Wed 200318  論理的思考力/問題を立てる力(南仏カーニバル紀行14 最終回)3919回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 200318  論理的思考力/問題を立てる力(南仏カーニバル紀行14 最終回)3919回

 つまり、カンタンに言えば(スミマセン、昨日の続きです)

「上手に質問できるような生徒には、もともと塾も予備校も必要ないはずだ」

「巧みな質問で講師から素晴らしい答えを引き出せる能力があれば、予備校なんかに通わなくても、東大でも京大でも医学部でも、サッサと合格できるはずだ」

ということである。

 

 ごく一般的な生徒の質問は「先生、さっきの授業よく分からなかったんで、もう1度わかりやすく教えてください」である。だから塾としても、結局むかしながらの「わかるまで教えます」をチラシにうたうしかない。

 

「面倒見第一主義」というキャッチコピーで、要するに講師が生徒にベタベタ深夜まで、生徒は自分が何が分からないかも分からず、講師も生徒が何が分からなくてここに残っているのか分からない、首都圏も関西圏も、実はそういうありさまで塾の灯りが深夜まで消えないのである。

(2019年2月27日。カーニバル中のニースで海の幸盛り合わせを貪る)

 

 今や大学も同じことだ。学生がどんなに頭を傾げてみせても、教授としては「君はいったい何が分からないんだね?」と途方に暮れる状況。しかし学生諸君は、小中学生の頃から「分からないことをそのままにしておいちゃいけないよ」「不明な点はどんどん質問しなさい」と繰り返し教えられてきたから、滅多なことでは質問を撤回してくれない。

 

 そこに発生し蓄積するイライラの総量は、たいへんなものになる。教える方は「何が分からないんだ?」と苛立ち、質問した学生は「質問するのはいいことなのに、どうして先生は褒めてくれないんだ」と、双方の苛立ちは頂点に達する。

 

 医者だってそうだ。患者への質問は、単なる「どうしました?」ではいけないはずである。巧みに症状を聞き出す話術がなければ、患者の症状が正確に把握できない。仕方なくPCをカタカタやるだけじゃ、患者のストレスが増大するばかりだ。

 

 前回も力説した通り、「質問する」というのは常に高等技術を要するのであるが、その技能を教えるべき義務教育の段階で、そんなことはちっとも教わっていない。効果的な質問が飛び交うのが教育現場の理想なのに、文部行政サイドやマスメディアは、ひたすら「論理的思考力が必要だ」の一点張りなのだ。

(2019年2月27日。カーニバル真っ最中のニースで、平凡なスパゲッティ・ボンゴレを貪る)

 

 その「論理的」「思考力」にしても、定義は甚だ曖昧なのである。「論理的」とはどのようなことか。「思考力」の定義は何か。その定義を曖昧にしたままでは、そんな掛け声には何の意味もない。

 

 論理的って、なあに? 「理屈っぽく」ってこと? 「キチンと論理学の方法論に従って」ということ? 「常に数式によって」というレベル? それとも「三段論法で」「根拠を示しなさい」「まず主張を示して、その上で具体例を示せ」という程度? 「予想される反論を例示して、それに再反論する」みたいな論法のこと?

 

 そこを示さないで「論理的思考力が大切だ!!」と連呼しても、あまり意味はない。みんな「長いものに巻かれろ!!」ということになり、ひどい場合には「うちの新聞のコラムを毎日書き写していれば論理的思考力が身につきます」などということになって、おそるべし、「天声人語書き写しノート」を販売したりする。

 

 他者の思考をまるまる無批判に書き写して身につく思考力がどんな種類のものか、コドモが考えても分かりそうなものである。付和雷同型・大政翼賛型の思考力なんかを身につけて、そういう学生が溢れかえった大学のキャンパスを考えると、今井なんかは恐ろしくて脳の内部がドロドロ溶けそうになる。

  (昨年春のニースにて。エビ君たちも幸せそうだった)

 

 付和雷同&大政翼賛型の思考を凝集したのが、テレビのグルメ番組であって、今井がどれほどグルメ番組や食レポを嫌悪するかは、普段の授業でも力説している通りである。「空気を読め」なんてのも同じこと。空気は読んでも、決してそれに流されてはならないはずだ。

 

 しかし何しろ「コラムを無批判に書き写せ」という新聞が「リベラル」を名乗っている時代だから、食レポの「やわらかーい♡」「あまーい♡」「とけちゃった♡」「クセもありませんね!!」という連呼に、ひな壇の誰一人として反対意見は口にできない。みんなお目目をギョロ目にして大賛成。そこに「論理的思考」なんか入り込む余地はない。

 

 例えばそのひな壇で、誰かシロートに該当するゲストが「ホントに旨いですか?」「ワタクシはという理由でマズイと考えます」「旨いという根拠を論理的に示してください」みたいな質問をしたら、どれほど痛快だろう。実はイマイは、自身そういう存在として登場したくて、日々ウズウズしているのである。

        (2019年、モナコ風景)

 

 学校教育にしてもそうだ。なぜか最近「型破りな校長先生」が脚光を浴びている。「定期テストもヤメました、宿題を出すのもヤメました、教師は叱らず、教室の垣根もありません」。そういうことをすると、マスメディアがみんな一斉に飛びついて大政翼賛的に付和雷同、批判は許されない雰囲気を作る。

 

 その際の決まり文句が、「生徒たちはみんな笑顔になりました」「どんどん笑顔が増えてます」という類い。ワタクシはそういう記事に強烈な嫌悪を感じるのである。

 

「みんな笑顔に」って、ホントなんですか?「みんな」とは、100%? それとも8割? 6割? その場合、残った2割なり4割なりを「例外」として切り捨てて、それで「花まる先生」と手放しで絶賛ないし自画自賛していていいんですか。

 

「笑顔」の定義もまたマコトに曖昧なのである。笑顔には「にっこり」「ニコニコ」もあるだろうが、「ニヤニヤ」や「ニタニタ」、さらには「デレデレ」「うっしっし」も含まれる。宿題も定期テストもなくなり、先生が叱ることもなくなれば、さぞかし「でれでれ」「うっしっし」が増えただろうが、その点は誰も問題にしようとしないのだ。

 

 こういう人たちが「論理的思考」を口にし、だから「テクニックで解けたセンター試験はダメだった」と批判し、返す刀で「うちの新聞のコラムを無批判に書き写せばいいんです」と言い放ち、塾は一方通行だからダメだ」「質問もできないんじゃ意味がない」とおっしゃるのである。

  (2019年2月、ニース「ホテル・ウェストエンド」)

 

 すでにこの1年、繰り返し繰り返し述べてきたことであるが、初等教育から高校を含む中等教育までは、過去を題材に最高のエンターテインメントとしての時間割を作成し、数学や体育や音楽や国語、理科や社会科や美術や外国語、ベストのプログラムで「勉強ってスゲー面白いな」と、生徒たちを夢中にさせることが第一義だ。

 

 だから設問や質問はベテランの教師が巧みに作成し、定期テストの設問や宿題の質問に生徒が夢中になって答えているうちに、知らず知らずに3合目へ、4合目へ、5合目へ、気づけばかなりの高みまで登ってくる。「この問題を頑張って解いてごらん、それでまた10メートル前進だ」という感覚である。

 

 大学の学部教育では題材を過去から近現代に進め、近現代を材料にして質問の作り方、設問の作り方を学ぶ。学部ではそれを「問題の立て方」と呼ぶ。ゼミで教授に「君は問題の立て方が間違っているんだ」と言われたら、教授が真剣に相手にしてくれている証拠なのである。

   (2019年2月、ニース「ホテル・ネグレスコ」)

 

 やっと「卒業論文」というところまできて、論文のテーマにOKもらった時、初めて「問題の立て方」を指導教官に認めてもらったことになる。「はいOK、とうとう君も、自分の問題を自分で発見できるようになりましたね」というわけである。

 

 大学院に進めば、そこはあくまで「自分で勉強するところ」であって、自ら立てた問題に対し、自ら答えを探して四苦八苦するのである。指導教官は答えを教えてくれるのではなく、院生自身が正しく問題を立て、その問題を解決しようと七転八倒するのを、ニコニコ笑って見ているのでなければならない。

 

 それは社会人の場合も同じであって、上司は答えを教えない。というか、部下が自ら問題を立て、その問題に四苦八苦しながら成長するのを見守る以外ないのである。

 

 だって諸君、その上司もまた自ら問題を立て、その問題に答えようと七転八倒を繰り返しているのだ。ついでに言えば、その七転八倒の中には、「部下をどう指導し、部下の問題の立て方を適正化するか」も含まれている。

(2019年2月27日ニース、カーニバルのパレードに詰め掛けた人々。ゲートを通るのに30分かかった)

 

 以上のようなことを考えれば、「質問する」「問題を発見する」という能力がどれほど獲得困難なものか分かるはずだ。安易に「どんどん質問に行きなさい」「分からないところはどんどん質問にこいよ」などとは発言できないはずである。

 

 だから諸君、いま放送中のNHK「みんなのうた」はマコトに秀逸にその辺の事情を示していると思う。タイトルは「答えを出すのだ」。作詞&作曲は「さとうみほの」となっている。

 

 さっきお風呂から出てテレビをつけて、少なくとも大河ドラマのスーパー緑色の衣装よりは感動が深かった。

「問題を出してくれる人も、正解をくれる人ももういない」

「私が私に問題を出して、私が答えを出すんだ」

みんなのうた、決して侮れない存在だ。

  (モナコ「ホテル・メリディアン」最上階からの風景)

 

 だから諸君、塾だって「わかるまで教えます」ではダメなのだ。わかっても、できなければ、意味がない。わかっても、できなければ、間違いなく0点なのだ。正しくは「できるまで、指導します」。もしも突き放したほうができるようになるなら、むしろ突き放したほうがいい。

 

 リーディングでもリスニングでも、「わかるまで教える」などと甘いことを言っても、どうせ生徒はできるようにならない。むしろ突き放してしまうぐらいの胆力が講師になければ、「全訳すれば分かるけど、音声は全く聞き取れない」という悲劇を繰り返すだけなのだ。

 

 というわけで諸君、今回もまた我田引水でおしまいになるけれども、2019年から2020年にかけての今井の講座リニューアルは、単なる「わかる」よりも「できる」を心がけた。もちろん従来の今井最大の特長「イヤになるほどよく分かる」は健在。というか従来以上だ。

 

 しかしその特長の上にドカッと積み上げたのが「できる」「読めるようになる」「聞き取れるようになる」という要素。「分からないことは、一切ありませんよ」「プラス、できるようにしてあげますよ」という講座なら、「何でも質問にこい!!」と絶叫する熱血センセとは比較にならないはずだ。

(ニースのカーニバルで獲得したミモザの花を、モナコのお部屋に飾っておいた)

 

 ま、以上のようなわけで、今日の記事もまた長く書きすぎた。「旅行記復活」と言いながら、マコトに残念なことに「南仏カーニバル紀行」の最終回はほぼ写真の掲載だけに終わる。

 

 2019年2月27日、モナコ滞在の最終日は、朝早くホテルを出て、すっかり馴染みになった乗合エレベーターを経由、モナコ・モンテカルロ駅に向かった。目的地は昨日の記事にも掲載したサンポール・ド・ヴァンス。あの日当たりのいいレストランで、もう一度ランチを満喫してこようと考えた。

 

 しかしモナコからニースへの電車に揺られるうちに、「このままカーニュ・シュル・メールまで行ってバスに乗り換えるより、ニースからヴァンス行きのバスに乗ったほうが効率的だ」と考え、ニースで電車を降りた。

(ニース → フランクフルトのヒコーキから、残雪のアルプスを望む。ただし2019年 1)

 

 ところが、これが大失敗。この日のニースはカーニバルの開催に伴い、路線バスの運行が軒並みストップされて、ヴァンス行きのバスも臨時運休。ありゃりゃ、いったんニースで電車を降りたら、もうニースから一歩も出られない、そういう仕掛けになっていたのだった。

 

 ということは、致し方ない。要するにニースのトラップにかかって、ニースのカーニバルをもう一度眺めてモナコに戻るしかないのである。余り旨くないランチで我慢して、あまり面白くないカーニバルを眺めて、それを南仏カーニバル紀行の締めくくりにすることにした。

 

 ニースは世界で一番有名な観光地のうちの一つだから、そのぶんレストランは平凡な店が多い。選びに選んでようやく決めたお店も、総ガラス張りの外観が目立つだけで、注文したコキヤージュ盛り合わせもボンゴレのスパゲッティも、そのお味は「おやおや」と溜め息をつくしかなかった。

 

 こうして諸君、翌2月28日のワタクシは、ニース経由で東京に帰ることになった。モナコからニースまでは路線バス、ニースからアルプス上空を飛んでフランクフルト、フランクフルトからは例のスーパー狭いエコノミー席に11時間ひたすら耐えた。

(ニース → フランクフルトのヒコーキから、残雪のアルプスを望む。ただし2019年 2)

 

 しかしそれでも今となっては、「去年は良かったな」の嘆息しか出ない。今や全世界を対象に「渡航禁止」であり「渡航自粛」である。ニースのカーニバルで手にしたミモザの花をホテルの部屋に飾り、意気揚々と南フランスをのし歩いた昨年が、今では夢のようである。

 

 今はただ、コロナ退散を願うだけである。5月から6月にかけて予定していたルーマニア&ブルガリアの旅もキャンセル。3月から5月はひたすら大人しくお部屋に逼塞して、新しいチャンスを伺うしかない。

 

 いやむしろ、4月でも5月でもいい、今のコロナ禍が少しでも収まったら、日本全国いつでもどこでも今井を公開授業に呼んでくれないだろうか。今の逼塞状況では、ワタクシの熱いタマシーが我慢の限界を超えかねないのだ。

 

1E(Rc) Collegium AureumMOZARTEINE KLEINE NACHTMUSIK & SYMPHONY No.40

2E(Rc) RubinsteinTHE CHOPIN I LOVE

3E(Rc) Solti & ChicagoDEBUSSYLA MERPRÉLUDE A L’APRE MIDI D’UN FAUNE & RAVELBOLERO

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