Sun 170730 キューバ革命広場で思うこと/多様なのがいい(キューバ&メキシコ探険記31) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 170730 キューバ革命広場で思うこと/多様なのがいい(キューバ&メキシコ探険記31)

 革命広場は、広大である。キューバに限らない。20世紀の社会主義革命は、広場の広大さで勝負した。赤の広場も天安門広場も、その面積において他に遅れをとることを屈辱と考えた人々の作品である。

 その余りに広大な広場を、満面に笑顔をたたえた人民が、歓呼の声をあげながら埋め尽くす。どの笑顔もみんなおんなじで、BさんとCさんの区別をつけることは困難であるが、社会主義の世の中では、個々の笑顔の区別をつけることは厳禁である。みんな平等の笑顔でなければならない。

 人民の歓呼に応えて、自ら熱烈に拍手しつつ偉大な指導者が壇上に姿を現す。余りに広場が広大だから、いま壇上でこれまた満面の笑みを湛える偉大な指導者がホンモノなのかどうか、人民には判断できないし、その判断は人民の仕事ではない。

 人民の仕事は、労働戦士に徹することである。兵士の制服の縫製にあたる縫製戦士もいれば、洗剤工場の洗剤戦士、キューバであれば葉巻工場の葉巻戦士、ラム酒戦士やバナナ戦士、ロブスター戦士もきっと存在する。軍事色の強い国家であれば、砲弾戦士や航空部品戦士がズラリと並ぶ。
ゲバラ
(キューバ、革命広場にて)

 人民の合言葉は、もちろん「進め、進め」であって、とにかく数値目標に向かって前進&前進、5カ年計画で策定された数値に1歩でも2歩でも接近し、1日でも2日でも他に先んじて、目標数値を達成し、抜き去り、当初の目標をはるか眼下に見おろす地点に到達しなければならない。

「力あわせ、未来をひらく」。イメージはそれである。偉大な指導者が先頭に立って巨大な荷車を引っ張り、明るい未来を確信する人民が数百・数千、いや数万、おのれの持てる力すべてを出し切って荷車を押し、みんなの力で国家目標の数値達成に邁進する。

「1人ではなんにも出来ないが、みんなが力を合わせれば、どんなことでもやり遂げられる」。そういうことである。「1人では何もできない」のヒトコトを否定するのは許されない。「自分は1人で個性的に生きたい」みたいなことを言うのは、脱落者であり、落伍者であり、裏切り者である。

 やがて広場にパレードがやってくる。数えきれない戦車を先頭に、もちろんミサイル、一糸乱れぬ歩兵隊の行進。上空では空軍のヒコーキが模範飛行を演じ、広大な広場は人民の歓呼に溢れ、偉大な指導者は笑顔で頷いて、さまざまな石油類の排気ガスのニオイに包まれる。
お店
(ハバナ、市民が買い物に集まる店)

 キューバ革命から半世紀以上が経過し、ハバナの革命広場には、往時を忍ばせるものは見当たらない。20世紀の喧噪が遠のいた広場を、緩やかな4月の風が吹き抜ける。

 実は4月18日(今井君のキューバ滞在3日目)、カリブ海のはるか南から、大きなハリケーンが接近中。ハバナの風はすでに生温かった。

 生温かい静寂、静まり返った革命広場で、巨大なチェ・ゲバラが相変わらずニッコリ微笑んでいるのであるが、訪れる観光客はマバラ。20世紀半ばの革命の熱気は、60年の風雨の中ですっかり風化してしまったようだ。

 モロッコでもそうだったが、キューバの場合も、市場にモノは溢れているのである。「世界最貧国」のカテゴリーに入る国は別として、モロッコやキューバのレベルになれば、「モノが足りなくて奪い合いの日々」ということはない。

 むしろ、モノは溢れている。リヤカーいっぱいのタジン鍋。屋台を埋め尽くすオレンジの山。サボテンの実の山。50年経っても売り切れそうにないほどの革のサンダル。「バブーシュ」と呼ぶサンダルが、1軒の店の天井まで、おそらく2000足以上も山と積み上げられている。

 キューバなら、ズラリと並んだラム酒の山。今井みたいなイヤしいヤツでも、2年かかって飲みきれるかどうか微妙なほど、1軒の店をラム酒が埋め尽くしている。同じ種類の洗剤、同じ種類のトイレ洗浄剤。ホーキばかりの雑貨屋もあった。なんだ、モノはナンボでもあるのである。
店内風景
(ハバナのお店。量的にはモノは揃っている)

 電気屋には、何故か洗濯機とアイロンばかりが並んでいた。逆に、洗濯機とアイロンしかないのである。しかし人々は行列を作っている。「今日はどうしても洗濯機を手に入れて帰りたい」。行列は熱気を帯び、しかしみんな行儀よく並んで、イタリアみたいに列がダンゴ状に乱れることはない。

 本屋さんも、状況はいっしょである。同じ種類の本が平積みに積み重ねられているが、話が「種類」ということになると、お話にならない。せいぜい200種類ほどの本がうずたかく積み上げられているだけであって、日本の書店みたいに「どんな本でも手に入る」という状況からは程遠い。

「豊かさの指標は ☞ 種類の豊富さではないか」と言ふマコトに単純なことに、シロートは今さらながらに気づかされるのである。同じ製品ばかりいくら大量に積み上げられても、人々は豊かにならない。

 豊かさのキーは「バラエティ」「多様性」であって、一定の製品の生産量を平板な数字で示して目標を達成しつづけても、それは力を合わせたことにならない。広場の面積で国の威信を表現するようなものである。
縫製戦士
(縫製工場のオバサマたちは、今日も仕事に励んでいた)

 もちろんバラエティにしても多様性にしても、「交易」と言ふことが健全に機能していれば、十分に確保できるはずである。しかしマコトに残念なことに、健全な交易が阻害される事態はいくらでも起こりうる。食料自給率と同様に「多様性自給率」にも留意しなきゃいけないんじゃあるまいか。

 まあ諸君、下らない例え話をして申し訳ないが、あらかじめ決められた数値目標をキチンと達成した諸君だけが集まったクラスをイメージしてみたまえ。例えば「このクラスは偏差値60以上の子だけが集まっています」というタイプ。あんまり豊かさを感じないじゃないか。

 もし担任の先生になるとしたら、もっと奇抜なクラスがいい。
「おら、体育しかできねえだよ」
「自分で言うのもなんですが、ボクは算数はパーです。でも小学生のクセに英語がペラペラです」
「そうかい、あたしゃアルファベットも知りましねえ。しかし『奥の細道』の全文をソラで言えるだよ」
そういう田中と佐藤と鈴木が40人も集まったクラスの方が、はるかに楽しそうじゃないか。
書店
(ハバナの書店にて。同じ本ばかり山積みになっている)

 日本の大学はそのへん、大丈夫なんですかね、多様性自給率。どんどん外国の人が流入してきて、一定以上の多様性は保たれている気はするけれども、何かのハズミで外国人の流入が阻害された時に、多様性がギュッと絞り込まれて、大学がションボリしちゃったらたいへんだ。

 国単位でも同じことを心配しなくちゃいけない。GDPも大切、コドモの数も心配、貿易額も農業生産もみんな心配。でも多様性は? 同じような性格と能力のコドモばっかり育てていないか、ちょっと振り返ってみた方がいい。

 例えば、小学校の屋上にでっかい文字で掲げている「我が校の目標」。ついこの間も、出張先の大阪で近鉄電車に乗っていたら、「明るく元気なハキハキした子ども」の看板がデカデカとこちらを向いていた。

「明るく元気でハキハキ」なコドモばっかり300人も400人もズラリと並んだ様子は、そりゃまさに壮観だろうけれども、いやはや余りに壮観すぎて、まるで20世紀の革命広場みたいじゃないか。

 メソメソした子、ジットリ悩んでばかりの子、元気がちっともなくて、バレーボールの輪に加わろうとしない子。そういうコドモもマコトに大切なのである。

 遠足や運動会を嫌がる子、文化祭も合唱コンクールもみーんな大嫌いな子、国語しか勉強しない子。理科以外の時間は寝ている子。そういうコドモたちの存在が、どれほど学校を豊かな場所にしているか、我々はもっとキチンと認識すべきだと信じるのである。

1E(Cd) RUSSIAN MEDIEVAL CHANT
2E(Cd) Philip Cave:CONONATION OF THE FIRST ELIZABETH
3E(Cd) Rachel Podger:TELEMANN/12 FANTASIES FOR SOLO VIOLON
4E(Cd) Sirinu:STUART AGE MUSIC
5E(Cd) Bobby Caldwell:AUGUST MOON
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