Fri 171103 だがちょっと待ってほしい/楕円サトイモの旅/湯豆腐・毘沙門堂・平等院 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 171103 だがちょっと待ってほしい/楕円サトイモの旅/湯豆腐・毘沙門堂・平等院

 人の世はマコトに不思議なもので、「何でそんなのが流行するの?」と驚くようなことが、一世を風靡することがある。10年ほど前の日本に「朝日新聞の『天声人語』を毎日書き写しましょう」と言ふ、意味の分からない行動が流行した。

「朝日新聞に負けてはいられない」ないし「指をくわえて見ているのは業腹だ」と言うことなのか、読売新聞サイドからも「我が社の『編集手帳』を書き写しましょう」と言い出した。

 自分たちが言い出したことだから、新聞社の論調はおおむね好意的。「素晴らしいことだ」「もっともっとこの輪を広げようじゃないか」ということになった。学校の先生はその多くが新聞大好き派だから、学校の授業で「書き写し」をオススメになるセンセも少なくなかった。

 だが、ちょっと待ってほしい。「人の書いた文章をそのまま書き写す」とか「他者の描いた絵をそのまま模写する」というのは、自らの個性の封殺につながるたいへん危険な行動である。

「人は誰でもかけがえのない個性を大切にしなければならない」。先生方や新聞サイドの論調だって普段は「個性を大切に」であって、まさか「他人の書いた文章を無批判に書き写す日々」なんか、強力にオススメしてくるとは思わなかった。
紅葉1
(今年の京都の紅葉は美しかった。詳細は、明日)

 もちろん、日本人には昔から「写経」という美しい行動があって、静まり返ったお寺の片隅でひたすら心を空にありがたいお経を書き写すなら、そりゃ真っ黒に穢れた心もキレイに洗われるに違いない。

 しかし諸君、それは「お経」だからいいのである。つい15年前に「松尾芭蕉の『奥の細道』を書き写しましょう」なんてのも流行したが、まあそれもヨシとしよう。お経や芭蕉や「徒然草」「方丈記」ぐらいなら、書き写して心が洗われないものでもない。

 しかしそれが「新聞社のコラム」となると、うーん、どうだろう。コドモの心が新聞社色に染まっちゃったら、個性もパーソナリティも何もなくなっちゃうじゃないか。

 そりゃ「単なる模写」だって、学習者に欠かせない学習行動ではある。ミケランジェロの模写、セザンヌの模写、モネの模写。そういうモシャモシャした練習から、画家の全てが始まる可能性も否定できない。

 だが、ちょっと待ってほしい。その模写はミケランジェロやセザンヌの絵だから「頑張りたまえ」とニッコリ出来るのであって、新聞社のコラムとか、週刊誌に連載中の小説とか、演歌の作曲家の楽譜とか、そんなのを毎日ありがたく模写してて、果たして大丈夫なのかい?
菊水
(京都・南禅寺そば、湯豆腐の名店「菊水」を訪ねる)

 むかしむかし20世紀の後半から終盤にかけて、「新聞社に就職する」というのが文系の大学生たちの憧れの的だった時代があった。新聞社への就職者数を、今の大学受験予備校と同じように「実績」として掲示する「マスコミ予備校」が林立していた。

 どんな授業をしていたかと言うに、やっぱり「天声人語のマネ」なのである。新聞社を目ざす若者たちは、みんな天声人語とソックリな文章を書き続けた。まあ一種のマスコミ修業であるね。

 そして21世紀、現在の新聞社の中堅から上は、その当時マスコミ予備校に通ったヒトビトがズラリと並ぶのである。20年経過しても30年経過しても、書く文章はみんな天声人語ソックリ。やたらに「だがちょっと待ってほしい」が多い。

「だがちょっと待ってほしい」については、すでにすっかり話題になっている。朝日新聞だけではない。読売・毎日・産経・日経、地方紙までほぼ例外なしに「だがちょっと待ってほしい」のオンパレードだ。

 まず第1パラグラフで、世の中の動向や政府の方針、ないし与党幹部の発言をカンタンに紹介する。そして第2パラグラフの冒頭に「だがちょっと待ってほしい」が来て、自らの意見を「庶民の一員」として書き連ねていく。
湯豆腐
(菊水の湯豆腐。詳細は明日)

 だがちょっと待ってほしい。今井君は、「最初から最後までカンペキに書き写す」という模写には、どうしても賛成できない。誰にでもスンバラシー個性があって、途中まで書き写しているうちに頭も心もカッカと真っ赤に燃え始め、「自分ならこの先をこう続けるけどな」とヒラメク瞬間があるはずだ。

 その時、お経やミケランジェロを相手に、まさか「自分ならこう続けます」と我が道を行くわけにもいかないだろうけれども、相手が新聞社の人なら「だがちょっと待ってほしい」の先を、自らのキャラクターに任せて、ズンズン自分なりに進めていったらいいじゃないか。

 ゴッホの模写を始め、星月夜でも糸杉でも黄色い部屋でも、とりあえず「ゴホッ」とか「便箋と」とかになったつもりで、そっくりそのまま模写していく。しかし諸君、2日か3日して「あたしゃ、こんなふうに描きたいわな!!」と、突如として我が道を突進する。

 もちろんそれが、他者の目からは噴飯ものに見えるかもしれない。「あーあ、素直に模写だけ続ければいいものを」と、失笑・冷笑・嘲笑・憫笑の対象になりかねかい。

 しかし例えば太宰治を模写して、メロスを激怒させたあと、そのメロスが一気に裏切り者の大悪党に変身していく姿を描くのも悪くない。あるいは臆病に小さく裏切るたびにヘナヘナ自らの裏切りを嘆く小悪党を描けば、太宰治の換骨奪胎として評価されるかもしれない。
毘沙門天
(京都山科「毘沙門堂」。詳細は、明日)

 旅だって、同じである。日本のガイドブックというものは、さかんに「モデルコース」を提示してくる。旅の前にネット情報をポチポチやっていれば、誰だって「モデルコースどおりになぞってみる」という安易な行動に走りたくなる。

 だがちょっと待ってほしい。モデルコースをなぞりはじめて数時間、長い旅なら数日後、誰だって「オレならこの後はこう続ける」「自分的にはここから方針を変換したい」と考える瞬間があるはずだ。その時こそ誠実にその細道を突き進んでみるべきなのである。

 外国旅行でもそうだし、出張ついでの小旅行でも同じこと。今井君の旅は、坂道を転げ回るサトイモよろしく、自らのイビツな楕円形を逆手にとって、マコトに自由にその細道を突進する。

 キウィでもラグビーボールでもサトイモでも同じことであって、人生の妙味はその楕円ぶりにあるんじゃないか。完全な球体では、偶然を楽しむチャンスが少なすぎる。いわゆる「敷かれたレールの上をひた走る」「最後まで素直に書き写す」という道しか残っていない。
毘沙門市
(毘沙門堂前では、毘沙門市(またの名を「最澄さん」)開催中)

 そこへ行くと、ワタクシは生まれながらの短足サトイモであって、楕円は楕円なりの必然に従っているのではあるが、少なくとも転がっていく道に閉塞感はない。「誰かの言いなりになっているんじゃないか」という危機感も不満も鬱積しない。だって、全然言いなりじゃないのである。

 だから、大阪に出張し、そこから富山に回り、その途中に京都で紅葉やらお蕎麦やら湯豆腐を満喫する。広島に出張したはずが、「あれれ、山口で蒸気機関車のケムリを吸い込んでるぞ」なんてのもある。

 いなり寿司、白海老づくし、にしん蕎麦、牛タンに寿司テンコ盛り、生牡蠣にヒレカツにジンギスカン、胃袋まで楕円形に膨らまして悦に入っていれば、そりゃ病気にもならないし、心も肉体も疲労する気配はちっともない。お酒もナンボでも強くなって、いやはや、こりゃ楕円の勝利でござるよ。

 神出鬼没 ☞ 楕円サトイモな京都の小旅行は、① 南禅寺近くで湯豆腐 ② 地下鉄で蹴上から山科へ、「毘沙門堂」の紅葉を満喫 ③ さらに地下鉄で「六地蔵」から「宇治」へ、宇治平等院で再び紅葉を満喫というルートを選択した。

 まあ諸君も「南禅寺の湯豆腐」あたりまでは天声人語よろしく書き写しをやって、山科あたりから「自分ならこう進む」をやってみたまえ。ただし今、「宇治の平等院」は何が何でも必須と信じる。詳細は、明日の記事で。

1E(Cd) Solti & Chicago:BRAHMS/SYMPHONY No.2
2E(Cd) Solti & Chicago:BRAHMS/SYMPHONY No.3
3E(Cd) Solti & Chicago:BRAHMS/SYMPHONY No.4
4E(Cd) Akiko Suwanai:DVOŘÁK, JANÁĈEK, and BRAHMS
5E(Cd) Menuhin:BRAHMS/SEXTET FOR STRINGS No.1 & No.2
total m17 y2116 d22062