Tue 180206  繊維工業の隆盛/東京で文楽/高校の先生対象・センター講評会/声が出ない | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 180206  繊維工業の隆盛/東京で文楽/高校の先生対象・センター講評会/声が出ない

 ホンの7〜8年前まで、大阪での宿泊はいつも淀屋橋の「ANAクラウンプラザホテル」に決めていた。まだタクシーの運転手さんなんかには、「全日空ホテル」と言った方が通じやすかった。「ああ、ANAクラウンね」とスパッと分かってもらえるようになったのは、ここ最近のことである。

 

 淀屋橋から堂島までは、徒歩で15分ほど。一時人気が沸騰して連日大行列のできていた「堂島ロール」の店も、ANAクラウンプラザホテルの間近である。

 

 2011年3月中旬、東日本大震災の直後にも大阪で仕事があって、淀屋橋に一泊した。東京でコメ不足が心配されていたし、当時はワタクシの実家が宮城県仙台市にあったから、大震災直後の仙台に持参するためにも、堂島でコメを10kgほど買い込んで行こうと思った。

 

 江戸時代には、日本経済を支配した「札差」の巨大店舗が並んでいたあたりだ。まさか「堂島で米がない」という事態になるとは思わなかった。あの大震災から間もなく7年。3月に入るとさすがに粛然とせざるを得ないが、あの時の堂島で買えた米は、5kgの袋が2つきりだった。

 

 そのお米をホテルから宅配便で東京に送ろうとしたら、ホテルの人に「保証できない」と告げられた。「あっちのほうは、道路事情が不安定になっていまして」というのである。まさにその「あっちのほう」から出張に来ていた今井君としては、ますます粛然とせざるを得ないのだった。

 

 最終的には、そのオコメをスーツケースに入れて、3月23日、やっと飛び始めたJALの東京−山形便に乗り、山形空港経由、タクシーの運転手さんと厳しい交渉をして、3万円で仙台まで運んでもらった。

 

 コメ10kgに、お茶各種、インスタント食品各種。震災直後、まだライフラインも復旧していない仙台に1泊して東京に帰った。だから今でも淀屋橋から堂島あたりを歩くと、大震災の日々をまざまざと思い出すのである。

19562 市ヶ谷1

(2月23日、市ヶ谷で高校の先生方対象のセンター試験講評会。60分、マコトに熱く盛り上がった)

 

 その堂島に、日本を代表する繊維の大企業「東洋紡」がある。1882年に「東洋紡績」として設立。バレーボールの強豪として、大林素子の大活躍でも有名だ。

 

 繊維会社独特の→キャンペーンガールも有名で、真鍋かをり・井川遥・ちょっと古いが「とよた真帆」というオカタも、元はと言えばここのキャンペーンガールだったらしい。

 

 日本の女子スポーツは、長く繊維企業とともにあった。こういう話題になった時、まあ誰でも話題にするのは「東洋の魔女」であって、それが「ユニチカ」の前身 → ニチボー貝塚である。

 

 ニチボー貝塚バレー部の258連勝は、まさに驚異の記録である。1961年のヨーロッパ遠征で24勝0敗。「東洋の魔女」のニックネームは、この時に誕生した。

 

 1964年の東京オリンピックだって、日本代表とは言っても、ほぼニチボー貝塚の単独チームに近い。企業の単独チームがオリンピックで金メダルだなんてのは、いやはやものすげーこっちゃねーかい。

19563 文楽1

(2月23日、久しぶりに東京の国立劇場で文楽を見た。竹本織太夫の襲名披露公演。国立劇場は超満員になった)

 

 ニチボーとは、「大日本紡績」の短縮形。1889年、「尼崎紡績」として始まった企業である。1918年に大日本紡績に改称。おお、第1次世界大戦の終結直後じゃないか。1964年、東京オリンピックの年に短く「ニチボー」に改称した。ずいぶん思い切ったものである。

 

 その社名がさらに「ユニチカ」に変わっちゃった時、繊維の会社として「チカ」という発音がどうもイヤだったのを記憶している。「セーターを着てチカチカ、パンツをはいてチカチカ、マフラーを巻いてチカチカ、そんなのイヤだな」と、仲間同士で語り合ったのを覚えている。

 

 その「ユニチカ」が、実はUnitedの「ユ」と、ニチボーの「ニチ」と、Companyの「カ」を組み合わせたもんだと知ったのは、はるかに後のことである。ボクチンは、やっぱりユニチカよりニチボーがよかった。

19564 文楽2

(大阪に比較して、東京の文楽はイマイチ華やかさに欠ける) 

 

 スポーツがあれば、同じようにキャンペーンガールも存在する。もともと紡績の会社は、明治から昭和の女子の集団就職先。「ガール系は任せとけ」であって、古くは手塚理美に紺野美沙子、夏川結衣に内田有紀に本上まなみに米倉涼子、錚々たるメンバーじゃないか。

 

 1964東京オリンピック当時に、ニチボー貝塚を相手に苦戦を強いられていたバレー部のライバルが「ヤシカ」と「倉紡倉敷」である。「ヤシカ」は今日の話題からそれるから省略するとして、倉紡とは今のクラボウ、1888年に創業の倉敷紡績の短縮形。1926年に「倉敷絹織」を設立。現在の「クラレ」である。

 

 ワタクシは、何にも知らない愚かなサトイモに過ぎないが、倉紡(クラボウ)は繊維メーカーとしては珍しく「キャンペーンガール」みたいなものに参戦していないんじゃないか。旭化成も東レも帝人もカネボウも、みんな同じようなキャンペーンを展開しているのに対して、おお、硬派で好感が持てる。

 

 カネボウは、1887年、東京墨田区の墨堤通り近くで創業。1980年代に映画館に入れば、予告編とともに「Kanebo, For Beautiful Human Life」と、シツコイぐらいに繰り返された。

 

 クラボウと違って、こちらはキャンペーンガールにもマコトに熱心。麻生祐未・鈴木京香・飯島直子。いやはや、あんまり張り切りすぎたのか、2008年に会社が消滅。いまは「クラシエ」として挽回中のようである。カレーを食べに春日部に向かうたび、東武線「鐘ヶ淵」の寂れた駅風景を眺めて、またまた粛然とする。

 

 こうしてみると、日本の1880年代とは、ホントに富国強兵の真っただ中だったのである。鐘紡も倉紡も大日本紡績も東洋紡も、みんな1880年代の誕生。そのことだけで、十分に感激に値する。

19565 文楽3

(竹本織太夫襲名で、国立劇場もマコトにおめでたい)

 

 ところで諸君、いったいぜんたいどういうわけで、今日の今井君はこんなに紡績会社のことばかり書いているんだろうか。それはでござるね、広島からのヒコーキが40分遅れ、「新松戸の公開授業に間に合うかどうかビミョー♨」という真っ最中に、「実はいま、東洋紡に勤めています」というモト生徒に話しかけられたからである。

 

 どうやら彼も、同じヒコーキに乗っていた様子。「20年前近く前、代々木ゼミナールの名古屋校でナマ授業を受けてました」とおっしゃる。するともう、35歳を超えている。東洋紡の中でもすでに中堅というか、中核をなす研究者に成長されたに違いない。代ゼミで理科系とは、よく頑張りましたね。

 

 ホントなら「どうですか、そのへんで一杯?」とお誘いするところであったが、何しろ諸君、「何が何でも新松戸へ!!」と気が急いている最中だ。偶然に隣り合った京急線の車内で、品川まで熱く語り合った。ワタクシは品川で常磐線の電車に突進、あえなく別れを告げた。

19566 市ヶ谷2

(2月23日、根性のサトイモ。のどの調子が悪い中、高校の先生方を相手に、盛り上げられるだけ盛り上げていく)

 

 翌日23日の今井君も、マコトに忙しい。

① 14時半から三宅坂の国立劇場で人形浄瑠璃を満喫

② 19時から20時まで、市ヶ谷のカンファレンスセンターで、高校の先生方対象のセンター試験講評会

③ 講評会でともに講演した数学のS田先生、国語のI野先生とのお食事会

というわけで、忙しくて忙しくて、こりゃ楽しくてたまらない。

 

 ただし諸君、3日前の広島県福山あたりから、のどの調子がよろしくない。前々日の三原で声が出なくなってガラガラ声、前日の新松戸はもうのどが詰まり切ってヒコヒコ声、この日の市ヶ谷は声を絞り出すのがやっとというアリサマだった。

 

 21世紀日本の人々はマコトに厳しいから、「自分の体調管理もできないのか?」という罵声も飛んでくるだろうが、2018年2月のスーパーハードな今井スケジュールに免じて、ここは許してくれたまえ。

 

 と同時に、23日の市ヶ谷で、スーパーハードな2月の南船北馬&東奔西走に一応の区切りがついた。早春スケジュールも、ついに前半が終了。連戦連勝、しかもすべてが完勝。やっぱりサトイモ君は、常にこうでなくちゃいかんね。

 

1E(Cd) AFRICAN AMERICAN SPIRITUALS 2/2

2E(Cd) Maria del Mar Bonet:CAVALL DE FOC

3E(Cd) CHAD Music from Tibesti

6D(Pl) 国立劇場文楽公演:花競四季寿/豊竹咲甫太夫改め六代目竹本織太夫襲名披露口上/摂州合邦辻(合邦住家の段):国立劇場小劇場

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