Fri 190111 宇治の町/平等院/橋寺/宇治神社と宇治上神社(京都すみずみ12)3784回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 190111 宇治の町/平等院/橋寺/宇治神社と宇治上神社(京都すみずみ12)3784回

 昨年末、1224日で17歳になったニャゴロワは、今日も元気にニャゴニャゴ走り回っていて、特に朝の元気が目覚ましい。重い腎臓の病気が判明したのが2010年の12月のこと。「余命100日」の診断以来、2日に1回の点滴に耐えて、ついに9年目の初春を迎えた。

 

 純白のフワフワないしモフモフに、淡いピンクの耳。うさぎのイメージに近いので、たまに「うさぎどん」と呼びかけてみると、うさぎと呼ばれても自分のことだと認識して「うにゃ、うにゃにゃ」と返事をする。マコトに臨機応変&変幻自在、優秀な猫又に成長した。「わん!!」と吠えることさえある。

 

 京都の南・宇治の町は、もちろん平等院鳳凰堂の町ではあるが、うさぎもまたこの町の象徴である。宇治はもともと「菟道」と書き、うさぎの道だから「うぢ」と呼んだ。おお、うさぎそっくりのニャゴが嬉しそうに耳をヒコヒコさせているじゃないか。

     (宇治、平等院鳳凰堂。2017年11月)

 

 洛中から東山に蹴鞠をポンと蹴り上げた「蹴上」のウェスティンホテルからなら、地下鉄東西線で終点の六地蔵まで行き、ここで京阪電車かJRに乗り換える。昨年秋のワタクシは、昼前に醍醐寺に立ち寄った後だったから、JR宇治駅を利用することになった。

 

「う・じ・の・まちー!!」「う・じ・の・まちー!!」。2017年秋の夕暮れに宇治を訪問した時には、JR宇治駅の前に陣取った好青年が、ギターをかき鳴らしながら宇治の町への濃厚な愛情と愛着を熱く歌い上げていた。

 

 今井君は昭和フォークソング世代の終盤に属しているから、この好青年が大いに気に入った。高校時代はどういうわけかケイオン(軽音楽同好会)に友人が多くて、17歳で奇跡的に付き合えた人生最初のカノジョも、ケイオンでボーカルを担当していた同学年女子だった。

     (宇治に到着、まずは濃茶をいただく)

 

 そういうマコトに恥ずかしい記憶にウジウジしながら、宇治の町に闖入したのである。駅前には我々の予備校の大きな看板があって、ホントは校舎に挨拶ぐらいしたほうがいいのだろうが、何しろ恥ずかしい記憶でウジウジの真っ最中だから、ひとまず挨拶は遠慮することにした。

 

 その分せっかくの宇治なんだから、とりあえずお抹茶を戴いてから散策に取り掛かることにする。最初にのぞいてみた有名なお茶屋さんが満席だったので、「ま、『辻利』でももちろんいいですかね」と言ふことにした。

 

「おうす」もいいが、ここは思い切って「おこい」と言ってみた。薄茶のほうが無難なのに、思わず「お濃いをください」と言ってしまうあたり、見栄っ張りなイマイらしいところである。ウィスキーもストレート、もちろんブランデーもストレート。ならば抹茶も「お濃い」、当然の流れじゃないか。

          (宇治、橋寺)

 

 さて宇治の散策であるが、普通の人間なら「意地でも平等院」であり「誰が何と言っても平等院」であって、「平等院にあらずんばヒトにあらず」という勢いである。最近は秋の夜のライトアップも始まって、ヒトビトはひたすら平等院鳳凰堂を目指す。

 

 しかし諸君、ワタクシは一昨年の秋、すでにそのライトアップを経験している。「人間万事インスタ映え」の世の中、ライトアップにはスマホを構えた中高年が殺到して、「押すな&押すな」「そんなに押すと池に落ちますよ」どころか「ホントに池に落ちました」と言ふ言語道断の大混雑&大混乱に陥っている。

 

 大学受験でも中学入試でも、池でも沼でも滝ツボでも、「落ちる」などというのは元来もってのほかであって、数学が0点で東京大学に落ちたりすれば、せっかく奇跡的に付き合えたボーカルのカノジョも、呆れ果ててサトイモを見捨てるのがこの世の中の厳しいところである。

          (宇治、橋寺にて)

 

 平等院鳳凰堂の池に落ちる差し迫った恐怖は、すでに前年秋に十分に味わっている。落ちてしまえば極楽浄土も何もカンケーなくなるので、池の藻やコケが全身に絡みつき、ドラえもんならぬドザえもん状態で水から上がってきたサトイモなど、想像するのもオゾましい。

 

 君子、危うきに近寄らず。今井君子は「平等院はすでに10円玉で見飽きるほど見た」とうそぶきながら、宇治川の反対側を散策することに決めた。

      (宇治川、アオサギどんの勇姿 1)

 

 そもそも諸君、平等院鳳凰堂を建てた藤原頼通は、本来マコトに可哀そうな御仁である。そりゃ摂政&太政大臣 → 満月が「欠けたることもなしと思へば」の藤原道長のご長男。従一位・関白&太政大臣。いやはや、すげー恵まれたオカタではあった。

 

 父・道長の死後は後朱雀天皇・後冷泉天皇の時代に関白を務める。なんと50年。まるまる半世紀にわたって政治の中心に君臨。安倍首相の超長期政権だって、足元にも及ばない。藤原氏の全盛時代を築いたオカタである。

 

 しかし諸君、彼の時代こそ、摂関政治の「終わりの始まり」。「刀伊の入寇」があり、平忠常の乱があり、東北地方でも戦乱が相次いで「いよいよ終わりが始まったな」と、臆病な人々は極楽浄土に逃げ込む算段を始めた。平等院鳳凰堂はその象徴と言ってもいいぐらいである。

 

 やがて後三条天皇が即位。日本史の授業では「荘園記録所」で絶賛されるれる名君である。学問好き、「才能は卓抜」「資質は剛健」と讃えられ、摂関家に全くはばらずに善政を続け、藤原家の内紛も巧みに利用して、摂関政治の終わりを決定的にした。

      (宇治川、アオサギどんの勇姿 2)

 

 いやはやこれじゃ頼通どん、パパの時代の満月はもうすっかり欠けてしまい、半世紀にわたる政権も何もかも打ち捨てて、平等院にでも逃げ込むしか心の拠り所がなかったんじゃないか。

 

 それに引き換え諸君、鳳凰堂を挟んで宇治川の反対側を散策すれば、池ポチャの危険のない落ち着いた神社仏閣の数々をのんびりと満喫できるのだ。

      (宇治川、アオサギどんの勇姿 3)

 

 川のアオサギどんやシラサギどんに挨拶しながら、まずは「橋寺」を訪問する。604年、聖徳太子の発願で建立。うへ、1400年の歴史を誇るわけである。蚕ノ社や広隆寺に関わった秦氏がここでも登場。ワタクシはまたまた「ハタ」と膝を打ったのであった。

 

 蘇我氏滅亡の翌646年、至近の場所に日本3古橋の1つ・宇治橋が架けられ、橋の管理を任される。それで「橋寺」の通称で呼ばれることになった。マコトに由緒正しいお寺なのである。しかし訪れるヒトは多くない。「池ポチャ」の危険性は一切ナシ、むしろお寺のお坊さんに声をかけられて、内気な今井君はビクビクするばかりであった。

       (宇治七名水の1つ、桐原水)

 

 宇治川に沿ってさらに10分ほど散策を続けると、「宇治神社」と世界遺産「宇治上神社」に至る。応神天皇の皇子「菟道稚郎子命」の宮居跡と伝えられる。おお、ついに菟道(うぢ)の登場だ。

 

 応神天皇の後、後の仁徳天皇との間で皇位継承をめぐる譲り合いやら争いやら、いろんなイキサツがあったらしいが、詳しいことは今井君には分からない。興味があったら諸君のほうで、いろいろググるなりして徹底的に調べてくんなまし。

       (世界遺産、宇治上神社)

 

 何しろ「菟道」であるから、どちらの神社でもうさぎ関係のオマモリをたくさん目にする。言い伝えによれば、むかしむかし神様が宇治に住居を定められ、河内国から宇治を目指して旅の途中、道に迷って困っておられた。

 

 ちょうどその神様の前に一匹のうさぎが出現。後からついてくる神様を振り返り&振り返り、神様を宇治まで先導したんだそうな。「見返りうさぎ」の言い伝えである。

      (見返りうさぎで有名、宇治神社)

 

 もちろん諸君、うさぎの場合は「一羽」「二羽」「三羽」と数えるのであって、カニもイカも「1パイ」「2ハイ」「3バイ」であるのだが、さすがに21世紀も中盤に差し掛かっている。そろそろ「羽」も「パイ」も終わりの始まりなんじゃあるまいか。今井君はここであえて「一匹」を採用する。

 

「見返りうさぎ」はそのあと神様の使いとして、「倫理&道徳にかなった正しい道を歩むように」と教え諭し、人間たちを導く者とされ、受験のオマモリとしても知られるようになったそうな。宇治まで行く余裕のない諸君、今日の写真のどれか1枚をオマモリにして、間近に迫った受験に備えてくれたまえ。

 

1E(Cd) Solti & ChicagoMAHLERSYMPHONY No.5

2E(Cd) LeinsdorfMAHLERSYMPHONY No.6

3E(Cd) Solti & ChicagoMAHLERSYMPHONY No.8 1/2

6D(Pl) 初春文楽公演:冥途の飛脚(淡路町/封印切の段/道行相合かご)壇浦兜軍記(阿古屋琴責):大阪・国立文楽劇場

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