Wed 160406 どうしてアナタはエリカ様? ハンブルクの夜(ドイツ・クリスマス紀行31) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 160406 どうしてアナタはエリカ様? ハンブルクの夜(ドイツ・クリスマス紀行31)

 昭和のむかしなら、男子はヒロシかアキラかカズヒコ、女子はアキコかカズコかトモコかユミコ、クラスの名簿を開けば、ファーストネームはスンゴイ狭い範囲に限定されて、そこからちょっと外れただけで「珍しい名前だね」「Youはどうしてこのネーム?」と、真顔の質問が相次いだものである。

 しかし21世紀は、むしろキラキラなネームが普通の時代。ちょっとやそっとの珍しさでは誰も驚いてくれない。昭和の時代なら驚異の対象だったであろう「エリカさま」でも、もはや誰もビックリしたりはしない(だろう)。

 エリカさまが目立ちはじめたのは、新体操の世界に「秋山エリカ」というスターが登場して以来のことである。秋山エリカ様は、福岡県出身、1964年生まれ。84年ロサンゼルスオリンピックで個人総合13位、88年ソウル五輪で個人総合15位。今は東京女子体育大学教授でいらっしゃる。

 同級生のほとんどがタカコ・キョウコ・トキコ・ヤスコだった世代として、「エリカ様」のご登場にはまさに目を見張る思いであった。ワタクシの小中学生時代、クラスに1人「ユカ」ないし「ミドリ」が存在するだけで、結構な大騒ぎだったのである。
夕暮れの湖
(ハンブルク、夜のアルスター湖。「商都」のイメージとはかけ離れた、美しく優雅な街であった)

 しかし諸君、21世紀も1/6が過ぎ去ろうとしている今日、どこの学校でもエリカもエリサもジュリアちゃんも、それぞれ1クラスに3人はいらっしゃるだろう。

 我々の時代には、エルザと言えば「野生のエルザ」しかいなかったし、ポーランドには「ワレサ」というエラい政治家もいたが、そんなのはみんな遠い過去のことになった。

 そこで全国のエリカ様に聞いてほしいのだ。絵里香さま、恵梨花どの、英梨華どん。どうしてアナタはエリカなの? むかしむかしの16世紀末、イングランドの偉大な劇作家が「どうしてアナタはロミオなの?」と書いたが、それでは全国のエリカさま、どうしてアナタはエリカなの?

「他人にものを尋ねるなら、まず自分から名乗りなさい」が日本古来の礼儀であるから、「どうして私は『宏』なの?」を語っておけば、諸君、驚くなかれ、我が名『宏』は教育勅語の1行目に由来する。

 何しろワタクシの両親は軍国青年(大正14年生まれ)と軍国少女(昭和3年生まれ)であった。教育勅語は何よりも大事なものとして、先生方に連日連夜たたき込まれた。

 その1行目は、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗、國ヲ肇ムルコト宏遠ニ…」。諸君、だから私は「宏」君。ウかんむりの下の「ム」は力の充実したアリサマを示し、その左の暖簾がグッと左になびいているのは、その力によって家の勢いがググッと増している様子なんだそうな。
雨のハンブルグ
(冬の雨に濡れるハンブルク中心街)

 さてエリカ様であるが、10年ほどむかしの芸能界に存在した「エリカ様派 vs マサミ様派」の対立とはもちろん何の関係もない。エリカ様は「別に♨」発言で、対立の形勢を自らマコトに不利にしてしまったし、マサミ様も「真田丸」の大熱演が、かえってあまり好評じゃないらしい。

 そこでエリカの皆様、ドイツの「エリカ街道」に目を向けていただきたい。エリカは、南アフリカや北ヨーロッパに群生するツツジ科の植物で、ピンクや薄ムラサキの花で丘や荒野を埋め尽くす。

 イギリスでは「ヒース」と呼び、イングランド北部からスコットランドの丘陵地帯の夏は、エリカのピンクに美しく染まる。エミリ・ブロンテ「嵐が丘」を彩る花として、19世紀から20世紀にかけて、世界中の人々が夢中になった。

 だから、「外国に行ったことがほとんどありません」などという控えめな日本の中高年でも「エリカ」には憧れがある。1963年、西田佐知子というシンガーが、「エリカの花散るとき」でNHK紅白歌合戦に出場している。彼女の代表作「アカシアの雨がやむとき」の姉妹編と言っていい。
市庁舎
(夕暮れのハンブルク市庁舎。19世紀末の建築である)

 というわけで、日本中のエリカ様、エリカとは本来、群生して丘陵をピンクや薄紫に染め上げる美しい花の名前。北ドイツには「エリカ街道」というのもあって、12月27日の今井君が訪れたハンブルクは、そのエリカ街道の中心都市である。

 他にもドイツには「エリカ街道」に該当する観光ルートがいろいろ整備されていて、ロマンチック街道・メルヘン街道・ファンタスティック街道・アルペン街道・ゲーテ街道など、要するにそれに沿って旅をすれば、マコトに効率よく旅が出来るようになっている。

 あんまり有名でないものとして、「銀街道」「おもちゃ街道」「時計街道」「粘土街道」「ガラス街道」「塩街道」「木組みの家街道」なんてのもある。

 すると日本人なら当然「鯖街道」を思い出すはずであるが、おお、やろうじゃないか、もしも「観光立国」を口にするなら、日本国中にいろんな「街道」を設定して、遥か欧米からでもどんどん観光客を呼び込もうじゃないか。

 というわけで、この日の午後の今井君は、「メルヘン街道」のブレーメンから、エリカ街道の中心地ハンブルクの町に戻った。エリカの花の皆様の努力のタマモノか、ブレーメン ☞ ハンブルクの列車は朝の山手線並みの超満員。観光誘致が過ぎれば、まあ困った現象もいろいろ出現するものである。
駅
(ハンブルク中央駅。夜も活気を失わない)

 人口180万、ドイツ第2の大都市ハンブルクは、強めの雨が降っていた。ハンブルグの東はもうバルト海、エルベ河に沿って少し西には北海が広がっている。デンマークやスウェーデンもすぐそば、ここはドイツの北の果てである。

 12月下旬のこの地域なら、雪とか吹雪を予想するのが当然であるが、降る雨は何となく生温い。地球温暖化は、我々一般人が考えるより遥かに不都合の度が増しているようである。

 マコトに不都合な生温い雨に打たれながら、ハンブルクのクリスマス市をさまよった。到着したのが16時、冬至直後のハンブルクはもうすっかり夜である。市庁舎も大聖堂も、みんな雨に濡れている。こりゃラム酒入りのホットワインでノンビリ温まっていくに越したことはない。

 大きな湖があって、琵琶湖と同様に旧市街で2つに分断されている。小さいほうが内アルスター湖、大きいほうが外アルスター湖。夜の湖を一巡りする遊覧船もある。こりゃ夏にもう1回じっくり時間をとって訪問しなきゃいかんね。

 しかしこの日のハンブルク訪問は、あくまで「ブレーメンへの通り道でちょっと立ち寄った」というだけのこと。滞在時間わずか3時間じゃ、とてもこんな大きな街をクマなく見て歩くことなんか出来ない。クリスマス市を眺めるだけにしても、中途半端な訪問に終わってしまった。

 その分、ハンブルク駅構内の「ビア・バー」を満喫することにした。カウンターにズラリと並んだのは、揃いも揃って内気なドイツのオジサマ達。今井君だって十分に内気だが、ハンブルクのカウンターのオジサマ連は、みんなワタクシに2重にも3重にも輪をかけた内気の権化ばかりである。
ビアバー
(ハンブルク駅構内の「BierBar」。ハンブルクで一番気に入ったのは、このバーであった)

 お互いどうし、声をかけあうことも挨拶することも得意ではない様子。やっとのことでビアを注文すると、後はうつむいてビールをチビチビやりながら、大型テレビのスクリーンに映し出されたサッカー中継に、ごくマレに視線を向けるばかりである。

 ましてや、こんなカウンターにいきなり姿を現した東洋人(☞今井君)に声をかけるなどという壮挙は、みんな思いつきもしない。サッカーだって、試合経過が分かっているんだかかいないんだか、要するに視線のやり場に困っているだけである。

 この内気なオジサマ連のアイドルになっているのが、カウンターの中でテキパキ働いている30歳代後半のオネーサマ。1人1人の内気オジサマの好みをみんな熟知していて、客が黙っていても「あれですか?」「これでしょ?」「あれに決まってるわよね」と、グイグイお客を引っ張っていく。

 だからついついワタクシも、ここでビールを2杯もカラッポにしたのである。考えてみれば諸君、ブレーメンで赤ワイン1本、ハンブルクのクリスマス市でラム酒のタップリ入ったホットワイン3杯、その後でさらにビア2杯であるから、カウンターのオネーサマの力量はマコトに素晴らしい。

 ハンブルク発、19時。ベルリン中央駅着は21時ごろ。ここからさらにSバーンに乗り換えて、ツォーロギッシャーガルテン駅に着く頃には、夜もなかなか不気味に更けて、そろそろコワい人々が街に増え始める時間帯になっていた。

1E(Cd) Sirinu:STUART AGE MUSIC
2E(Cd) Rampal:VIVALDI/THE FLUTE CONCERTOS 1/2
3E(Cd) Rampal:VIVALDI/THE FLUTE CONCERTOS 2/2
4E(Cd) Anne-Sophie Mutter:VIVALDI/DIE VIER JAHRESZEITEN
5E(Cd) Krause:BACH/DIE LAUTENWERKE・PRELUDES&FUGEN 1/2
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