Thu 170302 父の死から20年/通夜の酒/高田馬場の夜/町田・新高1のみの大盛況 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 170302 父の死から20年/通夜の酒/高田馬場の夜/町田・新高1のみの大盛況

 父が亡くなったのは、1997年2月8日のことだった。夕暮れのNHKテレビで漫才番組を眺めていて、「ガハハハハ…」と例の豪快な笑い方で激しく爆笑した直後、心臓が急に止まってしまったのだという。救急車が来て、病院に搬送されたのだが、病院に着く前にとっくに天国に旅立っていた。

 亡くなったのは自宅だったが、その10年も前から身体中を数えきれないほどの病気をかかえて、入退院を繰り返していた。中でも激しい肺気腫は、国鉄職員時代にアスベストにさらされたせいなんじゃないかと、ワタクシは今もなお疑っているぐらいである。

 心臓停止が午後7時過ぎ。しかしその日ワタクシはずっと留守をしていて、何しろまだ「ケータイ」というものが普及する前だったから、訃報に気づいたのは2月8日から9日へ、とっくに日付が変わった後だった。

 亡くなったのは、宮城県仙台市である。当時ワタクシが住んでいたのは、埼玉県鷲宮町。一刻も早く駆けつけなければならないが、むしろ始発の新幹線で行く方が早い。もうそういう時間帯だった。
町田1
(東京都町田、「新高1生のみ」の大盛況 1)

 当時の自分の年齢を考えると、いやはや、まだ30歳代半ばである。ちょうど駿台予備校をヤメたばかり。1997年の4月からは、当時まだものすごく景気のよかった代々木ゼミナールに移籍することに決まっていた。

 だから、ちょうど「所属ナシ」という宙ブラリンの時代である。言わば「失業中」な感じ。お通夜にもお葬式にも、駿台からヒトビトは来てくれないし、もちろん花も届かない。

 一方の代ゼミだって、いちおう「移籍直後から4天王あつかい」と決まってはいたが、しかしまだ移籍前であって、父の通夜やお葬式に参列者は誰一人きてくれない。父にも母にも余りに申し訳なくて、朝の新幹線の中で声をひそめて泣きじゃくったものである。

 もう20年も前のことであるが、お通夜のことは今も鮮明に思い出す。日本酒の一升瓶を片手に、眠る親父の前に1人で座り込んだ。午前1時、通夜の客もみんな帰ってからのことであるが、それから午前4時過ぎまで、じっくり親父と語り合った。

 何しろ、ダメな息子だったのである。中学に入るまで、親父と相撲をとっても全くかなわなかった。将棋も囲碁も、小学生のうちはちっとも歯が立たなかった。スキーの腕前だって、国鉄土崎工場スキー部長だった親父には、最後まで足許にも及ばなかった。

 父の夢見ていたのは、スキーも相撲も将棋でも、あっという間に彼を追い抜いていく化け物みたいに逞しい息子である。中でも父が思い描いたのは、現役で東大文科1類に入り、東大法学部を卒業して国鉄にキャリア入社し、たった3年か4年で父を追い抜いていく超エリートな息子の姿。ワタクシはその夢を常に裏切りつづけた。
イチゴ
(町田でイチゴのお菓子をいただく。おいしゅーございました)

 だからあの晩、今井君はヌルい一升瓶を片手に、親父に謝りつづけたのである。ごめんな、相撲で勝てなくてごめんな。将棋も囲碁も弱くてごめんな。東大にも国鉄にも入らなくてごめんな。今夜だって、こんな寂しいお通夜でごめんな。茶碗に注いだ日本酒をグビッと飲み干して、思わず絶叫したものである。

 ダメな息子は酒癖が悪いので、そのまま午前4時過ぎまでじっくり父と酒を酌み交わした。父にとっては、駿台だろうが代ゼミだろうが、国鉄以外の職場は全て否定の対象。当時の年収がX000万だろうがY000万だろうが、いや、例え1億に接近していようが、「要するにアルバイトだ」と喝破した。

 それでも、20歳代の後半に一度完全にダメになりかけた息子が、30歳代前半から復活しつつあったことは、コッソリ喜んでくれていたらしい。初めてラジオ大学受験講座に出演した時には、仙台の田舎で短波ラジオを片手に握り、懸命に息子の声を深夜のベランダで聞いていてくれたのだと言う。

 ワタクシが受験の世界で目立ちはじめたのは、あの1997年以降のことであるから、父には著書も雑誌記事も、出演したテレビ番組も見せられなかった。
てんこもり
(町田のお菓子てんこもり。ありがとうございました)

 いま生きていれば、もう90歳を超えているのである。「ごめんな」であり、どこまでも「ごめんな」であって、彼の早すぎる死が残念でならない。いまも強情に生きていてくれれば、「ほーれ、ただのアルバイトじゃなかっただろ」と言いながら、親父を悔しがらせることだってできるのである。

 いや、それでも何しろ強情な男だ。「オマエがいくら頑張ったって、人も物も運べないじゃないか」「オマエなんかいなくたって、日本も世界もちっとも困らないじゃないか」と、どこまでも意地を張るに違いない。

「要するに、アルバイトだ」。山形弁と秋田弁が複雑微妙に絡み合ったおかしな言葉を操りながら、東大に合格できなかった情けない息子をどこまでもケナしつづけただろう。

 うーん、ホントに申し訳ないことをした。「うちの息子は東大に現役で合格しましてね」と胸を張る喜びを、結局ワタクシは親父にプレゼント出来なかったのである。

 あの豪快な彼も、すでに天国に20年目。ずいぶん長くなった。きっと今ごろ、息子と酒でも飲みたいだろう。たまには地上に降りてこないかね。
町田2
(東京都町田、「新高1生のみ」の大盛況 2)

 思い出すのは、ワタクシが21歳のときの高田馬場である。駅前のFIビル2階、「酒の蔵」というマコトに当たり前の居酒屋で、親父と泥酔したのは楽しかった。1時間で、2人で7合。ウガイでもするような勢いで酒を酌み交わした。

 大したサカナも注文しなかった。記憶しているのは「ドジョウの柳川風」と「川海老のから揚げ」。そんなわずかなサカナをはさんで、父と息子でほとんど黙ったまま酒をグイグイやった。

 ワタクシは父が32歳の時の息子であるから、高田馬場で飲んだあの夜、彼はまだ53歳。国鉄を退職する1年か2年前のことである。「オマエは就職はどうするんだ?」と尋ねられ、「少なくとも国鉄ではないね」と答えた夜である。

 高田馬場の後、深夜の上野駅前に出た。父は寝台特急で秋田に帰る予定。「御徒町あたりで、もう一杯飲んで行こう」と、話がまとまった。当時のワタクシは千葉県北松戸に住んでいて、やっぱり上野から電車で帰るのが便利だったのだ。

 父とじっくり心行くまで飲んだ記憶は、あれが最後である。その後は、いきなり通夜の夜の記憶になってしまう。「もったいないことをした」「もっと何度も飲むんだった」とも思う。

 しかし逆に、「父とじっくり飲む」なんてのは、人生で2回か3回あればそれでいいのだという気もする。少なくともワタクシは、父とそのぐらい仲が良かったので、あの晩の高田馬場の記憶1つをたどれば、それで父の心の中はコピーするぐらいに正確に理解できるのである。
町田3
(東京都町田、「新高1生のみ」の大盛況 3)

 この10年、ずっと親しくしていただいている古文のYSN先生のお父上が亡くなった。昨日夕暮れにメールで知らせていただいて、「これから親父とじっくり飲みます」というブログの文面に接すると、ワタクシ自身20年前の通夜のことを思わずにいられない。心より、お父上のご冥福をお祈りしたい。

 3月23日、夕暮れから東京都町田で公開授業。YSN先生からのメールが来たのはその直前のことであった。驚きながらも、とにかく今は仕事に専念するしかない。

 町田の企画は、「新高1生」限定の公開授業である。我々の直営校舎に在籍するのは、原則として高校生のみ。だから「新高1生」も何も、中3から我々のところに席を置いてくれている人は完全に皆無、カンペキにゼロなのである。

 それでも、この日の町田と翌日の池袋は、マコトに果敢にチャレンジしてくれた。「確かに在籍はゼロですが、公開授業には100名近く集めてみせましょう」。おお、素晴らしく意気軒昂だ。

 ならば、当然この今井君も全力を出し尽くして、「集まってくれた完全外部生100名を100%入学させて見せましょう」と、大ベテランの力量をギュッと発揮してみせることにする。町田、池袋、その経過と成果については、また明日の記事に詳細を述べることにしたい。

1E(Cd) Holliger & Brendel:SCHUMANN/WORKS FOR OBOE AND PIANO
2E(Cd) Ashkenazy:RACHMANINOV/PIANO CONCERTOS 1-4 1/2
3E(Cd) Ashkenazy:RACHMANINOV/PIANO CONCERTOS 1-4 2/2
6D(DMv) POMPEII
total m12 y383 d20341