきではなかったか。

      (リューベック、ホルステン門 3)

 

「県境に近い街」。これはおそらく明日以降、ワイドショーの話題に上がる項目である。群馬県高崎、茨城県土浦や取手、山口県下関、佐賀県の佐賀や唐津はどうするのか。逆に、大阪府の高槻や茨木の人が京都に向かい、久留米や大牟田の人が熊本に向かいはしないか。

 

 タレントさんやら落語家さんやら元議員さんやらが、朝昼のワイドショーのヒナ壇を占拠して「どこがどうダメなのか、もっとハッキリ線引きしてもらわないと困りますよね」「遅っ」、「欧米では」「北欧では」「他の先進国では」の出羽&出羽&出羽守が大量に出現して、甲高い声に八の字マユで視聴者を飽き飽きさせるのが関の山だ。

      (リューベック、聖ペトリ教会)

 

 というわけで諸君、政治向きの発言はできるだけしない方針でいながら、ついつい熱くなってしまったサトイモなのであるが、世界史は無理としても、日本史の教科書には今後100年確実に掲載されるはずのたいへんな1日だった。2020年4月7日の記録を意地でも書いておきたかった。

 

 これだけ深刻な1日なのに、掲載した写真のほうはマコトに暢気なデンマーク紀行を続けるしかない。だってもう他に写真がないのだ。昨日はどうしても銀行めぐりをしなければならない事情があって、自宅から新宿駅前まで徒歩で往復90分のウォーキングをする羽目になったが、そこで掲載すべき写真なんか、不謹慎で撮影できるはずもない。

(ハーゲル。ドイツのヘアケアの中心は、何と「ハーゲル」だ。少なからず心配じゃないか)

 

 2019年7月30日、コペンハーゲンに滞在しているはずなのにあえて船でバルト海をわたり、ドイツのハンザ同盟都市リューベックを訪ねた顛末をここに記しておく。7月28日の午後遅く、デンマークからの列車はハンブルグ中央駅に到着した。

 

 ハンブルグは5年ぶりである。大阪・シカゴ・上海の姉妹都市であって、人口200万弱。5年前のクリスマスにベルリンに10日ほど滞在し、そのついでにハンブルグとブレーメンに小旅行をした。だから駅から市庁舎までの街並みはすでにお馴染みである。

(リューベック、ホルステン門と並ぶ「塩倉庫」。ハンザ同盟期、リューベックはニシンの塩漬けを売りまくった)

 

 しかしあの時はクリスマス真っただ中。クリスマス市に粉雪が舞って、ホットワインの強いカホリで満たされていた。今回は真逆の7月下旬、空っぽの老舗ビアホールでぬるいビールに成型肉を貪っても、華やかさはちっとも感じない。

 

 市庁舎前も閑散としている。予約したウェスティンホテルまで散策して、晩飯もホテル内のラウンジで済ませることにした。そのラウンジも大混雑、いやはやつまらない夕暮れだった。たとえ寒さの強烈な北ドイツであっても、もし旅をするなら冬のほうがオススメなんじゃないか。

(リューベック・聖ペトリ教会からマルクト広場を望む。市庁舎の黒レンガが印象深い)

 

 翌日は朝から1時間弱、列車に揺られてリューベックを目指した。何と言ってもこの町は、トマス・マンの出身地であって、「トニオ・クレーゲル」でも「ブッデンブローク家の人々」でも、町の様子は詳細に描かれている。

 

 中でもどっしり落ち着いたホルステン門の偉容は、一度眺めたらもう忘れることはできない。「トニオ・クレーゲル」の冒頭近く、

「トニオはどっしりとした古い町の門をくぐり抜けて… 両親の家の方に向かった」とある。

「そのころ、トニオの心は生きていた」

「そこには憧憬があり、憂鬱な嫉妬とわずかな軽侮と、胸いっぱいの清らかな幸福が宿っていた」と続くのである。

(1963年、中央公論社刊。懐かしいトマス・マン集に掲載されたホルステン門)

 

 斎藤茂吉の次男・北杜夫は、青年時代トニオの大ファンであって、医師を目指していた青年時代に自らのペンネームを「北杜二夫」としたほどだ。「杜仁夫」だったかもしれない。とにかくこれで「トニオ」と読むことにした。いやはや、激しくリューベックに憧れていらっしゃった。

 

 同じ医師を目指していても、こんな危機の真っただ中で「40人で会食、約20名感染」の慶応医学部病院やら、「116名が会食や国内旅行」の京都大病院研修医の諸君とは、精神的に天と地の違いを感じる。特に慶応義塾の「飲酒を含む会食」「その後バーへ」「さらにカラオケに」って、要するにド派手な大宴会をやってのけたんじゃないか。

 

 やっぱり諸君、中&高時代から世界文学をちゃんと読まなきゃいかん。現代文の授業でも文学を排除せず、「論理国語」「言語文化」などというおかしな名称は、直ちにヤメたほうがいい。

(今でもリューベックのハンバーガーの定番は酢漬けニシン。いやはや酸っぱそうだ)

 

 そのリューベックは、日本の川崎やベルゲン(ノルウェー)の姉妹都市。特にベルゲンとの付き合いは長く、12世紀から13世紀の全盛期には、ベルゲンを拠点にニシンの塩漬けをヨーロッパ各地に販売。ハンザ同盟の盟主になった。

 

 売ったものが何となく地味すぎる気もするが、塩漬けニシンのおかげで「ハンザ同盟の女王」「バルト海の女王」とさえ呼ばれた。

 

「ニシンで女王」となると、何となく魚臭い女王であり、おそらくニシンには酢もたっぷり使うから、ひどく酸っぱい女王でもあったのだろうが、中世の真っただ中なんだから、酸っぱくても魚臭くても仕方ないじゃないか。

 

 ホルステン門を抜けると、トラヴェ川沿いに赤レンガの建物が立ち並んでいる。これが「塩倉庫」。ハンザ同盟隆盛の時代には、塩も富&権力と結びつく重要な資源だった。ドイツの内陸から運ばれた塩はこの倉庫で保管され、バルト海の大量のニシンが塩漬けにされた。京都にサバを運んだ若狭の人々と同じことである。

(ドイツ語で「きょうはご気分、悪いですか? それなら当店のケーキをお試しください」。確かに酢漬けニシンのハンバーガーじゃ、こんな顔になって当然だ。手書きの「Wirkt sofort!」は「すぐ効きます」。クスリのCMっぽくしたわけですな)

 

 ホルステン門の背後に立つのが「聖ペトリ教会」。ありがたいことに鐘楼にはエレベーターがあって、最上階の展望フロアまで昇れば、ホルステン門やリューベックの中心街を上空から360°眺められる。

 

 そこには黒レンガの印象的な市庁舎やら、中世から続く船員組合の超老舗レストランなんかもあるのだが、今夜も長く書きすぎた。続きはまた次回ということにしたい。

 

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