Tue 160712 中村紘子のこと/千代の富士にまつわる様々な思ひ出/兵庫県姫路に向かう | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 160712 中村紘子のこと/千代の富士にまつわる様々な思ひ出/兵庫県姫路に向かう

 これを書いている時点で、8月5日金曜日午後5時すぎである。東京は、ようやくの猛暑。猛暑が嬉しいわけでも何でもないが、冷夏は大嫌いだ。河口湖から帰ってすでに1週間が経過。「このままスカッとした夏の太陽を見ることなく、冷夏で終わってしまうんじゃないか」と心配する日々であった。

 東京で35℃。これなら十分に立派な猛暑だし、群馬県が頑張ってくれたおかげで、首都圏の水がめも潤った。「冷夏かつ水不足」なんてのはサイアクだから、サッカー・ナイジェリア戦の惨敗はさておき、今井君はいま猛暑の到来にハッピー、水がめ復活にもハッピー、最上級happiestな気分である。

 しかし諸君、6月から7月にかけて、余りに多くの昭和人が亡くなった。ダークダックスのマンガさん、ザ・ピーナッツ、永六輔、大橋巨泉、中村紘子、千代の富士。1週間に1回のペースでヒーローやヒロインの訃報が伝えられたんじゃ、さすがにハッピーになってばかりはいられない。

 中村紘子サンの訃報は、河口湖での合宿中であった。河口湖は山梨県、彼女の出身地も山梨県である。芥川賞を受賞した直後の作家・庄司薫が「中村紘子さんみたいなキレイなピアノの先生に習いたい」とエッセイに書いたのは有名な話。それが縁になったかどうか、やがてご結婚の運びになった。

 結婚をキッカケに、ピアニストの生活にエッセイの執筆活動も加わって、マコトに多忙な日々を過ごされたんだと思う。いやはや、とても凡人の想像できる世界ではない。
暗雲
(羽田空港、8月2日。怪しい黒雲が垂れ込める)

 一方の千代の富士は、余りにカッコよすぎて、現役時代は大キライだった。というか、千代の富士が大活躍した時代は、ワタクシの人生が最低&サイアクだった時期と余りにピッタリ符合するのである。

 1981年に横綱に昇進、53連勝その他、前人未到の記録を次々と打ち立てて、ついに引退したのが1991年。その10年、ワタクシのほうはやることなすこと全て失敗の連続。最終的には中小塾の校舎長に落ち着き、バイト気分でその日暮らしをしていた時代である。

 そういうふうだから、「千代の富士」と聞いただけで、今もなお一番イヤな時期を思い出す。自他ともに認める記憶力のオニである今井君だ。イヤな記憶もマコトに明瞭であって、埼玉県浦和の塾の校舎で経験した不快なことのほとんど全てを、今なおクッキリと思い出すことができる。

 こんなのは病気の一種である。忘れるべきは忘れる、忘却のカナタにポイ!!、それができないのは要するに精神年齢が低いだけのことであるが、あの頃の千代の富士がカッコよかったのと余りにも対照的で、今なお屈辱を感じるほどなのだ。
天ぷらせいろ
(伊丹空港「関亭」の天ぷらせいろ。おいしゅーございました)

 バイト気分だろうと何だろうと、曲がりなりにも「校舎長」の名刺を持っている。部下の講師たちの苦情やら悩み事やら、「相談があります」と言われれば、飲み屋に誘ってジバラで悩みごと相談に応じなければならない。

 その「相談」というのが、実質は全く「相談」でも何でもないのである。
「なぜボクがもっとコマをもらえないんですか?」
「なぜボクがもっと成績上位のクラスを担当させてもらえないんですか」
「ボク自身こんなに優秀なんだから、最上位クラス担当が希望です。なのにいつまでも下位クラス。納得がいきません」
遠慮会釈なしにそういう苦情を吐露される飲み会が続いた。

 何で遠慮も会釈もないのかと言うに、当時まだ弱気だった今井君が、そういう苦情に毅然と対応しなかったからなのである。弱気にニタニタ笑ってゴマかしているうちに、部下たちはどんどん増長。校舎長(ワタクシ)を侮蔑&軽蔑するようになり、公然とダメ校舎長扱いの冷笑&嘲笑を向けられるに至った。
きっぷ
(大阪から姫路までは、倉吉ゆき特急「スーパーはくと」を利用。昭和なディーゼル特急のエンジン音が心地よい)

 ま、あれはあれでよかったのだ。おかげさまで1991年以降の今井君は、Pretty 塾 ☞ どうすんだい? ☞ ぜみぎヨヨナール(全て仮称です)と、予備校を乗り移るたびに激しく出世を繰り返し、給与でも待遇でも、実力から見て不相応とも思える驚くべき地点に達して今に至る。

 社会人として一歩を踏み出した頃は、自らの微力を恥じ、「何とか無事に定年まで仕事を続けられたらいいな」と思い、一方で異様なプライドもあって、どんな仕事に就いても「オレはこんな仕事をするために生まれてきたんじゃない」と、常に異次元へのジャンプアップを夢みていた。

 ま、21世紀以降グッと増えてきたタイプである。昔は「新人類」と呼ばれた典型であるが、その意味では、あの頃の今井君は明らかに時代を先取りしていた。しかし千代の富士が大活躍を続けていた1980年代、こういうタイプはむしろ「実社会に対応できない落ちこぼれ」と罵声を浴びることが多かった。
姫路に到着
(スーパーはくと、姫路に到着。これから鳥取県に向かい、夜の中国山地を縦断する)

 一方の千代の富士は、細身の肉体に筋骨隆々、相撲も極めてシャープなら、言動もまたクールでシャープ。イケメン力士の元祖。相撲をとるたびに喝采、何か発言するたびに大喝采。豪快な上手投げで肥満体の力士がゴロリと転がされるたびに、館内は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。

 余りのことに、今井君はヒール役に回された力士たちを応援するに至った。その嗜好はその後の貴乃花時代になっても変わらない。貴乃花より、曙と武蔵丸が好き。「品格がない」とマスメディアの総攻撃を受けはじめてからは、ひたすら朝青龍。ついでに最近の白鵬。あえて悪役を引き受ける雄々しさを好むのである。

 そんなになるぐらい、当時の千代の富士は強烈な強さを発揮した。「つり落とし」なんてのもあった。高くつっておいて、そのまま横向きに土俵にたたきつける。千代の富士以外がやれば品格を問われそうな荒技でも、スポーツ紙はその豪快さを讃えるばかりなのであった。

 あんなに強かった人が、60歳ちょっとで天国に旅立つのである。祇園精舎の鐘の声、娑羅双樹の花の色、真夏の富士の勇姿もみんな、人生の空しさを教えてくれる。

 諸行無常、盛者必衰ということなんだろうけれども、まだ20年でも30年でも活躍して、ヒーローとヒールをたっぷり育て上げてほしかった。今はご冥福をお祈りするしかない。
姫路城
(夕暮れの姫路城)

 というわけで諸君、8月2日のワタクシは、兵庫県姫路で公開授業。ウルトラ絶好調の合宿から帰ってわずか2日後、もう公開授業ラッシュが再開する。朝10時、オウチからタクシーに乗り込んで羽田空港に向かった。

「あれれ、『卒タクシー』に『脱タクシー』はどうなったんですか?」であるが、まあ諸君、そんなに厳しく今井君の行動をチェックするのはヤメたまえ。

 東京の夏はまだ荒れ模様。待ち望んだ猛暑はやってきたが、「いきなりのウルトラ豪雨」も続いている。カンカン油照りが続いていたかと思うと、一天ニワカにかき曇り、激しい雷鳴とともに滝のような豪雨が襲いかかる。そういう日々だ。羽田までのタクシーぐらい、許してくれたまえ。

 12時のヒコーキに乗って、伊丹空港に到着、13時半。日本中をゲリラ豪雨が襲っていて、「到着便が遅れたため、ヒコーキの出発が遅れます」の緊迫したアナウンスが空港を満たしていた。

 空港からは、リムジンバスで梅田へ。お馴染みのインターコンチネンタルホテルにチェックイン、夕暮れまでブログをアップしたりして、久しぶりにゆっくり過ごしたのであった。

1E(Cd) Jarvi & Goteborg:GRIEG/PEER GYNT 1/2
2E(Cd) Jarvi & Goteborg:GRIEG/PEER GYNT 2/2
3E(Cd) Lanchbery & The Philharmonia:MUSIC OF KETELBEY
4E(Cd) Sinopoli・Jarvi・Pletnev:RUSSIAN FAMOUS ORCHESTRAL WORKS
5E(Cd) Minin & The State Moscow Chamber Choir:RUSSIAN FOLK SONGS
total m60 y1150 d18855