Tue 180710 水戸の思ひ出/懐かしの筑波ゼミナール/水戸の大盛況 3663回 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 180710 水戸の思ひ出/懐かしの筑波ゼミナール/水戸の大盛況 3663回

 7月5日、八重洲の地下街でラーメンをすすり、すっかり満腹になったワタクシは、品川始発の常磐線特急で茨城県の水戸を目指した。マコトに便利になったもので、土浦や水戸や日立に行くのに、上野での乗り換えはもう必要ないのである。

 

 列車は、関東平野を北東に進む。平成27年の初秋、関東と東北を豪雨と大水害が襲った。マルセイユに2週間滞在して帰国した日だったが、高度を下げていく飛行機からの眺めが、たいへんな泥の色に染まっていた。

 

 西日本の豪雨を心配しつつ、あの時の関東平野を思い出した。鬼怒川や小貝川が決壊して、茨城県西部の豊かで広大な平原は一面の泥田と化していた。利根川の支流・小貝川は、今井君がまだ大学生だった遥かな昔にも決壊して、歴史に残る洪水被害をもたらした。

 

 人間というものは災害を忘れやすい存在であって、あれから3年が経過、ワタクシはもうすっかり水害を忘れている。北上していく電車の窓を眺めていても、美しい田園風景に見とれるばかりであって、この風景がホンの3年前に泥の色に覆われていたとは、想像もつかないのである。

(4半世紀前の今井君。水戸「筑波ゼミナール」夏期講習パンフより)

 

 常磐線とは、ずいぶん長い付き合いだ。そもそも学部生の時代から10年近く、若き今井君はずっと常磐線を生活の基盤にしていた。北松戸に4年、松戸駅前に2年、新松戸に3年。なんだ、要するに青年期のほとんどを常磐線とともに過ごしたのである。

 

 土浦にも、毎年のように出張した。駿台予備校の講師をしていた時代、何故か今井は「筑波大直前講習」を担当。駿台柏校からの依頼で、前日から柏や土浦に宿泊、土浦の城跡「亀城公園」近くの会場で、2月の朝9時から夕暮れまで、筑波大学の過去問を解説したものである。

     (2018年7月5日、水戸の大盛況 1)

 

 土浦からさらに北上、霞ヶ浦を右に見ながら、「ひよっこ」のミネゴが「おどうさん、ミネゴは」と日々を綴った田園地帯をすぎ、やがて水戸の街に到着した。

 

 諸君、ここは今井君が予備校講師の第一歩をしるしたところである。1990年3月、新聞の求人広告で「講師募集」の文字を発見。「どれ、そろそろマジメにオカネを稼ぐことを考えるかな」と立ち上がった若き今井君は、当時日の出の勢いだった「筑波ゼミナール」の面接試験に向かった。

 

 いちおう「試験」とは言っておくが、何しろ予備校バブルの真っただ中だ。押し寄せる浪人生のあまりの数にオーナー社長もアタフタ、講師の学力なんかちっとも気にすることはなくて、いきなり「1時間でナンボ欲しいんですか?」という時給交渉が始まっちゃった。

 

 大いに面食らったけれども、提示されたのは「90分で8000円」。うーん、今思えばずいぶん買い叩かれたものであって、予習やら何やらにかかる時間は一切無視、いったい1年で何コマの授業を担当できるのかも無視、ただひたすら「90分で8000円、特急は自由席。グリーンとか指定席とか、そういうのは実績次第です」と繰り返されるばかりだった。

     (2018年7月5日、水戸の大盛況 2)

 

 あれから幾星霜、今井君もすっかり大御所&大ベテランであって、はるか以前のSN台予備校時代から、どこに行くのもグリーン車、どこに飛ぶのもプレミアムシート、素晴らしい境遇を獲得したものである。

 

 いやはや、渋谷区のオウチに帰って本棚をゴソゴソやってみると、おお出てきましたぞ、筑波ゼミナール、1990年夏期講習のパンフレット。登場している今井君にはオヒゲもなし。「読むための英文法」などという特別講座を1年目で担当させてもらっている。

 

 ついでに、先日亡くなった加藤剛主演「マクベス」のパンフレットも出てきた。パンフレットの裏表紙には、その同じ加藤剛「雪印クリーマ」の広告が載っかっている。いま改めて、たいへんな美男であったことを確認するのである。

(大学1年、無理して東横劇場に「マクベス」を観にいった。主演は、故・加藤剛。この美男ぶりを見てくれたまえ)

 

 筑波ゼミナールで授業を担当したのは、1990年から1991年の夏まで。マコトに短い水戸通いであったが、1年目の今井の爆発的人気にビックリしたSN台予備校が、「筑波ゼミナール、できるだけ早くヤメてくれませんか」と要請してきた。

 

 水戸に通っていたのは、木曜・金曜・土曜の3日のみ、しかも午前中のみであったけれども、SN台として「そのぶんはウチで面倒を見ましょう」とのことであった。それなら1も2もない。あっという間に水戸への通勤はヤメにした。

 

 だから水戸は、まだ「ひよっこ」であった講師今井のスタートの地なのである。「おどうさん、ミネゴは」みたいなもんである。今思えば、はるかなはるかな大昔。筑波ゼミナールはとっくのむかしに閉鎖されて、周辺の風景もすっかり変わってしまった。

(左:マクベスのパンフ。右:1990年「筑波ゼミナール」夏期講習パンフ。今井の書斎はギュッと宝が詰まっている)

 

 水戸には、宿泊したこともない。当時は埼玉県の春日部に住んでいたが、午前2コマだけ、木金土の3日だけ、そういう条件なら、春日部から通えないこともなかったのである。

 

 春日部発朝6時の準急電車に乗れば、北千住で日比谷線に乗り換えて、上野始発7時ちょうどの「スーパーひたち」に間に合うのだった。「自由席だけです」と茨城弁丸出しの社長に念を押されたが、自由席でも悠々座れた時代であって、上野の駅弁を貪りながら水戸に向かった。

 

 授業の予習も、あのころは電車の中で片付けて、恥ずかしいとも思わなかった。何しろ予備校講師の初年度だ。河合塾と駿台と、みすず学苑と筑波ゼミ、さらに川崎の小さな医学部予備校まで兼務の状態だ。忙しすぎて、電車の中で予習でもしなければ、睡眠時間を削るしかなかった。

 

 特急「スーパーひたち」が、上野を出て松戸を通過する頃に駅弁を食べ終わる。つい2〜3年前まで青年期を過ごしていた松戸の風景に「おお、懐かしいな」と呟きながら、弁当を片付けて予習に入ったものである。

   (水戸の懇親会風景。やっぱり祝勝会は欠かせない)

 

 当時は自分でもカッコつけたつもりのアタッシュケースをブラ下げていて、予習のテーブル代わりにアタッシュを使用した。列車は土浦を通過、栃木県小山に向かう「水戸線」との乗り換え駅・友部にだけ停車して、朝8時過ぎに水戸に着いた。だから予習には十分な時間があった。

 

 あれから四半世紀が経過して、東武線の「準急」も、特急「スーパーひたち」も、みんな姿を消した。時の経過はマコトに速い。その中でよくも今井は、ギュッと力強く生き残ったものである。いま雨模様の水戸駅前に立てば、その感慨はあまりに深い。

 

 だから水戸への宿泊は、2018年7月5日が人生初なのである。選択したのは、水戸で最も歴史が長いと思われる「水戸京成ホテル」。チェックインしてみると諸君、その古色蒼然ぶりに、思わず絶句する。

 

 椅子の背中の木材は擦り減って、デスクのサイズも「昭和の日本人はさぞかしサイズが小さかったんだな」と実感する。空調も縦置きタイプ、下から上に向かって冷たい空気がブワッと吹き出す形式のものである。


 その部屋で2時間、味噌ラーメン味の息を吐き散らしながら、まずはブログを1本アップ。テレビをつけて西日本の豪雨がどんどん強烈になって行くのを見つめ、スタッフとの待ち合わせ時間を待った。

     (2018年7月5日、水戸の大盛況 3)


 水戸の公開授業は、19時開始、2040分終了、出席者は約200名。JA水戸の昭和中期の大会議室を超満員にして、おなじみ伝説のテキスト「B」で90分、激烈なスーパー大爆笑の連続する大熱演を行った。

 

 あれはもう、5日も前のことである。その後の5日間で広島や岡山をはじめとする西日本全域を、未曾有の豪雨被害が襲ったことを考えると、今井独特のフザけた文体で長広舌をふるうのは、本来なら遠慮しなければならないのかもしれない。

 

 今はただ、洪水が終わるのをひたすら念じ続けるだけである。7月10日、今日もまた広島で河川の決壊があった。なぜ晴れているのに再び洪水になるのか、素人の今井にはよく分からないが、猛暑の中、水も十分に補給されない被災地の状況を見て、今は粛然とするばかりである。

 

1E(Cd) Ashkenazy(p) Müller & BerlinSCRIABIN SYMPHONIES 2/3

2E(Cd) Ashkenazy(p) Müller & BerlinSCRIABIN SYMPHONIES 3/3

3E(Cd) Cluytens & Sociétédes Concerts du ConservatoireRAVELDAPHNIS ET CHLOÉ

4E(Cd) Karajan & BerlinerBACHMATTHÄUS-PASSION 1/3

5E(Cd) Karajan & BerlinerBACHMATTHÄUS-PASSION 2/3

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