Sun 200105 お待たせの謹賀新年/お年玉がわりに超長文記事/左足の親指を負傷 3901回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 200105 お待たせの謹賀新年/お年玉がわりに超長文記事/左足の親指を負傷 3901回

 謹賀新年と書く暇もなく東京では深夜の初雪が降り、あけましておめでとうと挨拶する暇もなく、明日からの今井はリニューアル版「A組」、サブタイトル「上級者養成教室」の収録で、吉祥寺のスタジオにこもらなければならない。

 

「新春の心は晴れやかです」と書けばウソになる。昨年1016日にニャゴロワが天国に旅立ったせいで、17年ぶりに「ネコのいないお正月」なのである。「なでしこ!!」と呼んでもアルトの声の返事はなく、「ニャゴ!!」と呟いても、例の純白の顔も見えず、ソプラノの返事もない。

 

 年末のごく短いウィーン滞在は、やっぱり短すぎてあまり癒しにはならなかった。それどころか、ブラチスラバで食したトナカイのベリーソースが甘酸っぱ過ぎたせいで、今もなお胃袋が不平を漏らしている。胃袋の不平は「胸焼け」という症状で現れ、せっかくの新春ビールまで胃の壁にしみるのである。

 

 そうかと思えば、昨日は左足に負傷を負った。ニャゴのことを思ってボンヤリしているうちに、手に持ったウィスキーの瓶を、左足の親指の上にドカンと落としてしまったのである。

 

 ウィスキーはまだ開ける前の新品だったので、中身だけでも重量720グラム。瓶のガラスの重みまで合わせれば、1kg近くなるものを、胸の高さから足にドーンと落としてしまった。こりゃもうたいへんな惨事である。

 

 まず、ガラス瓶が割れた。アルコール40度超のウィスキーが部屋中に飛び散って、お部屋はマコトにお酒臭い。「別にそれはいつものこと」と諦めはつくが、問題は左足の親指の激しい内出血と打撲痛である。

 

 お風呂に入って、フェイタスを塗って、それで何とか収まったが、爪から何から紫色に腫れ上がって、こりゃさすがに痛いでござる。それでも明日からの収録に備えて、床屋さんで頭とヒゲの毛刈りをしてもらったが、自宅からすぐ近いパークハイアットホテル内の床屋さんに足を運ぶだけでも一苦労なのであった。

        (天国からの謹賀新年 1)

 

 しかしそういう状況でも、ワタクシの信条は「何が何でも授業は楽しく」「90分間ずっと受講生諸君が爆笑していられること」である。心が寂しくてもアンヨが痛くても、左足の親指が紫色に腫れ上がっていても、そんなことは受講生とは一切無関係。楽しくて楽しくてたまらない授業を20コマ、明日からの2週間でカンペキに作り上げる。

 

 確かに諸君、2020年の受験生は国家に裏切られたのである。鳴り物入りの4技能も中止、同じく鳴り物入りの記述式も中止。おやおや、いったい何のための大騒ぎだったのか、あんなに騒いでいたマスメディアも知らんぷりを決め込んで、暮れにも正月にも関連した報道なんかヒトカケラもない。

 

 教育改革とか入試改革とか、21世紀日本が経験した蹉跌の原因は、教育を「役に立つか・立たないか」のサモシイ発想で論じ、大学入試を脅しの手段と捉え、若者を入試で脅せば、社会に役立つ戦士になるだろうと考えたことである。

 

 教育は本来、「役に立つか・立たないか」などという基準で論じられるべきものではないのだ。特に中学&高校までの中等教育において、正しい基準は「楽しいか・楽しくないか」である。

 

 だから世界中の文明の歴史において、中等教育までの科目のほとんどは「楽しくてたまらないかどうか」を基準にして選ばれた、飛び切りのエンタテインメントばかりが並んでいた。中高生の時間割は、サイコーに楽しめる週間テレビ番組一覧表のように見える。

 

「若者が誰でもサイコーに楽しめる」と折り紙をつけるために、各科目は過去の題材に限定されているのである。パパやママの世代も、ジーチャン&バーチャンの世代も、そのまた前の前のずっと前の世代も、みんな同じように楽しんだ定評あるエンタテインメントを並べるのがベストであって、国語も地歴も物理も、全て過去から折り紙つきの題材を集めて教科書を作った。

        (天国からの謹賀新年 2)

 

 数学なんて、言わば数学史からの選りすぐりのエンタテインメント集である。アルキメデスだのピタゴラスだの、2000年以上前の数学から19世紀&20世紀の近代&近世まで、数列に関数に幾何に統計に、いやはや前世紀までの最も楽しめる数学を、マコトに巧みに並べた番組になっている。

 

 それは物理でも生物学でも化学でも一緒なので、2000年前から19世紀から20世紀中期ぐらいまでのサイコーのお楽しみがこれほど巧みにぎっしり並んだ世界は、21世紀のテレビ局や新聞社がどんなに頑張ったって足許にも及ばない。

 

  現代文の教科書は、19世紀後半と20世紀の最高の文章を並べ、古文の教科書は5世紀から19世紀前半までの文章の中で「ひえー、おもしろいや」「うげ、サイコーでござるよ」と、21世紀の若者たちに爆笑のあまり大汗をかかせるのを目標に作るべきなのだ。

 

 目の前のセンセに「過去って、面白かったんですね」と満面の笑みを向ける青年たち。素晴らしいじゃないか。そうやって数学や物理や地理や外国語の過去を目いっぱい楽しんだら、それが「中等教育を卒業した」ということ。「過去を楽しむのはこのぐらいにして、そろそろ&いよいよ『現代』を知りたい」とワナワナし始めたら、そこに大学の学部教育が待っている。

        (天国からの謹賀新年 3)

 

 だから高校生の教科書までは、「ほぼ全てが過去」なのだ。数学も物理も生物も、その教科書はハッキリ言って100年前の一般教養でストップしている。見栄を張って「現代文」と言ったって、せいぜい20年前が限界だし、地理も現代社会も歴史学も、どんなに頑張ったって15前までの成果しか扱えない。

 

 体育だってそうだ。バドミントンもバレーもバスケもサッカーも、過去2000年か3000年にわたってヤンチャな人類が作り出してきたサイコーのゲームをエンジョイさせるのが体育教育であって、「いやはや、このゲーム楽しいね」と、教師と生徒、あるいは生徒どうしで満面の笑顔でうなずきあうのが目標なのだ。

 

 外国語はどうか。残念ながら、教科書の外国語も教師の外国語も、厳密には過去の外国語である。現実の外国語はとっくに教師や教科書を超えてどんどん先に進んでいる。スラングがそうであり、他言語の要素流入がそうであり、進化と劣化がともにそうである。

 

 以上、中等教育の現場に「現代」や「未来」を持ち込もうとするのは軽率、ないしは時期尚早の誹りを免れない。過去の成果を最高のエンタテインメントとして時間割を作成し、それを小学校から合計して12年、たっぷり味わって「いやー、楽しかった」「でもそろそろ現代が知りたい」と思い始めたら、やっとそこに高等教育として大学学部の門が開くのである。

        (天国からの謹賀新年 4)

 

 むかしむかし今井が代々木ゼミナールで「四天王」を演じていた頃に、現代文のある有名講師が彼の単科講座に「知の現場へ」というタイトルをつけた。今井君なんかは「やられたな」と思ったものである。

 

 高校教育までは「過去の知」に夢中になっていた。しかし諸君はいよいよ大学の学部に進んで、「知の現場」を目撃することになる。その準備段階として予備校に通う諸君に、知の現場をチラ見させてあげよう。そういう趣旨なのである。

 

 センセ自身は内気な性格なのか、講師室内では常に寡黙でいらっしゃり、ランチも常に「蕎麦屋のカレー」と決まっていたが、さすがの講座目名に今井は「負けました」と脱帽せざるを得なかった。

 

 しかし学部の段階では、正確にはまだ「知の現場」とは呼べないのである。文系でも理系でも、残念ながらせいぜい「知の近過去」「知の半過去」であって、例えば経済学部なんかでも、ケインズ流のマクロ経済だの、ローザンヌ学派の限界革命理論だの、100年前の学説に「現代経済学」という講座名がついていたりする。

 

 学部時代の4年ないし6年は、高校までの「19世紀の知の現場」からもう100年ほど前進させて、20世紀までをエンジョイするのである。近過去&半過去まで進んでも、まだまだ「現代」と「未来」には至らない。現代を論じ、未来を作るのは、学部卒業までじっくり待たなきゃいけないのである。

 

 その先もガッコーにとどまりたければ、大学院の研究室で初めて現代と未来を学ぶことになる。「大学院は、自分で勉強するところだ」と、ワタクシの友人の有名な国際政治学者は喝破した。その右手には茹でた越前ガニがあり、左手には十数杯目のビールのグラスがあったが、大学院で「自分で勉強する」のは、勉強の題材がいよいよ過去から未来に移行したからである。

 

 高校でも大学でも、責任を持って教科書で扱うことができ、教師が自信たっぷりに教えられるのは、結局は過去のことばかりである。「ひえー、過去ってすげー面白いですね」と生徒たちがみんな熱い笑顔になったら、教師の役割はそこまでなのである。

        (天国からの謹賀新年 5)

 

 要するに「未来を教えよう」などと目論むのは、教育者のおごりである。未来は、学部卒業後に、若者たちがそれぞれ自らの力で作り出すものである。大学院に進めば「研究」という形で未来を作るのであり、大学の外に出て社会人となれば、社会で未来を紡ぎ続けるのである。

 

 だから諸君、修士課程&博士課程に進んで研究を続ける場合でも、社会に出てオカネを稼ぎ始める場合でも、「自分の力で未来を紡ぎ始める」という姿勢において。何ら違いはないのだ。

 

 エンタテインメントとしての過去を学んでサイコーに楽しかった中高生時代と、近過去&半過去に熱中してますます面白かった学部生時代を通じ、「何だ、勉強って異様なほど楽しいな」と実感したら、その後の約80年の人生を、究極の勉強として「未来をエンジョイする」ことに向けるのだ。

 

 その場合も、自らの日々を「難行苦行」と意識するのは間違いである。過去もエンタテインメント、近過去もエンタテインメント、高校の時間割も学部のタイムテーブルも、身震いするほどの快感の連続だったと同じように、研究者としても社会人としても旅人としても、独自の未来を紡ぎ出すことを、ガハガハ笑いながらエンジョイし続けるべきなのだ。

 

 以上のような発想から諸君、ワタクシは「入試で脅せば若者も英語4技能を身につける努力をするだろう」というオトナの発想を「サモシイ」と書いた。「入試で脅せば論理的思考が身につくだろう」なんてのは、教育する側の傲慢にすぎない。

        (天国からの謹賀新年 6)

 

「役にたつか・立たないか」の議論に至っては、若者たちを社会に都合のいい戦士に仕立て上げようとする発想である。19世紀中盤から20世紀後半にかけて、大陸国家を中心に席巻した病的な政治経済思想が存在したが、ワタクシはその悪影響ないし残滓を感じるのである。

 

 若者は社会に奉仕する「戦士」ないし「兵士」であって、経済戦士・産業戦士・科学戦士、そのどれにもなれなければせめて文化戦士、何らかの立場で役に立たなければ「役立たず!!」の罵声を浴び、役に立たないと判断された知的分野に固執すれば「ムダメシ喰らい」のレッテルを貼られた。

 

 そういう発想の残滓が「文系の学部なんかなくしちゃいましょう」「大学はみんな理系にしちゃいましょう」というご意見に集約される。「役に立たない分野に税金を払うのはムダです」という発想、社会の戦士&兵士になることに目を輝かせる理想の若者像は、ほとんど「◯◯ユーゲント」を髣髴とさせる。

 

 教育に携わる者の思いは、「すべての若者を幸福にしよう」という側にあるべきであり、「我々の役に立つ若者を育成しよう」という発想は、理想とは真逆である。我々は20世紀型の企業戦士やら文化戦士を育てるのではなく、過去も現代も未来も心からエンジョイできる若者たちをこそ育てるべきなのである。

 

「役に立つ戦士」という発想からスタートすれば、「バランスのとれた若者」を志向するのも当然である。◯◯ユーゲントなら、何よりも大切なのはバランスであって、全てが得意、好き嫌いナシ、4技能のバランスも、科目間のバランスもみんな完璧である必要がある。

 

 しかし諸君、若者の幸福を第一義とするなら、「好きなことだけスーパー大好き」「アンバランスだけど、好きなことはスゲー得意」というアンバランスな若者を認めないのは矛盾である。ワタクシが「バランス」「バランス」と連呼する教育を信頼できないのは、そういう理由である。

        (天国からの謹賀新年 7)

 

 そしてもしも青年の幸福を思うなら、もっともっと議論を精密にすることだ。入試改革の炎がまだ盛んだった頃、マスメディアには「テクニックで解けるセンター試験」「マニュアル化された現代の入試」というコトバがマコトに軽率に乱舞していた。

 

 しかし諸君、メディアに載せるには、あまりに軽率すぎやしないか。「テクニックで解ける」とは、いったいどの科目のどの設問なんですか? 「マニュアル化された」って、誰がどんな形でマニュアル化したっていうんですか?

 

 もし「テクニックで解ける」と言うなら、どの科目のどの設問がどういうテクニックで解けるのか明記すべきだし、「マニュアル化されている」なら、誰がどこでどんなマニュアルを作り、そのマニュアルをどうすれば閲覧すべきなのか、それも明記すべきである。

 

「受験産業が」ないし「塾や予備校が」ということになるんだろうが、この十数年、予備校講師たちはまさにその「テクニック」「マニュアル化」から、1歩でも2歩でも遠ざかろうと懸命に努力してきたのだ。

 

「テクニック」と言われた瞬間、大半の受験生は講師にも教材にも嫌悪を居抱く。それはまさにこの瞬間でも同じことで、「マニュアル」「テクニック」の2語ほど、講師と予備校の評価を著しく低下させるものはない。

 

 だからワタクシは思うのだ。実態を全くご存知ない、あるいは知っていても知らんぷりで批判を組み立てる、そういう不正確かつ無責任なメディアこそが、入試改革の頓挫を招いたのではなかったか。猛省が必要なのは、まさにメディアの教育欄担当の諸君なのではないか。

 

 ウィスキーのたっぷり入った瓶を左足の親指に見事にヒットさせ、紫色に腫れ上がった親指にフーフー息を吐きかけながら、明日の「A組」収録開始に向けて「何とか間に合えばいいな」と痛みに耐えている今井君なんかが、こんなに偉そうに熱弁をふるうのは、それこそ僭越かもしれない。

 

 しかし諸君、若者たちの幸福をもしも本当に願うなら、ワタクシは以上のような視点を教育論争に持ち込み、「桜を見る会」なんてのは後回し、教育こそ徹底的に選挙の争点にして、みんなで大学入試改革に関して激論を交わすべきだと考える。

 

 教育問題を論点にしなかったマスメディア各社、解党からたった4年でまたまた合流を目指し、青年の幸福のことなんか完全に忘れて政党助成金の額に熱中している野党の諸君。ワタクシは記念すべき2020年の初頭にあたり、以上のような古老の知恵を長々と披露し、あとは親指の痛みに耐えて、明日の収録開始を待とうと思うのである。

 

1E(Cd) Elgar & LondonELGARSYMPHONY No.2

2E(Cd) Barbirolli & HalléTHE DREAM OF GERONTIUS 1/2

3E(Cd) Barbirolli & HalléTHE DREAM OF GERONTIUS 2/2

4E(Cd) Ashkenazy & PhilharmoniaSIBERIUSSYMPHONIES 1/4

5E(Cd) Ashkenazy & PhilharmoniaSIBERIUSSYMPHONIES 2/4

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