Sat 161015 博多が心配/蒲田で大行進/いつもと違う道/新田義興と平賀源内の破魔矢 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 161015 博多が心配/蒲田で大行進/いつもと違う道/新田義興と平賀源内の破魔矢

 これだけ世界中を闊歩していれば、馴染みの町、行きつけの場所、思い出の地、そういういろんな所でいろんなことが起こる。パリ、アテネ、ボストン、イスタンブール、ブリュッセル。ついこのあいだ訪ねたばかりの街が、ニュースの焦点になっていることは珍しくない。

 朝目が覚めてみると、博多の駅前がたいへんなことになっている。つい1週間前に闊歩したばかりの街、「とめ手羽」の看板が現場に大きく映っているあたりで、つい先週ワタクシは晩メシにモツ鍋をつついていた。

 足許の土砂が次々に崩れていくあのセブンイレブンで、日本酒や焼酎を買い込んだばかりである。この規模の人災で、ケガ人さえ報告されていないのは、まさに奇跡と言っていい。ホントについ先週、ワタクシはあの辺で夕食後の散歩を楽しんでいた。

 被害がこれ以上拡大しないことを祈るばかりである。福岡は、公開授業で訪れる頻度が特に高い街。来春にも「ぜひ」と言われていて、3月には大規模な講演の設定もある。しょっちゅう宿泊しているANA系とJAL系のホテルも至近。諸君、ワタクシは心配で心配でならない。
タイヤキや
(11月4日、世田谷区経堂で評判のタイヤキ屋に立ち寄る)

 さて、「なあなあ感を猛烈に反省」「今日から今井君は燃え燃えの熱之助」と宣言してから、早いもので間もなく1週間が経過する。「こんなに熱く燃えまくったんじゃ、きっと迷惑する人も少なくないんだろうな」と思いつつも、とにかく真っ赤に燃えてみた。

 すると諸君、不思議や不思議、というか別に不思議なんかないのかもしれないが、関係するスタッフの皆様も、引きずられるように熱く真っ赤に燃え上がりはじめた。

 11月5日、千葉県新浦安で保護者対象の講演会を開催。出席者、約100名。続いて11月7日、東京都大田区蒲田で公開授業。ここは小規模校舎だから出席者数が少ないのはとりあえず致し方ない。約70名が出席。蒲田で高1高2に限定しての70名は、まあ大健闘と言っていい。若い校舎長の奮闘を讃えたい。

 ワタクシがボーボー真っ赤に燃え上がる原因になった「果てしない私語」は、もうそのカケラさえ見えなくなった。新浦安は保護者対象だから、私語がないのは当たり前であるが、蒲田の公開授業も90分、パンパンの緊張感が途切れることなく続いた。素晴らしい、全く素晴らしい。

 蒲田には、「LINE」のスタッフがたくさん見学に来てくれた。「何で今井に『LINE』に関係あんの?」であるが、まあそのあたりは12月上旬にでもこの場で明らかにしようと思う。

 ワタクシの公開授業を「最初の方だけ、ちょっと見学させていただきます」ということだったのだが、諸君うれしいじゃないか、「最初の方だけ」とおっしゃっていたスタッフ全員が90分、最後の最後まで教室にクギヅケになってくれたのである。
新浦安1
(11月5日、千葉県新浦安で保護者向け講演会。大盛況だった)

 ま、ハッキリ言えば、今井君の公開授業はそのぐらい充実した迫力に溢れている。今をときめくLINEのスタッフを、1人たりとも飽きさせたりはしないのだ。

 生徒諸君の感動&感激の表情はもちろんだが、社会の第一線で大活躍中のスタッフが大爆笑を続けてくれている光景は、いやはや、さすがの今井君でも誇らしく思わずにいられない。この蒲田での大活躍は、ほとんど「蒲田行進曲」に匹敵する。

 もちろん、今井君だけの大行進ではない。若い校舎長、彼を支えるスタッフ諸君、エネルギーの塊のような生徒諸君、一緒に大爆笑に加わってくれたLINE関係者の皆様。キレイゴトでも何でもなくて、21世紀の蒲田大行進は、冷えきった11月の東京の真っただ中で、奇跡のように熱く燃えたのである。

 やっぱりそうなのだ、まず講師が真っ赤に燃え上がんなきゃいかんのだ。クールにカッコよく構えるのもいいが、それは今井君のスタイルとは違う。常にカンカン炭火のように危険な熱を放射して、その熱で自然に人々の心にも火が燃え移る。いやはや、素晴らしい蒲田大行進であった。
新浦安2
(千葉県新浦安でケーキをいただく。おいしゅーございました)

 帰り道、11月の風を心地よく感じつつ蒲田の駅に向かっていると、「今井先生ですか?」と驚きの声が上がった、昨年まで蒲田で授業を受けていたという男子、今は横浜国立大に通っているという。「よかった&よかった。大いに勉強に励みたまえ」と、ワタクシの心はますますド派手に火を吹きはじめた。

 ところで諸君、蒲田から渋谷区のオウチまで、どんなルートで帰ったと思うかね。普通の人なら、「品川まで京浜東北線、品川から山手線、原宿から千代田線」、そういうルートを選択するだろう。

 ところがさすがに旅好きな今井熱之助は、そんな当たり前のマトモなルートは使わない。そんなのは、おお、つまらない。手っ取り早く目的地に着くだけの旅ばかりしているから、人生に何の楽しみもなくなって、スカスカな日々を過ごすことになる。

 通勤通学にも、常に驚きを求めたまえ。常に何かルーティンでない道を模索したまえ。蒲田から、今井君は昔の「東急目蒲線」に乗車したのである。蒲田 ☞ 矢口の渡し ☞ 武蔵新田 ☞ 下丸子 ☞ 鵜の木 ☞ 沼部を経て、東横線「多摩川」からメトロ副都心線で渋谷区に帰り着いた。
蒲田
(大田区蒲田での大盛況)

 諸君、途中の「東急多摩川線・武蔵新田(むさしにった)」には、由緒正しい「新田神社」がある。新田義貞の息子・新田義興を祀った神社で、全国・お正月の初詣の必須アイテム「破魔矢」の起源は、何とこの新田神社にあるのだそうな。

 父・新田義貞の戦死後、新田義興は南朝方の中心として足利勢力と戦い続ける。「神皇正統記」の北畠親房やその息子・北畠顕家と並ぶ、まさに南朝のヒーローの1人である。

「太平記」には、「武蔵野合戦」の記録が詳しい。入間川付近に陣取った足利基氏は、猛将・新田義興の力を恐れ、さまざまな奸計をもって暗殺を試みた。

「少将局」などという貴族女子が絡み、いろいろ男女の機微も混じるのだが、1358年10月10日、新田義興は多摩川河畔「矢口の渡し」付近で、ついに彼らの奸計にかかる。

 足利側に加担したのが、「江戸遠江守」だの「蒲田忠武」だのという地方武士。側近のみを率いて葦の茂る河畔に誘い出された新田義興を、卑怯にも約500人の射手で狙い撃ちにする。

 今の東京都側に射手150人、川崎市側に射手300人。対する新田義興側は、郎党15名にも足りない。しかも、新田義興が川を渡る舟の船頭も買収して、その舟底には穴をくりぬいてある。足利側の合図とともに船頭が穴の栓を外せば、舟は泥水の中にズブズブ沈む仕掛けなのだ。

 川の真ん中で栓を抜かれたお舟は、哀れ川底に沈んでいく。重い甲冑をつけ、泳ぐこともままならぬ新田義興主従は、ある者は溺れ、ある者は岸に泳ぎ着いたところを、総勢500に近い射手の弓矢に倒れていく。余りに無惨な全滅。勇将・新田義興は無念の真っただ中で憤死を遂げるのである。

 するともちろん、無念をこの世に残した亡霊の祟りが渦巻き始める。謀略のヌシ・江戸遠江守は、それからわずか2週間後に怨霊に取り憑かれて狂死。虐殺の現場付近には不気味な黒雲がトグロを巻いて離れず、落雷と火災が続いて、近くのお寺や神社も大きな被害が及ぶ。
多摩川駅
(昔は「多摩川園」だったが、いつの間にか「多摩川」に名前が変わっていた。新田義興の悲劇の現場は、このすぐ近くである)

 江戸期になってから、このへんの話を平賀源内どんが面白おかしく浄瑠璃に仕立て上げた。浄瑠璃の評判がよかったので、歌舞伎としても上演され、大ヒットを繰り返した。

 その平賀源内のペンネームが、「福内 鬼外」。まさに節分であって、何ともフザケた人物であるが、この浄瑠璃が「神霊矢口渡」である。2015年11月、ちょうど今から1年前に、国立劇場で上演された。今井君がこんなに新田神社に詳しいのも、この公演のおかげである。

 ついでに平賀源内どんは、「新田義興の矢」という名目で付近の茶店で売られていた矢をヒントに、魔除けの矢を考案する。要するにモトモトはバッタモノだったのが、平賀源内どん、人が悪いじゃないか、いつの間にか全国に広がって破魔矢の起源になったのだという。

 まあ諸君、冷えきった11月の夜も、蒲田からの帰りにこうして「武蔵新田」を通過しただけで、ポカポカ&ホッカホカ、楽しい夜に早変わりだ。諸君だってルーティンの帰り道にウンザリすることがあるだろう。いつもとは違う道をたどって、ポッカポカになるのも悪くないと信じるのである。

1E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 1/6
2E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 2/6
3E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 3/6
4E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 4/6
5E(Cd) Preston:BACH/ORGELWERKE 5/6
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