Thu 180426  不遇なシスレー/サン・マロの不遇/何とか到着(フランスすみずみ34) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 180426  不遇なシスレー/サン・マロの不遇/何とか到着(フランスすみずみ34)

 世の中には「不遇」というコトバがあって、画家でも音楽家でも科学者でも、豊かな才能をもちながら世の中に認められず、赤貧の中で人生を送り、死後30年も50年も経てやっとのことで「見出される」などということになる。

 

 いやはや、「世の中」というのはいつもいつもそういうものであって、ゴッホちゃんもカフカどんもみんなそういう不幸な一生を送った。印象派の画家に「シスレー」という男がいて、この人なんかも「不遇のひと」の典型かもしれない。

 

 シスレーは1839年生まれ。フランスで生まれたイギリス人画家である。1899年、20世紀の到来を待たずに死んだ。パリやパリ近郊の風景画に専念し、900点もの作品を残した。

 

 せっかく日の出の勢いの印象派に属していたんだから、風景画にこだわらず、モネみたいに睡蓮の絵を描くとか、マネの真似をしてランチの絵に裸婦像を描きこむとか、「売れよう」「人気画家になろう」と思えばナンボでも手段はあっただろうに、ひたすらパリの風景に集中した。

 

 印象派の評判が悪くなると、他の多くの画家たちは印象派を離れていった。しかしシスレーどんはビクともしない。「売れよう」という気はさらさらなくて、売れなくても、誰も見てくれなくても、経済的に行き詰っても、平気の平左で風景を描き続けた。

 

 彼の死後、マティスどんがピサロ君に「印象派の典型的な画家って、だーれ?」と尋ねてみた。ピサロ君も超有名な画家であるが、ピサロ君、迷うことなく「もちろん、シスレーだんべ」と喝破したという。そういう逸話を読むと、今井君なんかは思わずうるうる、両眼に熱い涙が溢れてくるのである。

20081 薔薇窓

(サン・マロ、サン・ヴァンサン大聖堂のバラ窓)

 

 ところでどういうわけか、「シスレー」で検索すると、「シスレー 画家 今井」という検索候補が上から2つ目だか3つ目だかに出てくる。ギョッとしてポチッとしてみると、「画家のシスレーって、今井とチョー似てんじゃね?」という話で盛り上がってくれている。

 

 いやはや、もちろん「似ている」と言っても、オヒゲと目つきぐらいのものであるが、そりゃ光栄もいいところ。不遇の画家シスレーどんと、ホンの少しでも似たところを見つけてくれる人が存在するなら、イチ予備校講師として、こんなに光栄なことはない。

 

 もちろん今井君なんかが自分で自分を「不遇」と言って嘆く理由はないのであって、自分で自分を不遇と思うほど、ワタクシは傲慢ではない。ワタクシは分不相応なオカネをもう四半世紀も稼ぎつづけていて、19世紀から20世紀にかけて「不遇」とセットになっていた「赤貧」にも全く縁がない。

 

 あえて赤貧の時代があったとすれば、電熱器と小さなフライパンと小麦粉だけで自己流のクレープを焼いていた松和荘時代ぐらい。シスレー流に意地でも風景画を描いて、赤貧の中を生き抜く勇気なんかなかった。

20082 要塞1

(サン・マロは、かつて海賊業で隆盛を極めた。たくさんの砦が残っている)

 

 18歳の春、マコトに軽薄に「作家になっちゃお♡」「気楽な人生を送っちゃお」と決めたわりには、うーん、マトモな文章なんかほとんど書かずにここまで来てしまった。大昔の中国では「少年は老いやすく、学なり難し」と言ったが、なり難いのは学ばかりではないようである。

 

「世の中に認められない」という場合、芸術家にとっての「世の中」とは、19世紀までは出版社、20世紀後半までは新聞社、20世紀後半からテレビに代わった。新聞雑誌とテレビが、例えばシスレーみたいな「不遇な赤貧の芸術家」を生んだ責任者と言っていい。

 

 20世紀の終盤、そこにネットというものが参入して、「ネットで火がついた」みたいな言い方が流行したが、いったんボッと火がついても、短命で終わることが多いのが特徴のような気がする。

 

 言わば「見いだすのが早すぎる」のであって、昔は遅すぎて「死後に見出された」という悲劇、今は早すぎて生まれる前に見出されてしまい、うまく成長できずに消滅の危機に瀕する。どちらがより悲劇的か、今井君なんかは頭が混乱してよく分からない。

20083 海

(現在のサン・マロは、ヨーロッパで最も人気の高いリゾート地の1つである)

 

 どうしてこんなことを長々と書いたかといえば、世界の観光地にも「不遇」という状況をよく見かけるからである。4月24日、レンヌの「斜めな世界」に感激したワタクシは(スミマセン、昨日の続きです)、レンヌから各駅停車の電車で北上、「サン・マロ」の町を目指した。

 

 サン・マロは、岬1つ隔ててモン・サン・ミシェルと隣接している。ヨーロッパ人にはよく知られたリゾート地であって、むしろモン・サン・ミシェルよりも人気が高いぐらいであるが、日本人でサン・マロを訪ねる人は少ない。「それっていったいどこですか?」と変な顔をされるのがオチである。

 

 もちろんサン・マロ本人は、自分を「不遇だ」などとは口が裂けても言いっこない。そもそも避けるべき口もない。というか、ヨーロッパ全域で人気があればそれでいいので、日本人に人気があるかないかなんか、サン・マロ君は「そんなの、どうでもいい」と吐き捨てるに違いない。

 

 だって諸君、普段の人口が5万人なのに、夏の観光シーズンになると、人口は20万人に達するというのだ。そんなにどっと人が外から押し寄せるなら、別に日本人が来なくたっていいじゃないか。

20084 浜辺

(サン・マロ海岸は、潮の干満が激しい。これは干潮時。満潮になると、手前の木の杭のてっぺんまで海に沈む)

 

 しかしワタクシは、こんな不公平を放置できないのである。日本人にとってフランスとは、パリとモン・サン・ミシェルと、+ニースがせいぜいであって、サン・マロに立ち寄るどころか、かすりもしなきゃ見向きもしない。「そんな変なところに何しにいくんだ?」の世界である。

 

 他にもそういう不公平な扱いを受けている場所が、フランスだけでもワンサとある。エトルタの海岸。マルセイユのカランク。カルカソンヌのお城。マントンの海岸。オンフルール。そして岬1つ隔ててモン・サン・ミシェルと対峙するサン・マロだ。

 

 何かのハズミでモン・サン・ミシェルだけがギュッと突出しちゃったが、エトルタ君もカランクどんも、その美しさではモン・サン・ミシェルをはるかに凌駕する。何でそんなにモン・サン・ミシェル一辺倒なのか、なぜシスレーに目を向けないのか。ワタクシは悲しいのである。

 

 そこで諸君、せめて今井君1人だけでも、サン・マロを訪ねてみることにした。レンヌから、不承不承に北上する各駅停車で1時間。ちょっと事情があって、車内の今井君はションボリ、実は「生きた心地もしない」という状況だったのだが、その理由はここには明かさない。

20085 要塞2

(一応「エメラルド色の海」ということになっている)

 

 サン・マロは、16世紀までは海賊の町だった。海賊とは言っても、海から町を襲い、人も物も底引き網式にすべて奪っていくタイプではない。同時代の地中海を800年にわたって震撼させた北アフリカのイスラム海賊とは、性格が違うのだ。

 

 こちらは「私掠船」タイプであって、付近を航行する船に一種の通行税を強要した。英雄も存在する。ジャック・カルティエである。「カナダの発見者」と言われ、サン・マロの港から現在のモントリオールまで航行したという。

 

 だから今もサン・マロには、かつての海賊の砦がたくさん残っている。岩場ごとに小さな砦があって、見晴るかす水平線までに、数えてみると10に近い砦がサン・マロの町を守っている。

 

 電車がサン・マロに近づいても、まだ工場地帯が続いている。とにかく早くサン・マロに着いてほしいのであるが、こんなに工場だらけでは、どうも有名リゾート地に来た気がしない。「ここはホントにサン・マロか」と自問自答せざるをえないのである。

 

 例えば「南サンマロ」「サンマロ南」「サンマロ入口」。そんな駅ではないか。「サンマ口」というのもありうる。もちろんこれで「サンマ・グチ」と発音するのである。

 

 しかしもしそうなら「サンマロ口」のはずであって、正しくは「サンマロ・グチ」。「サンマ・グチ」であるはずはない。そういう虚しいことをさまざまにこねくり回しながら、4月24日の今井君は何とかサン・マロ駅に到着したのであった。

 

1E(Cd) Lanchbery & The Philharmonia:MUSIC OF KETELBEY

2E(Cd) Lazarev & Bolshoi:KHACHATURIAN/ORCHESTRAL WORKS

3E(Cd) Sinopoli・Jarvi・Pletnev:RUSSIAN FAMOUS ORCHESTRAL WORKS

4E(Cd) Minin &The State Moscow Chamber Choir:RUSSIAN FOLK SONGS

5E(Cd) Santana:AS YEARS GO BY

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