Wed 181003 熊石雲石/ガルダ湖の北端リーバの町(イタリアしみじみ17)3732回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 181003 熊石雲石/ガルダ湖の北端リーバの町(イタリアしみじみ17)3732回

 こういう関心の持ち方は不謹慎なのかもしれないが、東京を台風24号が通過した翌朝、ワタクシは北海道のある地名をテレビの画面上に見て、「こりゃどうしても一度訪問してみなきゃいけないな」と考えた。

 

 台風がどんどん北上して、東北を過ぎ、北海道の南の海上に抜けたころのことである。「まだ東北・北海道では記録的な暴風が吹くおそれがあります」という一言とともに、NHK画面の右下に「八雲町 熊石雲石」という地名が映し出されたのである。

 

 さっそく「八雲町」でググってみると、北海道の南端、渡島半島の日本海側である。奥尻島と向かい合っている。1993年7月12日の「北海道南西沖地震」では、奥尻島に甚大な被害があったが、海を挟んで島の真向かいだ。八雲町の被害もまたたいへんなものだったに違いない。

 

 ワタクシが駿台予備校講師になってまだ2年しか経過していない頃だ。7月、夏期講習で御茶ノ水に缶詰にしてもらい、得意満面だった時代である。

 

 マグニチュード7.8の巨大地震、震源は奥尻島のすぐそば。大津波は地震の数分後には島に到達した。地震の発生は夜10時過ぎ、今井の記憶が確かならば、津波は30メートルの高さに達し、島の中心部「青苗地区」は、津波が原因の火災が半日にわたって燃え続けた。

 

 あれからすでに25年が経過している。20歳代の人で奥尻地震を知っている人は少ないだろうけれども、小樽でも震度5、青森で震度4、我がふるさと秋田でも震度3、震源に近い瀬棚や江差の震度は、おそらく「烈震」の6だったと思われる。

   (ガルダ湖の北端。不思議な巨岩が横たわる 1)

 

 だから今回の台風で「八雲町」という地名を見たとき、今井の頭に浮かんだのはまず何と言っても奥尻地震の頃の記憶であった。しかし諸君、その八雲町の「熊石雲石」地区となれば、「熊石」「雲石」、これはどうしても訪ねてみなきゃいけないだろう。

 

 江戸時代までは、北海道における日本政府の中心地はこの周辺だったのだ。今では至近の函館からはるかな道のりを踏破しなければたどり着けない陸の孤島と化しているけれども、松前藩の歴史は豊臣秀吉やら徳川家康やらの時代から延々と続くのである。

 

 17世紀初頭から19世紀半ばまで、松前藩の300年もの歴史、誰かギュッと調べて論文でも書かないかね? それでノーベル賞は無理にしても、チコモダインにハシタイン、シャクシャインの戦いなど、先住アイヌの人々と松前藩の死闘や、南下してくるロシアとのツバ競り合いなど、論文の山場はナンボでもありそうだ。

   (ガルダ湖の北端。不思議な巨岩が横たわる 2)

 

「熊石雲石」にも、アイヌの人々 vs 松前藩の戦いの物語が絡んでいる。1529年、瀬棚のタナサカシ軍と工藤祐兼&祐致の率いる松前軍が、利別川を挟んで対峙。松前軍は敗北した。

 

 工藤祐致は敗残兵をまとめて敗走。しかしアイヌ軍の厳しい追撃を受けて追い詰められ、海岸に雲の形の巨岩を発見、この岩の中に逃げ込んだ。

 

 一天ニワカにかき曇り、ギザギザの稲妻と同時に天地を揺るがす雷鳴が轟いたのは、まさにその瞬間である。勝ち誇っていたアイヌ軍は驚天動地、クモの子を散らすように四方八方に逃亡し、危機一髪の工藤祐致は雲岩に命を救われた。そういう伝説である。

 

 まあ、これで「雲石」は分かった。しかし、あれれ、「熊石」のほうは? ついでに、それなら「雲岩」のはずなのに、なぜ「雲石」って、岩が石になっちゃったの?今井君は、その辺の謎を探りに、早速ブラタモリよろしく八雲町を訪れたくなったのだった。

   (ガルダ湖の北端。不思議な巨岩が横たわる 3)

 

 しかし諸君、そういうブライマイを決行しようにも、交通の便が全く見当たらないのである。とりあえず函館まではヒコーキでビューンと行っちゃうにしても、函館で確実に立ち往生する。

 

 函館で立ち往生した場合、今井君にはマコトに悪い癖があって、

「そんなら、いいや。イカ食いにいくべ」

「活イカがなかったら、ウニでもカニでもホタテでもいいや」

「待ってろよ、函館朝市」

「待ってろよ、きくよ食堂」

そういう食とお酒へのリスペクトで、あっという間にく熊石も雲石も忘れちゃう。

 

 熊石雲石の近くには「熊の湯」という秘湯があって、「海岸から約4km入った山間、渓流の傍らの岩棚にある露天風呂。渓流のせせらぎを聞きつつ、若葉・青葉・紅葉と季節ごとの変化を楽しむのも格別」であるらしいが、「秘湯につきヒグマに注意」という恐るべき但し書きが付いている。

       (ガルダ湖の北端に接近する)

 

 いやはや、どうしてこんなに交通の便を悪くしちゃったんだろう。昭和の時代までは、日本国有鉄道がこの地域に「江差線」という列車を頻繁に走らせていた。国鉄分割以降、大赤字を理由に廃止されてしまったが、1960年代の時刻表を見るに、準急「えさし」が1日3本、上下合計6本も走っていた。

 

 ところが今や、まず函館から江差までバスで2時間。江差で乗り換えて、熊石まで再びバスで1時間。絶景の雲石を数十分眺めて走って帰ってこなきゃ、ヒグマの秘湯に1人取り残されかねない。日本海に沈む夕陽がさぞかし美しいだろうに、JRはホントにひどいことをする。

 

 そんなにまで苦労してバスの乗り継ぎをやるぐらいなら、むしろ東京からパリ、パリからミラノ、ミラノからシルミオーネとはるばる地球の裏側にたどり着き、シルミオーネから船なりバスなりに乗っかって、ガルダ湖の北の端を目指す方がまだカンタンかもしれない。

 (リーバにて。アルプスを背景に、ヤシの木が似合わない)

 

 9月7日、シルミオーネ滞在の最終日、今井君はバスでガルダ湖の東側を疾走し、15時前にマルチェージネに到着した。マルチェージネから船に乗って、いよいよ北端の町リーバを目指そうという魂胆なのである。

 

 広大なガルダ湖も、「いかにもイタリア」という明るく花やいだ雰囲気はマルチェージネとその対岸のリモーネまで。リモーネからさらに北上すると、そびえる岩山の厳しい表情も、空や湖面のの色も、一気に北欧風に変わってしまう。昨年8月に旅したノルウェーのフィヨルドを思い起こすほどである。

 

 目指すリーバは、斜め20度ほどに傾斜した巨大な岩山の右側に位置している。つい2日前に登ったバルド山からも、この巨大な岩山がマコトによく見えていた。というか、山頂からこのフシギな巨岩を見たからこそ、リーバの町にも行ってみたくなったのである。

 

 せっかくのバースデーケーキを、慌てて床にベチャッと落としたような形。または早稲田大学の学帽を、ギュッとテーブルに押し付けたような形。諸君、昔の早稲田の男子学生は、入学早々まずは例の学帽を購入したものであるらしい。

 

 大隈講堂の近くに学帽屋さんが1軒。西早稲田の坂道にも学帽屋さんが1軒。もうあのあたりには30年近くご無沙汰しているから、まだ健在かどうかわからないが、看板に書かれた帽子の「帽」の字の特殊な字体が、今でも記憶に残っている。

   (リーバの船着場にて。意外に奥の深い町だった)

 

 さてリーバであるが、港に立って切り立った岩山を見上げてみると、約100メートルほどの断崖絶壁の上に十数軒のオウチが肩を寄せ合って建っている。そこから上はまた数百メートルの断崖絶壁になっていて、何故そこに人が住んだのか、どうやってそんな断崖の上にオウチを建てたのか、見当もつかない。

 

 どうやらかつては水力発電でオカネを稼いでいた町のようである。数百メートルの断崖に、水を流す鋼鉄の巨大な管が何本も走り、麓の発電機から太い送電線が周囲に走っている。

 

 意外なほど奥の深い町で、由緒ありげな教会とお城と城門が残っている。ただし諸君、夕暮れが迫り、吹く風は冷たい。ここはもうアルプスの一角であって、町を闊歩するのはドイツ語を話す地元民がほとんどだ。

 

 観光客は冷たい風を避けて、港の周辺に数軒ならぶカフェに集まっている。しかしここでもドイツ語が主流。人々が飲んでいるビールも、ドイツ人好みのヴァイツェン・ビールである。今イタリアにいることを、ふと忘れそうになるほどだ。

 

 山道を自転車で飛ばしてきたオジサマ集団が、ヴァイツェンビールで盛り上がっているのを眺めつつ、帰りの船の時間を待った。ここからシルミオーネに帰る最終のお船は、17時ごろの出航。これに乗り遅れると、リーバに取り残される。

 

 おそらくバスを乗り継いでも帰れるし、万が一の時はタクシーというマホーのジュータンも存在する。しかし諸君、それはおそらく熊石雲石から函館までタクシーをとばす類いの行動であって、いやはや、そんな可能性を考えているより、さっさとお船に乗り込んで、明るく暖かいイタリア語圏にちゃんと帰ったほうがいい。

 

1E(Cd) Richard TeeTHE BOTTOM LINE

2E(Cd) Brian McknightBACK AT ONE

3E(Cd) Isao TomitaShin Nihon Kikou

4E(Cd) Ralph TownerANA

5E(Cd) Stan Getz & Joao GilbertoGETZGILBERTO

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