Sun 170115 富山の大盛況/大震災の記憶/6年前/そのまた6年前/やんなきゃな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 170115 富山の大盛況/大震災の記憶/6年前/そのまた6年前/やんなきゃな

 2月6日は、富山に出張であった。ほぼ毎年この時期には北陸を回る。富山、金沢、小松。今年はそのスケジュールに3月の福井も加わって、北陸新幹線と北陸本線に乗りまくることになる。

 ホンの2年前まで、富山はなかなかたどり着けない街だった。ワタクシはヒコーキ利用だから今も昔もそんなに変わらないが、「鉄道でなきゃイヤだ」という人にとって、富山ははるかかなた、「遠きにありて思うもの」であった。

 まず上越新幹線で、越後湯沢まで行くのである。昭和の昔、川端康成どんは「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」などと興奮めされ、「夜の底が白くなった」と、興奮は雪だるま式に膨らんだ。さすが雪国、雪だるまだって登場するわけだ。

 その「駒子」の街で、「ほくほく線」という第三セクターの特急に乗り換える。何故か乗り換え時間が「4分」「6分」と驚くべき短時間に設定されていて、大きな荷物を2つも3つも持ったジーチャン&バーチャンが懸命に階段を駆け下りた。

 ということは、逆方向の場合「階段を駆け上がる」という難行苦行が待っていて、ほとんど全ての人が「何で4分?」「何で6分?」と、不平と不満を口にした。それでも何とか乗り換えに間に合って、越後湯沢のスキー場を眺めながら、車内販売の御弁当で一息ついた。
宇宙征服
(富山の控え室で、「宇宙征服」のサインを書きまくる)

 そんなスッタモンダがあって、2年前までは富山まで4時間。いやはや、長い旅だった。それが今では乗り換えなしの2時間半で済む。新幹線サマサマ、JRバンザイ。鉄道派はさぞかし快哉を叫んでいるだろう。

 と、思いきや、そうとも限らないのである。東京から大宮、長野から富山、どうも新幹線君が思い切りスピードを出せない区間が多くて、新幹線君自身にも、乗っている人々にも、欲求不満がたまりやすいのだ。

 確かに地図を眺めてみると、東京から富山は、名古屋や仙台と同じぐらいの距離。名古屋や仙台には1時間半で着くのに、富山には2時間半。1時間も多くかかっていたんじゃ。欲求不満も当たり前だ。

 ま、人の欲求には限りがないものである。フル規格のキレイな新幹線を通してもらって、それでもまだついブツブツ言ってしまう。しかしだからこそ、どこまでも進歩と発展が続くんだから、不平も不満もあながち捨てたもんじゃないのである。
日本酒
(富山の夜は、旨い日本酒が並ぶ店で)

 さて、一方の今井君であるが、富山にはちょっと特別な思い入れがある。2011年3月11日、誰だって忘れるわけはないが、東日本の大震災の夜、ワタクシは富山で公開授業を実施していた。

 前日が大阪で授業、午前10時まで大阪にいて、特急「サンダーバード」で北陸に入った。大雪の日で、敦賀を過ぎて国境の北陸トンネルを抜けると、そこは雪国であった。川端サマの時代には、こういう場合「国境」という名詞を平然と使ったのである。昼の底もやっぱり白くなった。

 金沢に到着してホテルにチェックイン。17階のお部屋に入ってすぐに異変に気づいた。「長周期振動」である。窓のブラインドが、長い間合いをおいて際限なく壁にぶつかった。テレビをつけて、東北の大地震を知った。

 その30分後、テレビには名取川の光景が映し出された。川を溯っていく濁流が見え、黒い濁流はまもなく両岸を越えて、水田とビニールハウスを安々と乗り越えて陸地を進んだ。その後のことは、読者諸君の記憶にも強烈に残っているはずだ。
富山
(2月6日、富山には160名が集まった。6年前を思い出しつつ、今年も熱く語り尽くした)

 それでも、富山の公開授業は実施したのである。17時の特急で金沢から富山に向かった。富山には18時前の到着。公開授業開始19時半、もう6年前のことであるが、ワタクシの記憶は鮮明である。東京に電話しても通じない。仙台には母がいたが、仙台ももちろん電話が通じない。

 6年前、あんな状況にも関わらず、130名もの出席者があったのである。終了21時。授業の最後に大地震のことを述べ、東京にも仙台にも電話が通じないことを話した。あの時の暖かい大きな拍手を、今も忘れることが出来ない。

 北陸にも津波警報が出て、富山から金沢へは、普通列車しか走っていなかった。大雪の倶利伽羅峠を、2時間近くかけて金沢のホテルに帰った。金沢到着、23時半。金沢駅のホームには、北海道への旅を打ち切った寝台特急「カシオペア」のダークグリーンの車体が佇んでいた。

 時間の経つのはマコトにはやいもので、あれから6年が経過した。6年が経てば、あの時の受講生諸君はすでに大学を卒業して、浪人せずにスムーズに進路を歩んだなら、今ごろは社会人2年生である。医学部に進んだ諸君も、もう国家試験に合格して、いよいよ医師として第一歩を踏み出す寸前のはずだ。
寒ブリ
(寒ブリのカマ。おいしゅーございました)

 以上、昨日の今井君は、いろんな感慨を胸に公開授業に臨んだ。いま目の前にいる生徒たちは、さすがにずいぶん幼く見えるが、同じように6年が経過すれば、やっぱり社会人2年生。医学部に行けば、すでに医師のタマゴ。同じことを際限なく繰り返しているのは、われわれ予備校講師ぐらいのものである。

 今年の出席者は160名を超えた。事前の申し込みベースで160名ちょうどだったのであるが、「飛び込みで参加」という生徒や保護者も多いのである。使用したのは、つい2日前に広島でビックリ♡ポンな大成功だったのと同じ「Cテキスト」。富山でも、広島に勝るとも劣らない熱狂を呼んだ。

 毎年このホテル会場で実施しているので、年配のホテルマンの方も今井君を記憶している。生徒に混じって、上品なこのオジサマも大爆笑を繰り返しておられた。

 終了後、「空飛ぶうさぎ」で懇親会。富山懇親会の定番の店である。カワハギのお刺身、おいしゅーございました。寒ブリのカマ、マコトにおいしゅーございました。店主のオニーサマが自慢そうに次々と紹介してくれる日本酒も、どれも絶品でございました。

 そういう料理とお酒をスタッフの皆様とともに楽しみつつ、今井君は「6年」という月日を噛みしめたのである。大震災から6年とすれば、大震災よりもさらに6年前、ワタクシは何をしていたのだろう。
富山駅
(最終の新幹線で富山を出発。金沢に向かう)

 2011から6を引けば、2005である。2005年2月8日が、代ゼミでの最後の授業。翌日2月9日にはヨーロッパ40日の旅に出発した。ベルリン・ミュンヘン・ウィーン・ヴェネツィア・フィレンツェ・ローマ・ジェノバ・マルセイユを経て、3月10日にはパリにたどり着いていた。

 いやはややっぱり、時の流れる速度は圧倒的である。あれからワタクシが出かけた外国旅行は40回。1回につき15日なら、合計600日を海外で過ごしたことになる。その長いリストに、とうとうモロッコが入り、まもなくキューバも入る。

 しかし諸君、そんなことで驚いているわけにもいかない。ワタクシの代ゼミ最後の年に授業を受けていた諸君だって、もう30歳を超える。

 その代ゼミの赤い看板も、全国からほとんど姿を消した。今の高校生諸君に「代ゼミ」と言っても、「それって、何?」とポカンとされるばかりである。

 そもそも、今日の富山に集まってくれた高校生たちは、6年前の大震災の時は小学2年生。そのまた6年前、今井君が代ゼミ四天王をスッパリ潔く辞めてヨーロッパに旅立った頃は、まだ幼稚園児だったはずである。

 やっぱり諸君、「ゆく川の流れはたえずして」「しかも元の水にあらず」である。「諸行無常」「歳月は人を待つものかは」であって、われわれはたゆまず次へ次へと先を急ぐしかない。富山から金沢への最終電車に乗り込みつつ、ふと「やんなきゃな」とコブシを固める今井君なのであった。

1E(Cd) The State Moscow Chamber Choir:RACHMANINOV/VERSPERS Op.37
2E(Cd) Ashkenazy:RACHMANINOV/PIANO CONCERTOS 1-4①
3E(Cd) 東京交響楽団:芥川也寸志/交響管弦楽のための音楽・エローラ交響曲
6D(DMv) HANNA
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