Mon 200309 風雨のマラソン/コロナ鬱にうんざり/いわゆる速読の正体②  3916回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 200309 風雨のマラソン/コロナ鬱にうんざり/いわゆる速読の正体②  3916回

 日本中のテレビがみんなコロナ鬱になって、何でもかんでもコロナ&コロナで口をとんがらかし、「あれも政府が悪い」「これも政府が悪い」と際限なく文句ばかり言うのを聞いていて、日曜朝のワタクシはもうウンザリしてしまった。

 

 コメンテーターがこぞって口を爪楊枝なみに尖らしているけれども、あくまで結果論としてだが、武漢なみの「医療崩壊」はとりあえず免れている。これほど感染が拡大しても、まだ死者数を一桁に押しとどめているのは、病院が医療崩壊を起こすのを何とか食い止めたことによる。

 

 医療関係者が歯を食いしばって重症者の治療に奮闘し、死に至る最大の不幸を持ちこたえている。小中高の一斉休校は様々な混乱を呼んだが、しかし世の中は何とか落ち着いている。パニックはテレビと新聞の枠内に抑えられ、メディアに煽られた株価と為替だけが乱高下している状況だ。

 

 一国の総理が「ここ1〜2週間が勝負」と発言して頭を下げた日から、すでに1週間が過ぎた。せめてあと1週間、我々は不平不満に尖らせた口を少しだけ和らげ、心を落ち着かせ、重心を深く落として固い防御の姿勢をとり、嵐が過ぎ去るのを励まし合いながら待ち受けるのがいい。

 

 咳した人を睨みつけるのだけは、止めにしようじゃないか。買いだめに走るのをやめようじゃないか。タクシーを降りる時、運転手さんに「お互いにマスク、たいへんですね」「お互いにあと数週間、頑張ろうじゃないですか」と声をかけ、運転手さんから感謝の言葉をいただくと、こちらまで熱い涙がこみ上げてくる。

(東京世田谷「豪徳寺」の招き猫軍団。コロナ騒ぎが終わったら諸君、このぐらい大挙して公開授業に集まってくれたまえ 1)

 

 テレビがイヤになった時は、NHKEテレを選択するに限る。昨日午前10時、風呂上がりの今井はチャンネルを2に合わせてみた。東京オリンピックのマラソン代表・残り1枠が決まる「びわこ毎日マラソン」が、3月の冷たい風雨の中でスタートするところだった。

 

 何しろワタクシは毎朝1時間半、41℃のお風呂を満喫するのである。41℃に1時間、密閉されたお風呂にギュッと浸かっているのは身体に負担がかかるから、ワタクシはお風呂の窓をずっと開けている。どんなに寒い日でも、窓を閉めることはしない。

 

 おそらく真冬の入浴時、我がお風呂からはもうもうと白い湯気が上がり続けている。その豪放磊落な風景を思い描き、一人でニタニタしながら大好きな「お風呂で読書」を楽しむのである。21世紀も中盤に近づいた東京で、今のワタクシが熟読しているのは、驚くなかれリルケの詩集である。

 

 コムズカシイものを読めば読むほど、お風呂での肉体の温まり方は向上する。おそらくはコムズカシ過ぎて、脳も胃袋も大腸も、みんな一斉にムカつくせいである。いやはや、リルケには、ムカつく。何でそんなに分かりにくく書くのか、サトイモ星人にはリルケの言葉遣いがなかなか理解できない。

(東京世田谷「豪徳寺」の招き猫軍団。コロナ騒ぎが終わったら諸君、このぐらい大挙して公開授業に集まってくれたまえ 2)

 

 そこで諸君、朝8時半に入浴開始。窓の外に大量の白い湯気とムカついた溜め息を吐き出して、10時ちょうど、いい具合に火が通り、竹串が通るぐらいに柔らかく茹で上がったサトイモ殿下は、(何しろここから100日近くお仕事がほとんどないのだから)プシュッと朝のビール1缶を開けながら、「びわこ毎日マラソン」を眺めることにした。

 

 もうこの30年お馴染みであるが、先頭集団のほとんどはアフリカの選手たち。ケニアとエチオピアのたくましい選手たちが風雨をものをもせずに横一列にならび、日本選手の姿は目立たない。そもそも国内招待選手が1人しかいないんだという。先頭集団のほとんどが日本人だった30年前とは隔世の感がある。

 

 しかしその先頭集団の中に諸君、ほぼ無名の日本人が1人混じっている。その名は、谷原先嘉(これで「まどか」と読む)。ググってみても、なかなか出てこない。やっと出てきたデータによれば、兵庫の市立尼崎高校から山梨学院大を経て、現在は大阪府警に勤務。箱根駅伝には出場したが、マラソンの自己ベストタイムは2時間30分という選手である。

(東京・世田谷「富田屋」の鍋焼きうどん。驚歎すべき暖冬のせいで、今年の鍋焼きは出番が少なかっただろう)

 

 2時間30分では、1964年の東京オリンピックだとしても上位進出は望み薄の記録だ。しかし諸君、驚くなかれその谷原先嘉選手が、先頭集団をむしろ引っ張り続けている。もう1人、JR東日本の作田選手も、一般参加なのに日本人トップを走り続けている。

 

 こうなると、コロナ鬱の今井君なんかはもう涙が止まらない。テレビで文句ばっかり言っているコメンテーターなんか大キライだ。何が何でも作田と谷原両選手、冷たい風雨の中の疾走をニュースにしてほしい。

 

 作田選手は4位(日本人1位)。谷原選手は残念ながら最後に力尽きて15位に終わったが、それでも2時間11分39 秒でゴール。「自己ベストを一気に20分も上回る」という奇跡の快挙をやってのけた。

 

 なぜ昨日のテレビは、それを伝えなかったのか。あれほどのミラクルが、そんなにしょっちゅう起こるとでも言うのか。今の今井が心から願うのは、どの局でも構わない、彼の疾走をごく短い特集でもいいから、コロナに気落ちした国民に伝えて欲しいという一事である。

(東京世田谷「豪徳寺」の招き猫軍団。コロナ騒ぎが終わったら諸君、このぐらい大挙して公開授業に集まってくれたまえ 3)

 

 谷原選手の奇跡の疾走に比べて、大学受験の「速読派」の何と軟弱なことだろう。すでに前世紀の終盤、当時「受験英語の神様」と呼ばれた伊藤和夫師(駿台)は「ゆっくり読んでもサッパリ分からない文章を、『急いで読めば理解できる』と発言する愚かしさ」について言及している。

 

 伊藤和夫師が亡くなったのは1997年。研究社から師の論文やエッセイを集成した「予備校の英語」が出版されたのは、その直後である。今こそ我々がこの書を読み直してみる時期が来たと痛感する。歩けないのに走れる、クルマの運転はできないが戦闘機の操縦はできる、その種の発言がどれほど馬鹿げているか、伊藤師は常に口にされていた。

 

 センター試験についての某全国紙の評価「論理的な読解力が要求される良問」という文言に対し、さすが伊藤師は「どこをどう押せば『論理的』などという言葉が出てくるのか聞いてみたい」と痛烈におっしゃっている。センター試験ももちろんだが、「共通テスト」なるものの試作問題を見ても、それこそ「どこをどう押せば『論理的』?」という作問になっていないか。

(東京世田谷「豪徳寺」の招き猫軍団。コロナ騒ぎが終わったら諸君、このぐらい大挙して公開授業に集まってくれたまえ 4)

 

 新聞記事を書く者として、もう少し矜持を持つべきではないか。いやはや例えば「テクニック」という言葉についても矜持のない発言が多すぎる。

 

「センター試験はテクニックで解ける問題が多かった」などと新聞には書かれている。ワタクシなんかはマコトに意地悪であるから、そういうダラシない記事に対しては、以下のような質問を突きつける。

 

「ほほぉ、テクニックで解けたとおっしゃるんですか?」

「では具体的に、どの科目の何番の問題に、どんなテクニックを使えるんですか?」

「そのテクニックを使えば、他者と比較してどれだけ有利になるんですか?」

「そもそも、批判していらっしゃる『受験テクニック』なるものから、2つか3つでいいですから、具体例をあげてください」

 

 そういうふうに言われると、さっきまで「受験テクニックで解ける」と言っていた人々はものの見事に絶句する。そもそも存在しないものを、存在すると断言して「テクニックで解ける」「だからダメだ」「これからの試験はテクニックでは解けないようにしなきゃいけない」と、口角泡を飛ばしていたのである。

 

 問い詰めた結果として出てくる答えは、「ほら、カンタンな問題を先にやるとか」「国語の試験なら、知識で解ける古文の問題からやるとか」。その程度のことを、彼らは「テクニック」と称しているのだ、言わせてもらえば、それはテクニックなどでは全くなくて、小学生でも知っている「社会常識」と呼ばれるものである。

(世田谷・豪徳寺「招福猫児」。「猫児」と書いてネコと読む)

 

 その程度しかものを考えずに批判記事を書きまくった結果、「もっと役に立つ英語を教えましょう」「やっぱ、速読ですよね」という結論に至った。それがそのまま入試改革の挫折に直結してしまったのだ。

 

「ゆっくり読んでも分からない文章でも、大急ぎで読めば分かる」の類いのタワゴトが通用してしまったから、ちゃらちゃら派の予備校講師はますます勢いを増し、「いいか、ちゃんと読む必要なんかないんだ!!」「必要な情報だけを素早くつかみとるんだ!!」と絶叫するに至る。

 

「必要な情報を素早くつかみとる」という程度の読書が楽しいかどうか。楽しくないことに夢中になれるかどうか。その辺のことはひとまず置くとしても、「じゃあどうやって『必要な情報』と『必要でない情報』を見分けるのか?」という点になると、ちゃらちゃら派はちっとも答えてくれないのである。

  (伊藤和夫「予備校の英語」。1997年、研究社出版)

 

 いわゆる「速読」の具体的悲惨&悲喜劇については、次回の記事でとりあえず4つ列挙することにするが、今日は伊藤和夫師が23年前に、大腸ガンの死の床で書かれた著書の「はしがき」から、まさに鳥肌が立つほどの「予言」を引用しておこうと思う。

 

 伊藤師が「色男」と呼ぶのが、ワタクシが「ちゃらちゃら派」と名付けた人々のこと。「悪役」と呼ぶのは、「質実剛健」「基礎基本徹底」を旨とする誠実な人々のことと思っていただければいい。

 

「予備校が滅び、大学受験の中で受験英語が必要でなくなる時代が来れば、今の「色男」対「悪役」という体制のうち、後者が退場することになる。色男は大喜びだろうが、その時代に残るのは会話英語とカルチャー英語という、うまそうな匂いだけで実態のない、ごく薄っぺらなものでしかない」

 

「ただそれだけで全てが終わるはずはない。この日本人の中で、一部少数ではあっても英語の読める人が必要だという事態は必ず存続する」

 

「おそらくは4半世紀を隔てて、なぜあの時代、つまり20世紀の一部の日本人はあの環境であんなに英語が読めたのかという問いかけがなされる時が必ずやってくる」

 

 伊藤師は以上のように「はしがき」に書いた。署名は1997年1月9日。「眠れる森の金庫番を務める老爺」と自ら苦笑しつつ、その12日後、1月21日に天国に旅立たれた。「おそらくは4半世紀を隔てて」という予言の日から、2020年、まさにその4半世紀が経過しようとしている。

 

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