Wed 180425 斜めが好き/ツギハギだらけ/レンヌの斜めな世界(フランスすみずみ33)
人というものは一般に「曲がったことは大キライ」であって、何にせよ一直線に突っ走ることを第一と考える。テレビに登場するヒーローや正義の味方は「オレは曲がったことはキライなんだ」と叫び、または紅茶をかき混ぜながら「曲がったことはいけませんねえ」と静かに微笑する。
幼いころから「曲がったことはいけません」と言われて育つから、コドモはみんな一直線の人生を理想と考えるのである。開成中→開成高→東京大学でなければダメだし、灘中→灘高→東大理Ⅲと進む人生こそ理想、雑誌記事の論調はほぼそれで一致する。
すべて四角四面な正論で塗り固めた老舗の大新聞なんかでも、結局のところ基本はそうで、「コドモ4人を全員東大理Ⅲに合格させました」という素晴らしいママがもてはやされるのも、やっぱり「ひたすら一直線に前進でなきゃいかん」という発想の表れである。
(フランス・レンヌで、傾いたオウチの群れに感激する 1)
表向きは「みんな違って、みんないい」というスタンスのはずの大新聞社も、週刊誌のレベルになると1年中「東大合格高校別ランキング」ばかりやっているのをみると、その社の本質が透けて見える。
結局すべての尺度は「東大」、どれほど一直線に進めるか、それを人を計るモノサシにしているのである。「まっすぐ大好き」「挫折の多い曲がりくねった人生はいけません」。そういうことである。
しかし諸君、豪速球の本格派投手も確かに素晴らしいが、ゆるーいボールや変化球を丁寧に積み重ねて確かな実績を残していくような人生にも、深い味わいを感じなければならない。
四角四面、すべて直線でできた人生、その直線がすべて垂直に交わって、ブザマに折れ曲がったり、互いに斜めに交わったり、そんな汚らしいことは一切ナシ、そういうエラーい人間ばかりになったら、それこそ世の中は味気ない。
(フランス・レンヌで、傾いたオウチの群れに感激する 2)
諸君、ワタクシは挫折が大好きだ。真っ直ぐより、斜めのほうが面白いじゃないか。「もしも『斜め』がなかったら」、そう想像しただけでゾッとする。そんな無味乾燥な世界はキライだ。曲がったものが大好き、斜め礼賛、斜めだからこそ、世の中は面白い。
そもそも諸君、もしも斜めがなかったら、三角形が存在しなくなる、三角形がなければ、三角関数も生まれなかった。考えても見たまえ、sinもcosもtanもなかったら、数学の授業がつまらないじゃないか。物理学の発展だって、元は「斜めがあったから」なんじゃあーりませんか?
(フランス・レンヌで、傾いたオウチの群れに感激する 3)
斜めの語源を知っているかい?「ななめ」はもともと「七め」であって、中世までは「なのめ」と呼ばれた。七日と書いて「なのか」と読むのと同じことである。10を基本とすれば、4・5・6あたりがピーク。7からは下り坂だ。だから7こそ「斜め」の代表選手、そういう説である。
「ご機嫌ナナメ」という表現があるように、「斜め」はやっぱりプラス評価されない。むかしむかしの日本では、今と時刻の数え方が違っていて、「三つどき」「七つどき」などと言ったが、その七つ時になると、だんだん日が傾いていく。
だから諸君、やっぱり斜めはピークを過ぎた感じ。よくない感じ。日が翳ってきて、何となく薄暗くて、垂直・水平・正面・豪速球、そういう四角四面なものから顔を背けたイメージ。ダメなやつ・失敗作、その種の人や物を嘲ってつかうのである。
(レンヌ大聖堂。こんな立派な大聖堂も存在する)
しかしワタクシはやっぱり「だからこそ味わい深いんじゃないか」と思うのである。真っ直ぐだけの豪速球で人生を突っ走ってきて、「失敗なんかしません」「挫折の経験なんかありません」というオカタほど、たった一度の挫折で致命的に傷つき、立ち直ることができない。
立て直すことができないと、それこそ「潔く」すべて放棄し、カンペキでないものはみんな無意味だと言い放ち、破壊し、今までやってきたことをみんな放擲して「1からやり直し」という態度に出る。いやはや、マコトにコドモっぽい。
(フランス・レンヌで、傾いたオウチの群れに感激する 4)
傷ついた部分を我慢強く修復し、ジュータンでも上着でも斜めにいっぱいツギをあてて、ガマンして丁寧に丁寧に生きる。決してカンペキを求めない。
100%カンペキなどという非人間的なことは、むしろ人生にあってはならないので、若い諸君が遠い将来40歳とか50歳とか、それこそピークを過ぎて「七め」に差しかかったら、むしろ「人生ツギハギだらけ」であることを誇りにすべきである。
いやはやワタクシの人生は、まさにそのツギハギだらけであって、自力で建てたホッタテ小屋はつっかい棒だらけ。ジュータンもツギハギ、上着なんか、もうツギハギだけで出来ているような代物であって、元の生地がなんだったか、自分でも分からない、言わばそんなアリサマである。
(フランス・レンヌで、傾いたオウチの群れに感激する 5)
しかし諸君、そこにこそサトイモ君のアイデンティティがあるのであって、「港区生まれ港区育ち、貴族の血をひき、麻布中高→東大を首席で卒業、プリンストンで博士号をとりました」みたいなスーパー♡エリートの直線人生とは、完全に世界が違うのである。
世界を旅していても、どうしても斜めに魅せられる。斜めに傾いちゃったものをガマン強く修復して、丁寧に丁寧に残してきたものが、世界にはたくさん存在する。決して「ピサの斜塔」だけではないのだ。
一番好きなのは、ヴェネツィア・ブラーノ島の教会の鐘楼である。これほど斜めになっちゃった建物は、世界に類をみない。息も絶え絶えであって、あと何年もつか分からない。鐘楼の窓が「助けてくんろ」と訴えかけているようである。
アムステルダム旧市街の傾いたオウチの群れも大好きだ。何しろ「世界は神様が作ったが、オランダはオランダ人が作った」と豪語するほどの人々だ。海岸の大湿地帯を埋め立て、または干拓し、歯を食いしばって建てたオウチは、もともと地盤が悪いせいか、その多くが大きく傾いている。
その傾いたオウチどうしが、互いに支え合って何とか生き延びている。その姿はまさに感動的であって、「オマエがどんなに傾いてもオレたちが支えてやる」と、自ら激しく傾いて悲鳴をあげそうなヤツらが、気丈に助けの手を差し出しているのである。
(ここまで曲がっていたら、もう誰にも文句は言わせない)
ノルウェー・ベルゲンの旧港付近にも同じような一角があるし、今回4月24日に旅したフランスのレンヌも、まさにギュッと傾いたオウチの群れが、互いに助け合って生き残っていた。
レンヌは、パリからTGVで1時間半。典型的な大学町であって、派手ではないがセンスのいい店が並ぶ。大規模再建中のレンヌ駅から徒歩10分あまり、木組みの家がズラリと並んだ一角に入ると、諸君、斜め大好きな今井君は、思わず歓声をあげた。この斜めぶりは、尋常なことではない。
21世紀のカメラは斜めがキライで、斜めなものを写しても、勝手に垂直&水平に修正してしまう。いわゆる「カメラがウソをつく」という現象であって、空はあくまで青く、ほとんど群青か藍色に、くすんだ森でも鮮やかなグリーンに写し出す。
アムステルダムでもベルゲンでも、カメラが正直に斜めのものを斜めに写してくれないのがもどかしかった。さすがにブラーノ島の鐘楼だけは、曲がったものをしっかり「曲がっている」と表現してくれたが、それでもその斜め感覚が不足するのである。
(気球をたくさん浮かべた雑貨屋。レンヌには、面白いお店が多かった)
ところが諸君、レンヌは違った。斜めのお家を、マコトに正直に斜めに写してくれたのである。
「ここまで斜めでは、もうワタシの手には負えません」
「勝手に傾いててください」
「ワタシは、もう知りませんよ」
おせっかいなカメラ君も、そっぽを向いて諦める。そのぐらいの激しい傾きぶりなのであった。
1E(Cd) Ashkenazy(p) Müller & Berlin:SCRIABIN SYMPHONIES 3/3
2E(Cd) SECRET OF ISTANBUL
3E(Cd) 1453
4E(Cd) Jarvi &Goteborg:GRIEG/PEER GYNT 1/2
5E(Cd) Jarvi &Goteborg:GRIEG/PEER GYNT 2/2
total m125 y665 d23135