Thu 180215  足立区綾瀬の大盛況/常磐線の思い出/N山先生との日々/赤兵衛は健在だった | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 180215  足立区綾瀬の大盛況/常磐線の思い出/N山先生との日々/赤兵衛は健在だった

 3月5日から8日まで、マコトにタイミングよく4連休が入って、サトイモ君はすっかりリフレッシュ。へとへとに疲れ切ってシワのよったサトイモから、ピチピチ水の滴る爽やか新鮮サトイモに戻って、3月9日を迎えたのである。

 

 この日は、長い間待ちに待った「綾瀬での公開授業」。綾瀬とは、東京都足立区のど真ん中、我が人生の相棒 → 地下鉄千代田線の北の終点だ。

 

 千代田線はそのままJR常磐線に乗り入れて、松戸 → 柏 → 我孫子 → 茨城県取手までひた走るのであるが、とりあえず「東京メトロ」の担当はここ綾瀬が終点なのである。

 

 いやはや、いろんな意味で綾瀬は懐かしい。今井君の20歳代は、ほぼ最初から最後まで千葉県松戸で費やされた。うぉ、何とも地味である。港区男子とか、渋谷区男子とか、銀座の男ないし六本木のプリンス、その類いの青春とは完全に無関係。来る日も来る日も松戸で目覚め、松戸で眠りについた。

 

 正確に列挙すれば、19歳の9月から24歳の5月までが北松戸「松和荘」。24歳の5月から26歳の3月までが松戸駅前「セザール松戸」。26歳の4月から29歳の6月までが、新松戸の奥の奥、江戸川べりの「テラスエルム新松戸」の日々だった。

 

 その直後に埼玉県に移動し、南浦和と春日部と東鷲宮の日々が7年続く。今ではアニメの聖地としてその名も高き鷲宮であるが、今井君が過ごした頃の鷲宮町は、3月になっても4月になっても寒風が吹き荒れる北関東の田舎町。いやはや、マコトにツラい日々であった。

19615 納豆巻き

(足立区綾瀬「赤兵衛」にて、人生で最もショボい納豆巻を食す)

 

 しかし諸君、考えてみれば、この松戸と埼玉の日々があったからこそ、今井君は挫折から立ち直ることができたのである。挫折1:東京大学に入学を拒絶された衝撃。挫折2:電通のエリートの皆様に全くついていけなかった衝撃。要するに大学でも会社でも全然ダメだった強烈なダブルの衝撃から、松戸と埼玉が立ち直らせてくれたのだ。

 

 そういう松戸の日々の結節点にあったのが、「綾瀬」という街である。千葉県我孫子が始発の常磐線各駅停車が、松戸から金町の間で江戸川を渡ってようやく東京都に入り、さらに亀有 → 綾瀬 → 北千住 → 町屋と進んで、西日暮里で山手線と交わると、やっと「本格的に都内だ」という気分になる。

 

 しかし諸君、綾瀬で乗務員がJRから東京メトロに交代すると、田舎者のワタクシなんかは

「おお、やっと東京だべさ」

「東京の人はおっかねえなー」

「東京の人はセカセカしてんべさ」

「東京のコドモは、みんなヒネクレてんべさ」

みたいなマコトにステレオタイプな感慨に浸るのである。

19616 控え室

(足立区勤労文化会館の講師控え室。すげー会議室でござる)

 

 大学に通うにも、会社に通うにも、行き帰り必ずこの綾瀬を通ったのである。「会社」という話になると、帰りはほとんど「銀座からタクシー♡」「六本木からタクシー♡」というたいへんバブルな生活をしたのであるが、少なくとも往路は二日酔いの症状に耐えながら綾瀬を経由した。

 

 初めて綾瀬の駅に降りたのは、30歳になる直前のことである。河合塾や駿台の講師になる前に、アルバイト気分で埼玉県の小さな塾で仕事をしていた。「校舎長」みたいな立場で、現代文や英語や日本史の授業もしたが、仕事の中心は管理と生徒募集。ワタクシの人生で一番ツラい時代だった。

 

 そういう日々、何故かハナシがあって仲良くなったのが日本史の講師のN山先生(仮名)。本名はN川先生だったのだが(笑)、彼は九州大学の卒業。大学院には進まず、「学部卒」のまま学者を目指した人である。

 

「学部卒」と「修士課程修了」「博士課程修了」の間には、普通なら決して乗り越えられない大きなカベがあって、学部しか修了していないという経歴で学者を目指すのは、棒高跳びの選手がポールを持たずに7メートルのバーに挑むようなもの。ハッキリ常識はずれなのである。

 

 しかしN山先生は意気軒昂であった。

「確かに学部しか出ていません」

「経済的な理由で、大学院には進学できませんでした」

「だから今は塾でバイトするしか生き方を選択できないんです」。

N山先生は苦渋を噛みしめるように語るのだった。

 

「しかしすでにかなりの業績があります」

「ほら、見てください。Y社の『日本史小辞典』ですが、私の名前が著者一覧にチャンと出てますよ」

そう言って差し出してくれた「日本史小辞典」の巻末に、間違いなくN山先生の名前が掲載されていたのである。

19617 フルーツ

(足立区綾瀬で、素晴らしいフルーツをいただく)

 

 彼との飲み会は1週間に1回、足立区綾瀬の「赤兵衛」だった。あれから幾星霜、名店「赤兵衛」は経営を拡大して「綾瀬西口店」を開店したが、当時は今の「綾瀬東口店」のみ。床が土間のまま、土の地面がむき出し、戦後のドサクサそのままの驚くべきお店で、深夜1時までN山先生と熱く語り尽くした。

 

 たいへん恥ずかしいコトバではあるけれども、もしも「青春」とか「情熱」とか「友情」というものがこの世に存在するとすれば、おそらくサトイモ君の青春というのはあの綾瀬の日々であって、学部卒で学者を目指す無謀なN山氏の情熱を、ワタクシも校舎長の立場で懸命に応援しようと決意したのだった。

 

 足立区綾瀬での公開授業を「待ちに待った」と表現したのは、あの頃の熱い記憶をたどるのに、どうしても再び「赤兵衛」に行ってみたかったのである。

 

 N山先生とのつきあいも、いつの間にか絶えてしまった。今はもうどうしていらっしゃるか分からない。素晴らしい学者になられたかどうか、完全に音信不通である。しかし「赤兵衛」は残っている。深夜まで連日あんなに熱く語り合った店が、綾瀬の駅のすぐそばに今も存在するのである。

19618 綾瀬

(綾瀬、期末試験の真っ最中なのに115名の大盛況)

 

 前日の夜から激しく降り続いた春の雨は、午後3時ごろに小止みになった。午後5時、それでもまだ時おり落ちてくる雨をついて、千代田線で綾瀬に向かった。傘はもちろんナシ。熱い記憶をたどるのに、傘はかえって邪魔なのである。

 

 千代田線の南の始発・代々木上原から、北の終点・綾瀬駅まで、20近くの駅に全て停車して40分。綾瀬に着くと、再び春の雨が降り出した。「赤兵衛」は、懐かしの東口店も、新しく10年ほど前にオープンした西口店もどちらも健在である。

 

 これじゃ諸君、「いったい綾瀬に何しにいったの?」と言われかねないが、綾瀬校での公開授業は、19時開始、20時40分終了、出席者115名。校舎ではとても入りきれないので、「足立区勤労文化会館」という恐るべき昭和なハコモノを借りて、115名(完全外部生50名を含む)を何とか収容したのである。

 

 使用したテキストは「B」。お馴染み大爆笑が100分たえまなく連続するバージョンであって、あまり他塾や他予備校が校舎を展開したがらない綾瀬の駅前は、高校生諸君の明るい爆笑に包まれた。

19619 赤兵衛

(綾瀬、「赤兵衛 東口店の勇姿)

 

 終了後、「赤兵衛西口店」はまさに「勤労文化会館」の斜向かいに存在するのであるが、降り続く小雨の中、今井君はサードへの盗塁を試みた俊足ランナーよろしく、懐かしの赤兵衛に走り込んだのである。

 

 店の雰囲気は、昔よりはるかに上品である。足立区に勤める勤労者が圧倒的に多いのであるが、オジサマたちはワイシャツにネクタイ。オバサマもオネーサマも勇ましいパンツスーツ。喫煙者が多いのはともかく、むかしむかしの綾瀬とはハッキリ一線を画するものがあった。

 

 藤岡弘さんと何故かクリソツなオジサマ従業員と微妙な掛け合いを演じながら2時間、今井君は綾瀬「赤兵衛」での久しぶりの夜を満喫したのである。

19620 アーケード

(綾瀬、ヨサゲな深夜の飲食店街)

 

 夜10時半、あの頃とは反対の方向に向かう千代田線に乗り込んで、はるかなオウチを目指した。確かに諸君、「納豆巻」のショックは大きかったけれども、この感激がショボい納豆巻なんかで減退するわけはないのである。

 

 小雨の中を家路を急ぎつつ、「N山さんとまた会ってみたいな」と呟いているサトイモ入道なのであった。「九州男児ですから」があの頃の口グセだったN山さん。今どうしていらっしゃるか、是非また熱く語り合ってみたいのである。

 

1E(Cd) Casals:BACH/6 SUITEN FÜR VIOLONCELLO 2/2

2E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 1/6

3E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 2/6

4E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 3/6

5E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 4/6

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